第四章 3、風を喚ぶ者(3)

 


 海鳴りが聞こえる。

 低く轟々と鳴り響くその音は、遠い海の果てから放たれる何者かの唸り声。

 空の海には星の波が煌めき、月の船がゆっくりと進む。
 けれど水を湛える真実の海は夜の闇よりもなお深淵に近く、天地が入れ替わったようなその錯覚に思わず酩酊感を覚えずにいられない。

(怖いな……)

 ジェムはぶるっと身震いをした。
 海鳴りと船にぶつかる波の音しか聞こえない夜の海は、底知れない何かとてつもなく恐ろしいもののように感じられる。

 もし一片の明かりも無くこの海にひとり放り出されたら、自分は気が狂ってしまうかもしれない。

 そんなことを考えながらぎゅっと身を縮めたジェムはふいにぎしり、と波と海以外の音が耳に入り顔を上げた。ぎしぎしと断続的に聞こえるそれは、誰かが檣索を昇ってくる音。ジェムは手元にあった灯りを掲げた。

「よぉ」
「エジルさん」

 灯りに照らし出されたのは海賊船の一員エジルだった。彼はひょいっと身軽な仕種で楼上に降り立つ。

「ご苦労さん。初の見張り仕事はどうでさぁ」
「緊張してます」

 ジェムは苦笑して隣に腰を降ろすエジルに答える。ジェムは夜の哨戒の当番の最中だった。

 普通夜間は帆を降ろし停泊するのが常だが、だからといって敵もまた大人しくしてくれているとは限らない。また静かに見えてもいつ何時に変化があるか分からないのが海である。そのためすべての乗組員に夜毎の哨戒の当番が義務付けられていた。

 普段の哨戒場所である主檣最上部の檣楼にはたどり着けないジェムではあるが、それでもここ数日の間に途中の戦闘楼まではどうにか登ることができるようになった。
 もっともそれで何か得するということもなく、むしろ「ならば見張りには問題ないだろう」、と当番に組み込まれ、本来ならば二人一組のはずの哨戒番のうち一人に上を任せ、ジェムは一段低いここで役に立つか否か定かでは無い見張に精を出すことになったという訳である。

 もっともジェムの隣に座り込んだエジルは、あっけらかんとした口調でこの仕事の内実を口にする。

「まぁ眠り込まないだけ優秀でさぁ。見張り番、とは言っても何かあることは滅多にないからねぃ。今夜も平和な海だ」

「でも、怖いです」

 ジェムはぽろりと本音を漏らし、慌てて口を押さえる。

「怖いって檣楼の上がかぃ? でも僕だって平気で昇れるようになったのはつい最近のことでさぁ」
「いえ、そうじゃなくって海そのもの、とか……」

 意外なエジルの告白に驚きながらも、しかしジェムは小さく首を振った。

「夜の海はなんだかすごく恐ろしいもののように感じられてしまって」

 自分の臆病さに恥じ入りながらそう答えるのだが、しかしエジルはさも当然と言わんばかりにうなずいた。

「まぁそれが自然な反応だねぃ。むしろそうじゃないと困る」
「えっ」
「海は神様だから」

 ジェムはぎょっとしてエジルの顔を見る。
 その生業からして危険を伴いやすい船乗りは、そのためかよく験を担ぐという。そして同時に陸の人々よりもずっと信心深いらしい。しかし今の彼の言葉はジェムには耳慣れないものだった。

「あの、でも海を司るのがバローク神なんじゃないんですか」

 海を司るのと海そのものなのではかなり意味合いが異なるように感じられる。そう不思議がるジェムに、

「ああ、そっか。うん、それも正しい考え方なんだけどねぃ」

 とエジルは困ったように苦笑する。そしてしばしう〜むと悩む素振りを見せてから、これは神学的な解釈とはちょっと違うんだけど、と前置きした。

「例えばジェムだって風邪を引かないように自分の体調を気を付けたりするだろう。つまりそれはジェムがジェム自身を司っていると言えるわけ。だからバローク神が海を司っていることと、バローク神が海そのものであることは矛盾しないんでさぁ」

 世界とは是即ち神である。神とは是即ち世界である。
 そう唱えた神学者もいる。

「ようするに海とバローク神は同じ存在なんでさぁ。だからお前さんがが海に対して畏怖を感じるのは当たり前の反応なの」

 つまり海が人知を超えた恐ろしいものに感じるのは、海が神そのものであるから。神に対して畏敬を覚えるのは人間としては当然というわけである。

「じゃあエジルさんも海が怖いと思うんですか」
「怖いよ」

 エジルはあっさりとうなずく。

「僕だけじゃなく、船長も操舵手も、あらゆる船乗りが海を恐れ敬っている。むしろ逆に海を恐れなくなった人間は船に乗るべきではない。そんな甘えた考えが通用するほど、海は――海神バロークは優しい神ではないからね」

 生命を司り、数多の命をその懐に抱き育む海神バロークは、同時に軍神として崇められるように厳格で恐ろしい部分を持つ。それは豊かさを宿しながら時に荒ぶる海の姿そのものでもある。

 海で油断をすると命を落としかねないから、常に緊張感を抱いていろ。彼らの信仰心はそんな暗喩的な意識からくる部分もあるだろうが、それでも海の神聖さを崇めることは彼ら船乗りにとってはごくごく当たり前なことなのだとジェムには感じ取れた。

「……で、他には?」
「へっ!?」

 ジェムはぎくりとしてエジルを凝視する。

「他には何が恐いんで?」
「あ、いや……その、どうして」
「海そのもの『とか』って言ってやしたろ。じゃあ、他に何かあると思うのが普通でさぁ」

 それにこの間から何だか元気が無かったし。そう言うエジルの洞察力に舌を巻きつつもジェムは口ごもる。しかしいつまでもはぐらかしている事はできなかった。

「――独りが、恐いんです」
「ひとり?」

 ジェムは答える。
 ぽつりと呟かれた言葉が、今この哨戒中のことだけを指すのではないと気付きエジルはぽんと手を叩いた。

「そういえばお前さんは他の船に仲間がいるんでやしたっけね」

 当たり前のように船の一員として数えられ始めていることに、顔を引きつらせつつもジェムはうなずく。しかしエジルはなおさら不思議そうに首をかしげた。

「しかしだったら、そう思うのも当然のことじゃあねえかぃ」

 言うなれば、ジェムは仲間からひとり引き離され海賊船という閉鎖空間に閉じ込められている状態だ。
 ジェムが定期船から落ちてからもう一週間以上が経っている。ならばそれに不安と孤独を感じるのも当たり前だろうと言うエジルに、けれどジェムは複雑な表情を浮かべた。

「そうじゃないんです」

 確かにそうした孤独感に居竦んでしまいそうになる事もある。
 学院にいた時は、自分は一人でいることが怖いだなんて思ったことはなかった。むしろ誰もいない方が安心できたが、そう感じていた時に比べ同じ一人きりでも今は何もかもが不安で不安でしょうがない。

 だけど、問題はそこじゃない。

 自分は弱くなってしまったのだ、とジェムはつぶやいた。

「このままじゃ一人じゃ何もできない人間になってしまいそうで――、」

 それがとっても恐ろしい。そう吐露するジェムにエジルはいたく訝しげな顔で頭を掻く。

「繋がりがよく分からんな。なんで一人が恐くなると一人じゃ何もできなくなるんでさぁ」
「それはぼくが、甘やかされることに慣れすぎてしまったから……」

 そう言ってジェムは、ダリアとグレーンの関係を思い起こす。グレーンは成長して貰いたいからと、あえてダリアに厳しくするのだと言っていた。

 しかしそれに比べ巡礼の仲間たちはどうだろう。彼らは自分に対してどこまでも優しい。
 ここに来て初めて、自分が長らくその優しさに甘え、寄りかかっていたことに気付かされたのだ。

「ぼくは皆の力を借りずとも、やっていけるようになりたいと考えてました。だけどやっぱり上手くはいかないんです」

 例えば東の大陸からギュミル諸島へ向かうひと月の間、ジェムは誰の手も借りず他大陸の言葉で書かれた聖典を読もうと頑張った。しかしそれでも自分ひとりの力だけではダリアの手を借りたほんのわずかな時間でこなせる分量しか読むことが出来なかった。

「甘やかされ続けたぼくは一人じゃ何もできず、だから今この瞬間も周りに人がいないことが恐くて仕方が無いんです」

 ジェムは俯き、ぎゅっと唇を噛みしめた。しかし聞こえてきたのはエジルのどこか呆れたような柔らかい苦笑だった。

「なるほど。そういう流れでこの結論になっちまったわけか。いや、だけどその考えはおかしいって」

 エジルはやれやれとため息をつく。

「だってダリア船長とお前さんは性格からしてぜんぜん違うだろうよ。あの人は人一倍図太くて打たれ強い。その分放っておくとどこまでも増長していくから、時には叩いて叱って軌道修正してやらなきゃならない。だけどお前さんは甘やかされたからといって、それで良しとは思わないだろう」

 世の中には厳しく叩かれることで伸びていく人間と、逆に潰れてしまう人間がいる。
 それはどちらが優れているかという訳ではなく、単なる性格の違いだ。それを無視して同じような方法で成長させようというのは、土台無理な話である。

「向こうだってお前さんの成長を阻害しようとして甘やかしてるんじゃなかろうし、それが気に食わないんだったらお前さんは自分で自分に厳しくするしかないだろう。案外、それは他人から厳しくされるよりも大変なことかもしれないぞ」

 もしも厳しくされなきゃ成長できないと言うのなら、それは単なる甘えでしかないとさえエジルは言う。

「親が無くても子は育つって言葉もあるしよ」

 周りに関係なく好きに育てばいいんじゃいかと言われ、ジェムはおずおずとうなずく。
 そう言われると今度は、己の成長の責任さえ人に押し付けていた自分が誰よりも甘えていたような気がしてくるから、なんとも現金なものだ。
 ジェムは目から鱗が落ちる思いで俯き、それからまだぎしりと軋む胸に拳を押し付けた。

「一人が怖いって言うのも結構なことでさぁ。それは孤独を知っているということだから」
「え、あの……、どういうことですか?」
「孤独の意味を知らない人間は存外脆いということさぁ。だけどお前さんは、本当に独りというわけではないだろう」
「へっ!?」

 ジェムは思わず目を丸くした。エジルは悪戯を企むようににんまりと笑って見せる。

「今は傍にいなくても、必ず助けてくれる誰かがいる。そう信じられる人間は孤独じゃないのさ」

 ジェムはマーテル号に乗っているはずの、そしてこのギュミル諸島のどこかで一人頑張っているはずの仲間たちを思い浮かべる。

「いきなりこんな目に会っても泣き言一つ言わないお前さんを、僕はこれでもすごいと思ってるんでさぁ。でもそれは仲間が自分を待っていてくれていると信じているからだろう。それが分かっているだけでだいぶ違うもんでさぁ」

 飄々と言い放つエジルにジェムはすとんと胸のつかえが落ちるような気がした。

(ああ、そうか……)

 ひとりで違う船に乗っていることはやはり不安だ。
 しかしそれでもこの状況に耐えていられるのは、胸のうちに仲間に対する信頼があったから。

(ぼくは仲間ができて弱くなったんじゃない。皆がいるから強くなれたのか)

 不安だけではなく、寂しさだけでもなく、初めて生じた誇らしさも胸に抱きジェムは、

(早くみんなに会いたい……)

 改めてそう強く感じていた。


 

   ※  ※  ※

 
 

 翌日も海の上は雲ひとつない青空だった。
 ジェムもまた久々に晴れ晴れとした気分で甲板に上る。そんな彼の上機嫌に気付いてか、

「よお、小童。今日は何だか顔色がいいじゃねぇか」
「なんだ、もしかすると背でも伸びたのか」

 と、からかい混じりに肩を叩いてくる海賊たちに挨拶を返しながら、ジェムは大きく深呼吸をした。
 昨晩エジルに色々と泣き言を言ったことで、逆になんだか気持ちが吹っ切れた。

(はやく陸に戻って皆に合流しよう。すべてはそれからだ)

 弱い自分、情けない自分にまだ思う部分がない訳ではない。
 それでも皆のおかげでほんの少しでも変われた自分に気付けた。別に強くなったわけでも偉くなったわけでも無いけれど、そう思えるようになった自分を見てもらいたいとジェムは考えていた。

 それに陽気で豪快な海賊たちを前にしていると、自分の中の細々とした不安や欠点がすべてどうでもいいことのように感じられてしまうから不思議だ。

 もっともそんな前向きな気分になりはしても、かと言ってすぐに船を下りることができないのが海の厄介な部分である。

 とりあえず船長にあったらいつ港に着けるのか聞いてみよう。そう思いながらジェムは、今日の仕事に取り掛かった。

 今日の作業は古くなったロープから使える繊維を選り分けて新しいロープを綯うというものである。もちろんそんな技術を始めから持っている訳では無いので、一からすべて教えて貰わなければならない。
 ジェムの指導を受け持ってくれたのは、甲板で自分に貝殻をくれたあの海賊だった。

「ああ、ようやく様になってきたな」

 自分が縒り合せたロープを手にとっての評価にジェムはほっと息をつく。作り方を教わってから何度もやり直しを命じられ、そろそろ手の皮が擦り切れそうになっていたところである。
 腕の長さほどのロープを作るのにこれだけの時間と手間をかけてしまう自分の不器用さにほとほと呆れつつも、それでもこうやって目に見えて苦労が形になるとなんとも嬉しいものだ。

「小童の仕事は時間はかかるが丁寧だな。縒り目もきれいで丈夫そうだ」
「ホントですかっ」
「これでもう少し早く仕上げてくれると言うこと無しだがな」

 そう注釈はついたものの、しかし思いがけない褒め言葉を貰いジェムは飛び上がる勢いで喜んだ。

「じゃあ、もっと頑張って作りますね」
「ま、ほどほどにな」

 カイガラは苦笑して、懐から取り出した煙管に火をつける。
 せっせと古ロープの繊維を選り分けながら、そう言えば、とふとジェムは彼に尋ねた。

「どうしてカイガラさんは海賊になったんですか」
「おれか。おりゃあ十四の時からずっと船に乗っててよ」

 煙管を吹かしながら彼は笑う。

「それからかれこれずっと海一筋で生きてきたわけよ」
「ずっと海賊だったんですか」
「んなわけあるかい。まっとうな運搬船の水夫よ。東の大陸とギュミル諸島の貿易を手堅くしてた船でよ。結構待遇も良かったわけ」
「じゃあ、どうして」

 素直な気持ちで訊ねると、途端にカイガラは眉間に皺を寄せふんと鼻から煙を吐いた。
 お上がよ、船出すなとか言いやがった。彼はそうこぼした。

「これから貿易は国家の占有事業となるから民間貿易は禁止だとよ。冗談じゃねぇ。そんなことになったらこちらとお飯の食い上げよ。別の仕事を紹介してやるとか言われたけどよ、どうせ陸の仕事か軍の下っ端水夫のどちらかだ」

 どちらも嫌だと思ったから、変わらず船を出す違反の貿易船に乗り込んで、流れに流れてこの船にたどり付いたとカイガラは言った。

「そういう人ってこの船には多いんですか?」
「おれみたいな年嵩の水夫には多いかな」

 つまりこの船に乗っている船乗りは熟練の水夫が大半を占めているということだ。しかしそうすると改めてまだ年若いダリアが船長を務めていることが不思議に感じられる。

 確かに海賊船では船長を決めるのは投票であり、年功序列は関係ないとしてもやはり経験豊富な人間が船長になった方がみんな納得するのではないか。
 いったいダリアの何が海賊たちを惹き付けているのか。

「じゃあどうして、カイガラさんはダリアさんが船長やっているこの船を選んだんですか」

 ジェムはその疑問を直接目の前のこの海賊にぶつけてみた。

「ああ、それはな――、」

 しかしカイガラがその問に答えようとしたその時、割れんばかりの罵声が甲板の向こうから聞こえてきた。