士官学校に入って三年、ついに実際に部隊に配属されることになった。 自分が行くことになったのは海軍小隊の中のひとつで、そこで士官候補生として任務に就くことが初仕事だった。
だから相手の敵意のこもった冷たい視線にも、まるで気付くことはなかった。
何しろ自分たちに戦うなと言う。
大きなお世話だと思った。 自分は早く軍人として確固たる地位を築かなければならない。そのためには多少の無茶も仕方がないと考えていた。
同期も苛立ちが募っているようで、事あるごとに自分に突っかかってくる。あえて距離を置いてもなお止めないので随分と血の気が多い奴だと諦めた。
そうするうちに、ついにチャンスがめぐってきた。 ※ ※ ※ ひゅうるり、と風が足元から吹き抜けていった。
「ぼ、ぼくには無理ですっ。許してください!」 ジェムはぎゅっと身を縮めると、とうとう堪えきれず悲鳴を上げた。ふるふると小刻みに震える膝もとっくに限界を告げている。
「なぁに言ってんだよ、後ちょっとだろうがっ」
ちゃんとタマついてんのかぁ、とかなり品の良くない言葉まで投げかけられる。 だけど無理なものは無理ですから、と泣きそうになっていると今度は上からエジルの苦笑するような声が降ってきた。 「まぁ、ここまで来ちまえば最後まで登って一休みする方が体力的にも楽じゃねぇかい。ほれ、もう一息だ」
しかしその言葉に反射的に視線をおろしてしまったジェムはくらりと眩暈をおこした。
「ご、ごめんなさい……」 甲板にくたりと座り込んだジェムは、青ざめた顔でがっくりと俯いた。 「ったく、臆病なガキだなぁ」 呆れたようなダリア船長の声に、ジェムはますます縮こまる。しかし足はいまだがくがくと震えており、普通に立っていることもままならない。 「まぁまぁ、そう気を落とさずに」 操舵手のグレーンが慰めるように肩を叩いた。 「最初は誰でもそんなものですから」 ジェムに課せられた最初の仕事とは、メインマストのてっ辺まで登ってくることだった。 船の乗組員の仕事の中でも、檣上作業は避けて通ることのできない仕事である。
そのため乗組員の訓練といえば、マストに登り高所に慣れることから始めるのが恒例なのである。 ――しかし、このマストが半端ではなく高い。
ジェムは自分が高所恐怖症だと思っていなかったけれども、ここにきてそれを認めざるを得なかった。 (そう言えば、シエロさんはマストに登らせて貰うって嬉しそうに言っていたな……) 今となっては、まったく自分には理解できない嗜好だと分かる。
乗組員の間ではジェムが初仕事を成功させるか否かで賭け事が行われていたらしく、ジェムの背後では口惜しげな舌打ちや歓喜の声とともに貨幣が飛び交っている。ジェムはさらにがっくりと肩を落とした。 「まあ、実際はマストに登る以外にも仕事はたくさんありますから」 グレーンは慰めるようにそう言ってくれるが、一方のダリアは不満そうな顔で唇を尖らした。 「グレーン。そんな甘いことを言ってたら、こいつが一人前の船乗りになれないだろうが」
なんとも無茶苦茶な理屈を述べるダリアである。
「そう言えばリアさんは船長さんなのに、どうして 途中補給のために停泊したりもしたが、基本的にマーテル号は長期間の航海を行う定期船である。海賊船のカシラであるダリアが他人の船を利用するというのも不可解な話である。 しかしジェムが率直に疑問を口にした途端、しんと一瞬周囲が静まり返り、それから大爆笑が起こった。 「くそっ、てめぇら笑うんじゃない! べっつにどうでもいいだろうが、小童には関係ねぇよっ」 ダリアは真っ赤な顔でジェムや船員たちを怒鳴りつけ、それから逃げるように踵を返して去っていた。 「その話は彼にとっては禁句なんですよ」 くすくすと、自身も堪え切れないように笑みを溢しながらグレーンは説明した。 彼らイア・ラ・ロドは略奪なども行うが、基本的には密貿易とギュミル諸島内のいくつかの小島の警護を主な生業とする海賊である。そのためギュミル諸島を離れ、他の大陸へ赴くことも多々あったりする。 「あの時私たちはアウストリ(東の)大陸へ行ったのですがね、荷の積み下ろしを終えてもう出発するぞという時になっても船長が戻ってこなかったのですよ」 どうやらダリアは酒場で深酒をし酔い潰れていたらしい。なかなか帰ってこない彼に業を煮やした船員たちは、投票でダリアを置いて出発することを決めたのである。 「たいしてお酒に強いわけでもないのに、ダリアはいつも際限なく飲みますからね。まぁ、いい薬になったんじゃないでしょうか」 シエロも隙あらば酒場に呑みに行こうとするのを思い出し、もしかするとヴェストリ(西の)大陸の血には酒好きの因子でも刻み込まれているのでは無いだろうかと考えてしまうジェムだった。
「あの……、リアさんが船にいなくて支障はなかったんですか?」
なんとも豪快な話である。船長を置いて出発するなんて普通の船では考えられないことだが、船長が絶対の権限を握っているわけではない海賊船ならば不可能ではないのだろうか。 「でも何か非常事態が起きたときなんかは、リアさんがいないと大変なんじゃないでしょうか?」 ジェムは不安そうな顔でグレーンに尋ねる。
「ダリアはどこにいても私たちに指示を出すことが可能ですからね。いざという時の連絡手段ははっきりしていましたから、さほど心配はしていませんでした」 「えっ、それってどういうことですか?」 ジェムはグレーンの言葉が理解できず首をかしげる。
「しかしどうやら少々お灸が聞きすぎてしまったみたいですね。まだその話題には触れて欲しくないようです」
ジェムは自分に置き換えて想像し、軽く身震いした。
ジェムは彼らの仕打ちに対して責めるような目を向けるが、返ってきたのは遠慮のない笑い声だった。 「おまえさんはどうやら少し勘違いをしているみたいだねぃ」 いつの間にか側に寄ってきていたエジルが苦笑する。 「もしも置いて行かれたことに対しておかしらが悲しんでいると思っているんなら、そいつは勘違いだ」
エジルは答える。しかしジェムは首をかしげた。 「でも、それっておかしくないですか? だって皆さんは船長さんの仲間なのに隙を見せちゃいけないなんて」
はっとして視線を向けると、グレーンが穏やかに笑って答えた。 「私たちは皆あの人が好きですし、信頼もしています。しかしそれは崇敬しているということとは少し違います」 彼らを繋ぐのは、単純な好き嫌いと損得勘定。
「我々は仲間ですが、同時に使うものと使われるものという関係でもあるんです。無能なカシラを持てば、困るのは自分自身。だから私たちはけして彼を甘やかしたりはしないんです」 その容赦のない断言に、ジェムはしかしほんの少し寂しさを感じた。そして今度は落ち込んだ様子も見せるジェムを見て、グレーンは思わず苦笑した。 「だけどね、結局私たちは彼の事が好きなんですよ」 彼らはダリアが船長にふさわしくないと思えばいつだって解任することが出来る。そうしないのは、皆がダリア船長の操る船に乗っていたいと思っているから。 「立派な船長でいて欲しい、成長してもらいたい。そう思う気持ちをダリアは理解していてくれてると思いますよ。だからこそ我々の期待を裏切ってしまった自分が許せないのです」 だからあの態度は信用を裏切ってしまった自分に対する苛立ちの表れなのだ。 「じゃあ、置いていったのもリアさんに成長して貰いたいから……?」
厳しく接するのも愛情のうちですよ。 そう言って、グレーンは柔らかく微笑んでみせた。もっとも――、 「グレーンの兄貴、その言い方はちょっとなぁ……」
背後では海賊たちがぞわぞわと肌を粟立たせ、顔を引きつらせていた。どうやらグレーンの代弁は、彼らにはだいぶむず痒く感じられるようだ。 「まっ、ようするにおれらは誇り高き海賊ってことだ」
海賊たちは高らかに、というよりかはむしろがなり立てる勢いで声を張り上げる。
「でもやっぱりダリアのことは好きでしょう?」 しれっと訊ねるグレーンの問い掛けに彼らはたちまち勢いを失い撃沈する。 「…………うっす」 確かに異論はないようだった。 |