第四章 3、風を喚ぶ者(1)

 


 士官学校に入って三年、ついに実際に部隊に配属されることになった。

 自分が行くことになったのは海軍小隊の中のひとつで、そこで士官候補生として任務に就くことが初仕事だった。
 士官学校からその隊に配属されたのは自分のほかにもう一人。自分を嫌っていた本島出身のエリートで、そりが合わないであろう事は始めから分かりきっていた。
 もっとも自分は早く軍人として活躍し、位を上げ、故郷の島に貢献することばかりを考えていたので相手のことはほとんど気にならなかった。

 だから相手の敵意のこもった冷たい視線にも、まるで気付くことはなかった。

 
 部隊の指揮官は、とてもおかしな性格だった。
 部隊の古参の者たちからの人気は高かったが、軍人とは思えない無責任な言動やのん気な判断が自分としてはどうにも気に食わなかった。一緒に配属された同期もその点では同感のようだった。

 何しろ自分たちに戦うなと言う。
 若者が無茶をして意味なく命を散す必要は無いと。

 大きなお世話だと思った。

 自分は早く軍人として確固たる地位を築かなければならない。そのためには多少の無茶も仕方がないと考えていた。
 それでも指揮官の命令だ。下された命令には従いはするものの後方支援や一時待機ばかりを申し付けられてばかりで、いい加減くさりたくもなった。

 同期も苛立ちが募っているようで、事あるごとに自分に突っかかってくる。あえて距離を置いてもなお止めないので随分と血の気が多い奴だと諦めた。
 二人の間には自然とぴりぴりした空気が流れるようになった。


 そうするうちに、ついにチャンスがめぐってきた。


 
 

   ※  ※  ※


 
 

 ひゅうるり、と風が足元から吹き抜けていった。
 それは何てことない潮風のはずなのに、やけにうそ寒く感じるのは全身にかいた冷や汗の所為か。

「ぼ、ぼくには無理ですっ。許してください!」

 ジェムはぎゅっと身を縮めると、とうとう堪えきれず悲鳴を上げた。ふるふると小刻みに震える膝もとっくに限界を告げている。
 足の下ではやんややんやと威勢よく野次が飛びかった。

「なぁに言ってんだよ、後ちょっとだろうがっ」
「男だろうがっ。気張れや小童!」
「そうだそうだっ」

 ちゃんとタマついてんのかぁ、とかなり品の良くない言葉まで投げかけられる。

 だけど無理なものは無理ですから、と泣きそうになっていると今度は上からエジルの苦笑するような声が降ってきた。

「まぁ、ここまで来ちまえば最後まで登って一休みする方が体力的にも楽じゃねぇかい。ほれ、もう一息だ」
「ううっ、そんなこと言われたって」
「怖いだろうけどとりあえずもう少し身体を離しねぃ。そうした方が昇りやすい。ほらあと下、下を向かないようにな」

 しかしその言葉に反射的に視線をおろしてしまったジェムはくらりと眩暈をおこした。
 甲板はすでにもう数十メルトル以上、下にあった。


 

 

「ご、ごめんなさい……」

 甲板にくたりと座り込んだジェムは、青ざめた顔でがっくりと俯いた。

「ったく、臆病なガキだなぁ」

 呆れたようなダリア船長の声に、ジェムはますます縮こまる。しかし足はいまだがくがくと震えており、普通に立っていることもままならない。

「まぁまぁ、そう気を落とさずに」

 操舵手のグレーンが慰めるように肩を叩いた。

「最初は誰でもそんなものですから」

 ジェムに課せられた最初の仕事とは、メインマストのてっ辺まで登ってくることだった。

 船の乗組員の仕事の中でも、檣上作業は避けて通ることのできない仕事である。
 展帆、畳帆いずれにしても甲板からの操作だけでは仕事にならず、必ずマストに登って帆綱を解いたり結んだりしなければならない。また上方の軽帆は夜間は使わないのが普通であるため、どんな順調な航海であっても毎日マストに登らないですむことはないのだ。

 そのため乗組員の訓練といえば、マストに登り高所に慣れることから始めるのが恒例なのである。

 ――しかし、このマストが半端ではなく高い。
 これまでの航海ではさほど意識してなかったのだが、見上げるほどに高いメインマストにいたっては数十メルトルは楽にある。

 ジェムは自分が高所恐怖症だと思っていなかったけれども、ここにきてそれを認めざるを得なかった。

(そう言えば、シエロさんはマストに登らせて貰うって嬉しそうに言っていたな……)

 今となっては、まったく自分には理解できない嗜好だと分かる。
 もともとシエロは高いところがいたくお気に入りのようで、大陸での移動の時にも野宿の際にはするすると木に登っていたりしたものだが、その際にコツでも教わっていれば良かったか。

 乗組員の間ではジェムが初仕事を成功させるか否かで賭け事が行われていたらしく、ジェムの背後では口惜しげな舌打ちや歓喜の声とともに貨幣が飛び交っている。ジェムはさらにがっくりと肩を落とした。

「まあ、実際はマストに登る以外にも仕事はたくさんありますから」

 グレーンは慰めるようにそう言ってくれるが、一方のダリアは不満そうな顔で唇を尖らした。

「グレーン。そんな甘いことを言ってたら、こいつが一人前の船乗りになれないだろうが」
「しかし彼は陸の人間ですからね、船乗りにならなければいけないわけではないですよ」
「陸でも海でも男なら一人前の船乗りになって然るべきだろうっ」

 なんとも無茶苦茶な理屈を述べるダリアである。
 マーテル号ではもうちょっと根性がありそうに思えたんだがな、とぶつぶつと呟いている彼をジェムは引きつった顔で見ていたが、ここにきてふと疑問が湧き上がってきた。

「そう言えばリアさんは船長さんなのに、どうして別の船(マーテル号)に乗っていたんですか」

 途中補給のために停泊したりもしたが、基本的にマーテル号は長期間の航海を行う定期船である。海賊船のカシラであるダリアが他人の船を利用するというのも不可解な話である。

 しかしジェムが率直に疑問を口にした途端、しんと一瞬周囲が静まり返り、それから大爆笑が起こった。

「くそっ、てめぇら笑うんじゃない! べっつにどうでもいいだろうが、小童には関係ねぇよっ」

 ダリアは真っ赤な顔でジェムや船員たちを怒鳴りつけ、それから逃げるように踵を返して去っていた。

「その話は彼にとっては禁句なんですよ」

 くすくすと、自身も堪え切れないように笑みを溢しながらグレーンは説明した。

 彼らイア・ラ・ロドは略奪なども行うが、基本的には密貿易とギュミル諸島内のいくつかの小島の警護を主な生業とする海賊である。そのためギュミル諸島を離れ、他の大陸へ赴くことも多々あったりする。

「あの時私たちはアウストリ(東の)大陸へ行ったのですがね、荷の積み下ろしを終えてもう出発するぞという時になっても船長が戻ってこなかったのですよ」

 どうやらダリアは酒場で深酒をし酔い潰れていたらしい。なかなか帰ってこない彼に業を煮やした船員たちは、投票でダリアを置いて出発することを決めたのである。

「たいしてお酒に強いわけでもないのに、ダリアはいつも際限なく飲みますからね。まぁ、いい薬になったんじゃないでしょうか」

 シエロも隙あらば酒場に呑みに行こうとするのを思い出し、もしかするとヴェストリ(西の)大陸の血には酒好きの因子でも刻み込まれているのでは無いだろうかと考えてしまうジェムだった。
 しかし肝心の船長を置き去りにして出航するなんて、悪戯にしてもさすがにあんまりな仕打ちではないだろうか。

「あの……、リアさんが船にいなくて支障はなかったんですか?」
「帰港後はまず買出しと船の補修を行う予定でしたからね。とりあえず問題はないだろうという結論になりました。それにアウストリ大陸ですでに次の獲物となる船をマーテル号と決めてましたから、襲撃時にそれに乗ったダリアも拾えると思いましたしね」

 なんとも豪快な話である。船長を置いて出発するなんて普通の船では考えられないことだが、船長が絶対の権限を握っているわけではない海賊船ならば不可能ではないのだろうか。

「でも何か非常事態が起きたときなんかは、リアさんがいないと大変なんじゃないでしょうか?」

 ジェムは不安そうな顔でグレーンに尋ねる。
 いくら事前に予定を立てていても、実際は何がどうなるかはまったく予測不可能だ。そんな時に非常時にこそ真価を発揮する船長がいないのでは話にならないと思うのだが。
 しかし彼は首を振り小さく笑った。

「ダリアはどこにいても私たちに指示を出すことが可能ですからね。いざという時の連絡手段ははっきりしていましたから、さほど心配はしていませんでした」

「えっ、それってどういうことですか?」

 ジェムはグレーンの言葉が理解できず首をかしげる。
 海を漂う船に送る連絡手段なんてまったく考えつかない。問いかけるように彼を見るが、グレーンは「まぁ、そのうち分かりますよ」とあっさりと流してしまった。

「しかしどうやら少々お灸が聞きすぎてしまったみたいですね。まだその話題には触れて欲しくないようです」
「でもそれも仕方がないと思いますよ」

 ジェムは自分に置き換えて想像し、軽く身震いした。
 もしも自分が知らぬ間に巡礼の仲間たちに置いていかれてしまったらと考えると、本当に背筋が震えるほどの不安を覚えた。もし実際にそんなことになったら、たぶん立ち直れないほどのショックを受けるだろう。

 ジェムは彼らの仕打ちに対して責めるような目を向けるが、返ってきたのは遠慮のない笑い声だった。

「おまえさんはどうやら少し勘違いをしているみたいだねぃ」

 いつの間にか側に寄ってきていたエジルが苦笑する。

「もしも置いて行かれたことに対しておかしらが悲しんでいると思っているんなら、そいつは勘違いだ」
「じゃあ怒っているとか……?」
「うん、それならある意味正解。あの人ぁ、自分に腹を立てているのさ」
「え、それってどういうことですか?」
「つまり、僕らに隙を見せた自分が許せないんでさぁ」

 エジルは答える。しかしジェムは首をかしげた。

「でも、それっておかしくないですか? だって皆さんは船長さんの仲間なのに隙を見せちゃいけないなんて」
「仲間だから、ですよ」

 はっとして視線を向けると、グレーンが穏やかに笑って答えた。

「私たちは皆あの人が好きですし、信頼もしています。しかしそれは崇敬しているということとは少し違います」

 彼らを繋ぐのは、単純な好き嫌いと損得勘定。
 それはある意味とても手厳しい判断基準。ちょっとしたことでいつ切れるかも分からない細い糸に、馴れ合いはけして含まれない。

「我々は仲間ですが、同時に使うものと使われるものという関係でもあるんです。無能なカシラを持てば、困るのは自分自身。だから私たちはけして彼を甘やかしたりはしないんです」

 その容赦のない断言に、ジェムはしかしほんの少し寂しさを感じた。そして今度は落ち込んだ様子も見せるジェムを見て、グレーンは思わず苦笑した。

「だけどね、結局私たちは彼の事が好きなんですよ」

 彼らはダリアが船長にふさわしくないと思えばいつだって解任することが出来る。そうしないのは、皆がダリア船長の操る船に乗っていたいと思っているから。

「立派な船長でいて欲しい、成長してもらいたい。そう思う気持ちをダリアは理解していてくれてると思いますよ。だからこそ我々の期待を裏切ってしまった自分が許せないのです」

 だからあの態度は信用を裏切ってしまった自分に対する苛立ちの表れなのだ。

「じゃあ、置いていったのもリアさんに成長して貰いたいから……?」
「ええ、そうですね。まぁ確かに少し意地悪が過ぎたかとも思いますが、下手に甘やかして無能な人間になられても困りますからね」

 厳しく接するのも愛情のうちですよ。

 そう言って、グレーンは柔らかく微笑んでみせた。もっとも――、

「グレーンの兄貴、その言い方はちょっとなぁ……」
「好きだとか愛情だとか、素面で言えちまえるグレーンの兄貴はある意味尊敬に値するな」
「俺らが言おうとしたら鳥肌が立っちまいます」

 背後では海賊たちがぞわぞわと肌を粟立たせ、顔を引きつらせていた。どうやらグレーンの代弁は、彼らにはだいぶむず痒く感じられるようだ。

「まっ、ようするにおれらは誇り高き海賊ってことだ」
「甘えや馴れ合いなんて糞っ喰らえっ」
「重要なのは船長がオレ等にどれだけ、おまんまとお宝を見せてくれるかってこと!」
「自由の海と金銀財宝」
「そうだそうだっ」

 海賊たちは高らかに、というよりかはむしろがなり立てる勢いで声を張り上げる。
 その激しさはまるで何かの抗議運動でもしているようで、ジェムはちょっと仰け反った。けれど、

「でもやっぱりダリアのことは好きでしょう?」

 しれっと訊ねるグレーンの問い掛けに彼らはたちまち勢いを失い撃沈する。

「…………うっす」

 確かに異論はないようだった。