それからジェムは海賊船で、他の乗組員たちとまったく同じような生活をおくった。
マストに登る必要がある仕事、ようするに檣上作業はまだできずにいるため免除されているが、それ以外の仕事もたくさんあるというグレーンの言葉は嘘でも誇張でもなかった。 例えば朝一番の仕事は甲板磨き。『聖典』と呼ばれる四角い石で甲板を磨いていく仕事である。
その後は様々だ。痛んだ帆布を縫い合わせ補強する仕事もあれば、鉤や鎹などといった金属製の船の部品を磨いていくという作業もある。 今日のジェムの仕事は、甲板のひび割れや腐食の隙間を塞ぎ水漏れを防ぐ『まいはだ詰め』という作業だった。
慣れない作業と熱気で喘ぐ彼を見かねてなのか、おもむろにやってきたグレーンがジェムに声をかけた。 「お疲れ様ですね、ジェム。あなたは少し休みましょうか」
他の乗組員たちはまだ作業を続けている。自分だけ休ませて貰う訳にはいかないと慌てるジェムだったけれど、グレーンは首を振る。 「自分の体調を最良に保つのもここでは仕事のうちですよ。この船にも船医はいますがやはり充分な治療は難しいですし、万が一でもこの狭い空間の中で流行病が広がっては致命的です。あなたはまだ仕事に慣れてないのですから、休めるうちに休んでおきなさい」
ジェムはしぶしぶと現場を離れると、グレーンにうながされ日陰に腰をおろした。 「では、これをどうぞ」 すぐにカップに入った水を差し出され、ジェムは大慌てで手を振って拒絶する。 「いえっ、大丈夫です。のどもまだ渇いていませんしっ」
結局有無を言わさず押し付けられる。 船の上では真水は何よりも貴重品だ。
「ああ、顔色が戻りましたね」 ほっとしたような声。
「やはり熱中症になりかけていたようです。これからは遠慮せずに水を取ってください」
普段は穏やかなグレーンだが、こればかりはジェムが何と言おうとけして引かなかった。 「……スミマセン。気を使ってもらって」 余所者でしかない自分が余計な負担ばかりを掛けてしまっていると、ジェムは肩身を狭くする。 「そうですね」 グレーンはあっさりとした口調でうなずいた。 「でもそれが私の仕事ですから。むしろたまには手のかかる相手がいた方が遣り甲斐があっていいですよ」 操舵手というのはそれでなくとも暇ですから。冗談めかした口調で言うのはジェムに負い目を感じさせないためだろう。しかしジェムもついついつられて相好を崩してしまう。 「それにあなたはいわばダリアのお客さんですからね。だから余計に親身に世話してあげたいと思う。それはこちらの勝手なお節介です」
彼のダリアに対する気配りに思わず感心を覚えるジェムである。
「気を付けてはいるんですけどね、やっぱり態度に出てしまいますか」
友人というには十かそこらの歳の開きがあるし、グレーンは常にダリアを立てている。けれどただの上司と部下といってしまうにはグレーンの態度は献身と愛情に満ちている。まるで忠実な従者、それも乳兄弟や爺やといった風情である。
「私にとってダリアは、まるで手のかかる可愛い弟です」 こう言うと彼は機嫌を損ねてしまうのだけど、グレーンはそう呟いて微笑む。そして瞼の裏の記憶を読むようにそっと目を伏せた。 「同時に彼は私の命の恩人であり、私の足を奪った相手でもある」 ジェムはぎょっとしてグレーンの右足――ズボンの裾からのぞく木の義足を凝視した。
◇◆◇◆◇
それは今から七年前のできごと。 まだダリアは船長ではなく、グレーンも操舵手ではない。共に一介の雇われ水夫でしかなかった時の話である。 彼らが乗っていたのは小型のキャラック船であり、それは西大陸とギュミル諸島を結ぶ密貿易船だった。もっとも密貿易船とはいってもその出自は確かなもので、ようするに国による民間貿易禁止令を無視して仕事を続けている運搬船なのだった。 ダリアは十四歳、グレーンは二十五歳。 一回り近い年の差はあるが、お互いの立場はそう変わるものではなかった。
むしろ水夫という立場以外ろくに接点もない二人である。同じ船には乗っていても、さほど親密というわけでもなかった。顔を合わせれば二、三の言葉を交わしはするが、それでも何となくグレーンはダリアに対して苦手意識を感じてもいた。そんな二人の関係に変化が起こったのは、生死に関わる一大事の中である。 大洋の真ん中で船は暴風雨に巻き込まれたのだ。 季節外れの 船員一丸となって水を掻き出したり帆を落としたりしていたが、所詮焼け石に水でしかない。
とうとう船長は 命じられたのはグレーンだった。 新米だ熟練だと、こんな場合では言っていられない。
どうして自分がこんな目に。 グレーンの胸裏で理不尽な怒りが湧きたつ。
やがてついに主檣が倒れた。水夫たちから歓声があがり、グレーンもほっと息をつく。
グレーンは檣索、すなわち主檣に結び付けられた縄に足を巻き込まれたのだ。檣索は固くグレーンに絡みつき、右足を主檣に縛り付ける。もがくが足はいっこうに外れない。切り倒された主檣は徐々に勢いを増して、端から海中に沈んでいく。 (――もう駄目だっ) 主檣に身体を引きずられながらグレーンは目を閉じた。 だが――、突然滑るような移動が止まった。グレーンは甲板に転がる。
呆然とする次の瞬間、唐突に耐え難い痛みが右足から這い上がってきた。
霞む視界が捉えたのは、血に濡れる斧を手に立つあかがね色の髪の少年の姿。
◇◆◇◆◇
ふぅ、と小さく息を吐きグレーンは義足と生身の足との接続部分を手のひらで撫ぜた。 「まぁ、それからがまた大変でしてね。足の切断が原因で高熱を発するは主檣がないから船が漂流するは。むしろそっちの方が生きるか死ぬかの大騒動でしたね」 グレーンは青ざめた顔で自分を見ている陸の少年に、「もうどこも痛くないですから」と困ったように笑いかける。 「最初はね、恨んでいたんですよ」
穏やかにうなずくグレーンからは、しかしそんな様子は欠片も窺えない。 「痛いし不便だし、なんでそんなことをしたんだ。絶対に許せない、とそう思っていました」 しかし彼は理不尽な罵倒を浴びせるグレーンに辛抱強く付き合った。時には自ら憎まれ口を叩き、自分を恨ませることで、熱に浮かされ、頻繁に死に掛けていた彼をこの世に引き留めた。 「そうやってダリアはその航海の間、ずっと私の面倒を見てくれました」
わずかでも決断が遅ければ、グレーンは主檣の道連れとなって海の底に沈んでいただろう。それを考えれば足一本で済んだのは途方も無い僥倖だ。 だから、とグレーンは目を伏せ自分の胸に手のひらを当てる。 「これはダリアに助けてもらった命。ならばダリアにこの命の全てを持って報いろうと、私は思ったのです」 もちろん始めはダリアもその必要はないと拒絶した。
「それから私たちはずっと共にいました。同じ船に乗り、同じ波を越え、同じ海を渡る」 やがて海賊船という形で自らの船を手にした時、ダリアはグレーンにたずねた。まだ己に付き合ってくれる気はあるか、と。
ジェムは首をかしげてグレーンを見る。グレーンはうなずいた。 「ええ。彼といるのは楽しいし飽きません。まるでびっくり箱を前にしているような気分になりますからね。」 豪放磊落な彼の性根も好ましいと思っているし。と、くすくすと微笑む。ジェムもダリアのとんでもない言動の数々を思い出し、ひくりと苦笑いした。 「だけどやっぱり、海の民というのは生来義理堅く忠義深い民なんですよ」 優しい声で喋るグレーンではあったが、しかしジェムには今の彼は他のどんなときよりも海賊らしく見えた。 「私はね、いつか海に落ちかけたダリアを救ってやるのが夢なんですよ」 彼はジェムに向かってにやりと何より楽しそうに笑いかけたのだった。 |