第四章 3、風を喚ぶ者(2)

 


 それからジェムは海賊船で、他の乗組員たちとまったく同じような生活をおくった。
 もちろんさすがに襲撃などといった荒事に参加するのは無理なので、細々とした日々の雑務をこなす毎日だ。今のところ近くに目ぼしい獲物がいないというのも彼にとっては幸運だっただろう。
 だが、通常業務とは言え、それもけして楽なことばかりではなかった。

 マストに登る必要がある仕事、ようするに檣上作業はまだできずにいるため免除されているが、それ以外の仕事もたくさんあるというグレーンの言葉は嘘でも誇張でもなかった。

 例えば朝一番の仕事は甲板磨き。『聖典』と呼ばれる四角い石で甲板を磨いていく仕事である。
 この『聖典』という石は何か特別な石という訳ではなく、形や大きさが似ているものだからそう呼ばれる伝統らしい。ジェムとしてはなんとなく不謹慎のような気もしないではなかった。

 その後は様々だ。痛んだ帆布を縫い合わせ補強する仕事もあれば、鉤や鎹などといった金属製の船の部品を磨いていくという作業もある。

 今日のジェムの仕事は、甲板のひび割れや腐食の隙間を塞ぎ水漏れを防ぐ『まいはだ詰め』という作業だった。
 まいはだとは古い縄の繊維をほぐした物で、これを木槌で船の隙間に叩き込み、熱した木炭油を流して固める。
 もちろん雲ひとつない炎天下での作業だ。暑い日差しに曝されながらではさすがに海賊たちでも体がもたない。そのため現在露天甲板には予備の帆布で覆いが掛けられているのだが、じりじりと焼け付くような空気は北国育ちのジェムにとってそれだけで如何ともし難い問題だった。
 ただでさえ手先があまり器用では無いジェムはなんとも危なっかしい手つきで木槌を振るい、幾度となく自分の指を叩いては悲鳴を上げている。

 慣れない作業と熱気で喘ぐ彼を見かねてなのか、おもむろにやってきたグレーンがジェムに声をかけた。

「お疲れ様ですね、ジェム。あなたは少し休みましょうか」
「いえっ、大丈夫です。まだできます!」

 他の乗組員たちはまだ作業を続けている。自分だけ休ませて貰う訳にはいかないと慌てるジェムだったけれど、グレーンは首を振る。

「自分の体調を最良に保つのもここでは仕事のうちですよ。この船にも船医はいますがやはり充分な治療は難しいですし、万が一でもこの狭い空間の中で流行病が広がっては致命的です。あなたはまだ仕事に慣れてないのですから、休めるうちに休んでおきなさい」
「……はい」

 ジェムはしぶしぶと現場を離れると、グレーンにうながされ日陰に腰をおろした。

「では、これをどうぞ」

 すぐにカップに入った水を差し出され、ジェムは大慌てで手を振って拒絶する。

「いえっ、大丈夫です。のどもまだ渇いていませんしっ」
「いいから飲みなさい」

 結局有無を言わさず押し付けられる。

 船の上では真水は何よりも貴重品だ。
 誰もが大事に水を飲んでいるのを知っている分、ジェムはなおさら申し訳ない気分でちびちびと唇を湿らせる。始めのうちは遠慮していたのだが、しかし初めの一口がまるで呼び水となったように、ジェムは気がつけばごくごくとあっという間に与えられた水を飲み干してしまった。

「ああ、顔色が戻りましたね」

 ほっとしたような声。
 空になったカップの前で息を整えていたジェムはグレーンの顔を見上げた。グレーンはジェムの額に手を当てる。ひんやりと心地よい冷たさにジェムは思わず目を閉じた。

「やはり熱中症になりかけていたようです。これからは遠慮せずに水を取ってください」
「で、でもぼくだけそんな特別扱いはっ」
「我々は慣れていますから、それほど飲まなくても大丈夫なんです。しかしあなたは陸の人間ですからね、ちゃんと水分を取らなければ命に関わります」

 普段は穏やかなグレーンだが、こればかりはジェムが何と言おうとけして引かなかった。

「……スミマセン。気を使ってもらって」

 余所者でしかない自分が余計な負担ばかりを掛けてしまっていると、ジェムは肩身を狭くする。

「そうですね」

 グレーンはあっさりとした口調でうなずいた。

「でもそれが私の仕事ですから。むしろたまには手のかかる相手がいた方が遣り甲斐があっていいですよ」

 操舵手というのはそれでなくとも暇ですから。冗談めかした口調で言うのはジェムに負い目を感じさせないためだろう。しかしジェムもついついつられて相好を崩してしまう。

「それにあなたはいわばダリアのお客さんですからね。だから余計に親身に世話してあげたいと思う。それはこちらの勝手なお節介です」
「グレーンさんはダリア船長が本当に大好きなんですね」

 彼のダリアに対する気配りに思わず感心を覚えるジェムである。
 成長してもらいたいから甘やかしたりはしない、と言っていたグレーンであるがその態度はそれでも雛鳥を世話する親鳥のように甲斐甲斐しい事この上ない。それを指摘すると、グレーンは困ったように苦笑した。

「気を付けてはいるんですけどね、やっぱり態度に出てしまいますか」
「グレーンさんとダリアさんは、いったいどんなご関係なんですか」

 友人というには十かそこらの歳の開きがあるし、グレーンは常にダリアを立てている。けれどただの上司と部下といってしまうにはグレーンの態度は献身と愛情に満ちている。まるで忠実な従者、それも乳兄弟や爺やといった風情である。
 そんな彼らの間柄については、この船に世話になったときからずっと気になっていることであった。

「私にとってダリアは、まるで手のかかる可愛い弟です」

 こう言うと彼は機嫌を損ねてしまうのだけど、グレーンはそう呟いて微笑む。そして瞼の裏の記憶を読むようにそっと目を伏せた。

「同時に彼は私の命の恩人であり、私の足を奪った相手でもある」

 ジェムはぎょっとしてグレーンの右足――ズボンの裾からのぞく木の義足を凝視した。


 

 

    ◇◆◇◆◇

 


 

 それは今から七年前のできごと。

 まだダリアは船長ではなく、グレーンも操舵手ではない。共に一介の雇われ水夫でしかなかった時の話である。

 彼らが乗っていたのは小型のキャラック船であり、それは西大陸とギュミル諸島を結ぶ密貿易船だった。もっとも密貿易船とはいってもその出自は確かなもので、ようするに国による民間貿易禁止令を無視して仕事を続けている運搬船なのだった。

 ダリアは十四歳、グレーンは二十五歳。

 一回り近い年の差はあるが、お互いの立場はそう変わるものではなかった。
 ダリアは母親こそ他大陸の人間だが父方は先祖代々船乗りで、揺り籠代わりに荒波に揉まれて育ってきた根っからの海の民。一方グレーンは数年前から海に乗り出した、ようは新米船乗りだ。

 むしろ水夫という立場以外ろくに接点もない二人である。同じ船には乗っていても、さほど親密というわけでもなかった。顔を合わせれば二、三の言葉を交わしはするが、それでも何となくグレーンはダリアに対して苦手意識を感じてもいた。そんな二人の関係に変化が起こったのは、生死に関わる一大事の中である。

 大洋の真ん中で船は暴風雨に巻き込まれたのだ。

 季節外れの大時化(おおしけ)は、まるで怒り狂った竜の懐にでも飛び込んだかのようだった。風は四方八方から吹きすさび帆を押し倒そうとし、波は船を飲み込み海底に引き込もうと荒れ狂う。船はただ木の葉のようにくるくると荒波に翻弄されるのみであった。

 船員一丸となって水を掻き出したり帆を落としたりしていたが、所詮焼け石に水でしかない。 とうとう船長は主檣(メインマスト)を折る決断をした。主檣は船の中心、支えであるがこれさえなくなれば少なくとも風に煽られ船が転覆する危険は無くなる。
 船長は手近にいた水夫に斧を与え、主檣の切り倒しを命じた。

 命じられたのはグレーンだった。

 新米だ熟練だと、こんな場合では言っていられない。
 グレーンはただがむしゃらに斧を振るった。水気を多量に含んだ主檣はまるで岩のようで、叩きつける風雨の冷たさもあってすぐに手の感覚がなくなった。

 どうして自分がこんな目に。

 グレーンの胸裏で理不尽な怒りが湧きたつ。
 叩きつける暴風雨。荒れ狂う海。死にたくないという恐怖心だけがただ彼の身体を突き動かしていた。

 やがてついに主檣が倒れた。水夫たちから歓声があがり、グレーンもほっと息をつく。
 だが、その油断が命取りだった。グレーンは突然足をすくわれ転倒する。誰もが、当の本人さえ何が起こったのか分からなかった。

 グレーンは檣索、すなわち主檣に結び付けられた縄に足を巻き込まれたのだ。檣索は固くグレーンに絡みつき、右足を主檣に縛り付ける。もがくが足はいっこうに外れない。切り倒された主檣は徐々に勢いを増して、端から海中に沈んでいく。

(――もう駄目だっ)

 主檣に身体を引きずられながらグレーンは目を閉じた。

 だが――、突然滑るような移動が止まった。グレーンは甲板に転がる。
 いったい何が起こったのか。
 きょとんと上げた視線の先では、主檣が激しい水飛沫をたてて波間に沈んでいった。

 呆然とする次の瞬間、唐突に耐え難い痛みが右足から這い上がってきた。
 悲鳴を上げてのた打ち回ることしか出来ない激痛。

 霞む視界が捉えたのは、血に濡れる斧を手に立つあかがね色の髪の少年の姿。
 自分の右足は、どこにもなかった。


 

 

    ◇◆◇◆◇


 

 

 ふぅ、と小さく息を吐きグレーンは義足と生身の足との接続部分を手のひらで撫ぜた。

「まぁ、それからがまた大変でしてね。足の切断が原因で高熱を発するは主檣がないから船が漂流するは。むしろそっちの方が生きるか死ぬかの大騒動でしたね」

 グレーンは青ざめた顔で自分を見ている陸の少年に、「もうどこも痛くないですから」と困ったように笑いかける。

「最初はね、恨んでいたんですよ」
「ダ、ダリアさんをですかっ?」
「そう。ダリアに対して腹が立って仕方が無かった」

 穏やかにうなずくグレーンからは、しかしそんな様子は欠片も窺えない。

「痛いし不便だし、なんでそんなことをしたんだ。絶対に許せない、とそう思っていました」

 しかし彼は理不尽な罵倒を浴びせるグレーンに辛抱強く付き合った。時には自ら憎まれ口を叩き、自分を恨ませることで、熱に浮かされ、頻繁に死に掛けていた彼をこの世に引き留めた。

「そうやってダリアはその航海の間、ずっと私の面倒を見てくれました」

 
 やがてグレーンもその怒り、苛立ちが自分の逆恨みでしかないことに気付かざるを得なかった。
 あの状況では、主檣に固く縛りつけられた足を切り落とす以外自分を助ける方法は無い。それどころか下手をすれば彼自身も巻き込まれ命を落としていただろう。
 冷静になってみればそれがまざまざと分かった。


「本当に、間一髪だったんですよね」

 わずかでも決断が遅ければ、グレーンは主檣の道連れとなって海の底に沈んでいただろう。それを考えれば足一本で済んだのは途方も無い僥倖だ。

 だから、とグレーンは目を伏せ自分の胸に手のひらを当てる。

「これはダリアに助けてもらった命。ならばダリアにこの命の全てを持って報いろうと、私は思ったのです」

 もちろん始めはダリアもその必要はないと拒絶した。
 だがグレーンは構わなかった。嫌がられようが呆れられようが半ば強引に付き従った。ダリアもそのうち諦めてグレーンを追い払おうとはしなくなった。

「それから私たちはずっと共にいました。同じ船に乗り、同じ波を越え、同じ海を渡る」

 やがて海賊船という形で自らの船を手にした時、ダリアはグレーンにたずねた。まだ己に付き合ってくれる気はあるか、と。
 グレーンの答えはとっくに決まっていた。

 


「まぁ七年も付き合っていれば、それからも命を助けたり助けられたりと色々ありますからね。あの時の恩はさすがに返せたとは思いますよ」
「つまり、今も彼といるのはそれだけが理由な訳じゃない……?」

 ジェムは首をかしげてグレーンを見る。グレーンはうなずいた。

「ええ。彼といるのは楽しいし飽きません。まるでびっくり箱を前にしているような気分になりますからね。」

 豪放磊落な彼の性根も好ましいと思っているし。と、くすくすと微笑む。ジェムもダリアのとんでもない言動の数々を思い出し、ひくりと苦笑いした。

「だけどやっぱり、海の民というのは生来義理堅く忠義深い民なんですよ」

 優しい声で喋るグレーンではあったが、しかしジェムには今の彼は他のどんなときよりも海賊らしく見えた。

「私はね、いつか海に落ちかけたダリアを救ってやるのが夢なんですよ」

 彼はジェムに向かってにやりと何より楽しそうに笑いかけたのだった。