第四章 4、悪徳の栄える島(2)

 


 手を貸してやる。そうは言いつつもどこか油断ならない雰囲気をかもし出す彼を前に、シエロはぽつりと言った。

「ラグーン大尉って、……誰だっけ?」

 呑気というか間抜けというか、とにかく気が抜けるその一言を受けバッツもスティグマもがっくりと膝を折った。

「ゼーヴルムだ、ゼーヴルム・D・ラグーン! お前、仲間の名前くらいきちんと覚えて置けよ!!」
「あっはっはっ。やだなぁ、ちょっとした冗談だよ。まさか本気で忘れていたわけ無いじゃないか」
「どうにも本気で言っていたようにしか聞こえなかったがな」

 ぱたぱたと手を振るシエロにスティグマもバッツも呆れたような眼差しを向ける。マレー提督もつられてくすくすと笑っていた。
 もっともシエロはそんな周囲の反応を気にするような神経は持ち合わせていない。彼はそのまま朗らかな、しかしどこか相手を見透かすような目つきでマレー提督に尋ねた。

「ゼーヴルムの直属の上司というと、それはいつ頃の話かな」
「まずは彼が士官学校を出て最初に配属された部隊でだね」

 マレー提督は記憶を掘り起こそうとするように、指折り数えてうなずく。

「じゃあ今から5、6年前かな。ギュミル諸島の戦争が一番激しかったころだ。でも不思議だね。新卒の兵がどうしてそんな大事な時期に提督の直属の部下になれたのかな」

 鋭いシエロの指摘に、マレー提督は感心を顕わにする。髭の下の口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。

「君はギュミル諸島の歴史に詳しいようだね。珍しい。東の大陸は他大陸との交流をあまり好まない所だと思っていたけれど」
「交流しないのと情報を得ないのでは、天と地ほども違うものだよ」

 シエロは肩をすくめて口端を吊り上げた。マレー提督はなるほどとうなずく。
 他の面々には何のことかさっぱり分からなかったが、それでも彼は何がしかの了解を得たようだ。

「確かに提督の配下に新兵が選ばれることは、まぁ無いだろうね。だけどその頃僕は提督じゃなかったから」
「どういうことですか?」

 スティグマが不思議そうな眼差しを向ける。マレー提督はあっけらかんとした態度で肩をすくめて見せる。

「僕はあの当時、一時降格処分を受けて前線配属を任じられていてね。同期の子ども染みた嫌がらせもあったんだが。まぁ、その時に立てた手柄で今は提督だから」

 文句は無いよ、とけらけらと笑う。ようするに、当時はまだ提督という地位を得てなかったということらしい。
 しかし話を聞く分に、何とも大らかと言うか、呑気というか、かなり鷹揚な人物であるようだ。
 もっともそれが本性なのか表向きの仮面なのかは定かではないが。

「話を戻しますが、――ただじゃないと言うことは、我々に幾ばくかの金銭を要求しているのですか」

 スティグマは慎重にたずねる。巡礼使節は神殿に旅費を負担してもらっているため普通の旅行者よりもかなり経済状況に余裕を持っている。もちろん無駄遣いは論外だが、今回のことも必要経費として申請すれば神殿から資金の提供を受けることもできるだろう。

 しかしマレー提督は首を振った。

「いやいや、そんなさもしいことは言わないよ」

 彼はにっこりと、しかしどこか底の知れない笑みを浮かべる。

「君たちには僕から情報と手段を提供するよ。実際に行動するのは君たち自身だ。その代わり――行動の過程で我々の手伝いをして貰いたい」
「つまり、金銭ではなく労働で返せということ?」
「その通り。君たちにとっても我々にとっても公平な申し出だろう」

 巡礼者たちは躊躇った。
 確かにそれは一見申し分ない取引だ。だが――、

「まぁ、すぐには決められないのも確かだろうね。だから特別に先に情報を開示してあげるよ。シャロウ君、そこにいるのだろう。入ってきなさい」

 マレー提督がそう呼びかけると、躊躇いがちに一人の少年が部屋に入ってきた。

「これはうちの士官候補生のシャロウ君だ。ちょっとした縁から私が預かっている」

 シャロウと紹介された少年はおずおずとシエロたちに頭を下げた。

「それで、マーテル号の船員たちから裏づけは取れたんだろうね」
「は、はい」

 少年はわたわたと懐から帳面を引っ張り出して指で文字をたどる。

「何人かの水夫から聞き込みをした結果、後からマーテル号に接近した船は海賊船〈イア・ラ・ロド〉であろうとほぼ断定できました。またこの船には〈イア・ラ・ロド〉の頭であるダリア船長が乗っていたということも分かっております」
「……まったく、あの坊やは他人の船で何やってるんだか」

 マレー提督は周囲には届かない小声で呟いてため息をつく。そしてシャロウに視線を戻して言った。

「続けて」
「はい。さらに海賊襲撃時に船から転落した少年を浚ったのもダリア船長であるとの目撃証言がありました」
「ジェムのことだ!」

 がばりと起きてそう叫び、バッツはくたりと寝台に崩れる。慌ててスティグマが介抱に向かった。

「じゃあ、ジェムが乗せられた船って言うのが、その〈イア・ラ・ロド〉って海賊船なのか。じゃあその船を捜せば――、」

 ぱあ、と展望が開けた気分だった。
 これまでジェムを連れて行ったのがどの船なのか、むしろいったい何から探ればいいのかもさえ分からなかったのだ。これはたいした前進である。

「良かった。やはりその少年が君たちの探し人だったようだね」

 マレー提督はうんうんとうなずく。けれど彼はふいに面白がるような目で巡礼者たちを見た。

「では君たちは、いったいどうやってくだんの海賊船を探すつもりなのかな」

 バッツとスティグマはぐっと黙り込んだ。
 当然彼らは船を持っておらず、また船を動かす方法も知らない。それ以前に海をゆく船を探す方法すらもまったく思いつかないのだ。

「〈イア・ラ・ロド〉は神出鬼没の船だ。アジトもどこか定かではない。そういう船をこの広大な海で捜そうとするには何をすればいいと思うかい」
「俺だったら罠でも仕掛けるかな」

 ひとり呑気な顔のシエロはしれっと物騒な事を言う。マレー提督はくすくすと笑うが、首を振った。

「それも悪くは無いが、少々時間がかかりすぎる。海は途方も無く広く、果てが無い。罠を仕掛ければ数年がかりの作業になるだろう。こういう時は船が必ず立ち寄る、あるいは情報が集まりやすい場所に向かうんだ」

 それには格好の場所がある。そう彼は言った。

「海賊島――悪徳の栄える島、デザイア。そこへ向かうための方法を僕は提供しようじゃないか」


 

 

 シエロとスティグマ、そしてバッツはそれぞれ顔を見合わせた。
 要するにマレー提督はそこで自分たちに〈イア・ラ・ロド〉に近付くための、つまりはジェムを探すための手掛かりを得ろと言っているのである。

 確かにどこにいるかも分からない相手を探そうというのならば、どこかで待ち伏せるか、少なくとも相手の情報を得られる場所へ向かう必要がある。

「とりあえず、色々聞きたい事はあるけれどまずひとつ」
「なんだね?」

 マレー提督は鷹揚にうなずく。

「第一にどうやって俺らをその海賊島へ連れて行こうというのさ」

 シエロは率直に彼に疑問をぶつける。海賊と海軍はまさに水と油のように混じり合わない関係だ。海軍の高級官僚である所の彼に、自分たちを案内できるような方法があるとは思えない。

 しかしその質問に対し提督は飄々と答える。

「僕個人にちょっとしたツテがあってね。信頼できる海賊に君たちの身柄を預けることにするよ。彼らの船でデザイアまで連れて行って貰えばいい」
「……海賊にツテのある司令官ってどうよ」

 巡礼者たちは呆れ帰るが、提督はあっさりとしたものだった。

「君たち、このギュミル諸島の海域にどれだけ海賊がいるか知っているかい? いちいち取り締まっていられる数じゃないんだよね。よっぽど目に付くものじゃない限りは見て見ぬ振りをしていてもいい事にしてるの」
「つまり問題が無ければ見逃しているって寸法か」
「その通り、その過程でまぁ親しくなる船も出てくる訳さ」
「ったく、それじゃあ何の為の法律か分かんないじゃねえか」

 バッツが不愉快も顕わに眉をひそめる。砂漠の民として特に厳しい戒律の中で暮らしている彼にとって、いい加減な仕組みを許す海軍の存在はなかなか受け入れがたいものなのだろう。

「じゃあ、もうひとつ。いったいそこまでお膳立てをして、いったい俺らに何をさせたいんだい」
「うん、それはいい質問だね」

 シエロの問いにマレー提督は満足そうに目を細める。

「君たちには、海賊島で探って貰いたい情報がある」
「ならここで、三つ目の質問だ」

 間断なく、シエロはきらりと瞳を輝かせた。

「海賊にすらツテのある提督殿は、どうして自ら――まぁ、部下でも何でもいいけど――海賊島に赴きその情報を調べようとは思わないんだい」

 バッツとスティグマははっと顔を上げる。確かにそれは無視できない疑問だった。
 機動力も組織力も自分たちとは比べ物にならない彼らが、いったいどうして巡礼者に取引を申し出たのか。うかうかと誘いに乗って彼らの代わりに罠にはまるようでは意味が無い。

「なに、やましい事はひとつも無いよ」

 提督は目元を和ませると、好々爺然とした態度で巡礼者たちを見回した。

「たとえ海賊の一部にツテを持っていようと、我々は海軍だ。下手に海賊島に乗り込もうものならば、よってたかって袋叩きにされるのがオチだ」
「じゃああんたらの手先となる俺らも同様なんじゃないのか」
「海賊に浚われた仲間を探しに来た人間が、ついでに別の事を聞いたって咎められはしないさ」

 なんとも頼りない事この上ないが、たぶん今はそれ以上に最良の手立ては無いだろう。

「分かりました。ここはあなたの提案に乗りましょう」
「おいっ、大丈夫なのか!」

 スティグマの言葉に、バッツはぎょっとした目を向ける。
 確かに信頼できるかどうかも分からない上に、乗り込む場所は野蛮な海賊たちが集まる島。様々な要因を顧みてもその決断はかなり分の悪い賭けだ。
 しかしスティグマはうなずいた。

「危険があるかも知れない事は充分に承知している。だが今はそれ以上にジェム君の身が心配だ。彼は己の身を守る手段を持たないからな」

 スティグマはそう言ってちらりとシエロを見る。

「俺は正直な所それほど不安ではないんだけど、まぁ探さない訳にはいかないだろうからね」

 そう言って彼は飄々と肩をすくめる。
 マレー提督は満足そうにうなずいて言った。

「それではさっそく我々の船に移るといいよ。案内してくれる海賊たちの所まで連れて行ってあげよう。そこの少年を始め、連れの子たちは僕らが責任を持って預かろう」
「ああ、そうしてくれると……非常に助かる」

 スティグマはちらりと隣室の扉を見てぼそりと呟く。その声は見事安堵と不安が半々に入り混じっていた。一方バッツは口惜しげに歯噛みしている。

「くそぅ、おれの体調が万全なら是が非でもついて行くのに」
「まぁ今回は仕方が無いさ。無理はせずに大人しく朗報を待ってな」

 シエロが苦笑してバッツをなぐさめる。

「それに何にもしなくていい訳じゃないんだよ。君にはフィオリちゃんを守ってあげるという重要な役目があるんだから、しっかり――、」

 しなくちゃ、そう続けようとした言葉はたった一言の言葉に遮られた。

「あたしも一緒に行くわ」

 ぎょっとして続き部屋の方へ視線をやると、そこには仁王立ちしたフィオリが泣き腫らした目でこちらを見ていた。

「あちゃあ、聞いてたんだ」
「な、何を言ってるんだフィオリっ」

 シエロはしまったと言う顔で天を仰ぎ、慌てた顔のスティグマはすぐにフィオリを諌めに掛かった。

「聞いていたに決まってるでしょ」

 憮然とした顔でフィオリはシエロを睨みつける。

「言った通りよ、スティグマ。あたしもその海賊島へ向かうわ」
「駄目だ、フィオリ。今回ばかりはその我が儘は聞けない」

 スティグマは毅然とした声でその訴えを退いた。マレー提督も苦笑しつつうなずく。

「女の子を安心して連れて行ってあげられるような場所じゃあないからねぇ」
「いい加減にしろよおまえ。自分がどれだけ迷惑なこと言ってるかっつうの、分かってんのか」

 バッツが蔑むような顔で彼女をにらむ。が、しかしフィオリは声を振り絞るようにして叫んだ。

「迷惑だっていうのも、危険だって言うのも、とやかく言われなくたってちゃんと分かっているわっ」

 その声の剣幕に、彼らはわずかに怯む。彼女は続けた。

「だけどそれが何だって言うの。あたしの身の危険なんて、別にどうだっていいわよっ」

 フィオリは暗い陰を宿す目で、嘲笑するように自らの顔を歪めた。

「ジェムが見つかるかも知れないっていうのに、あたしが――元凶のあたしが安全なところでぬくぬくと待っていられる訳ないじゃない」
「フィオリ、今回は本当に安全とは言えないんだ」

 それでもどうにかフィオリを思い留まらせようと、スティグマの懸命に制止するがフィオリは残酷な言葉でそれをばっさり切り捨てた。

「あたしの命よ。だったらあたしがどうなろうと、スティグマには関係ないでしょっ」
「フィオリっ!」
「行きたいって言うんだったら、行かせてみればいいんじゃないの」

 ふいにあっさりと、肯定を告げる声がした。

「一度痛い目を見れば、自分が何を言ったのか理解できるでしょ」

 軽薄ささえ感じさせる響きに反してその声音はぎょっとするほど冷たい。驚いて目を向けると、

「シエロ、もしかして気分を損ねたりしてるのか?」
「うん」

 おずおずとたずねるバッツにシエロは平然と、事も無げにうなずいてみせた。

「俺はね、安易な自己批判は好きじゃないの。だけど、それ以上に安易な自己犠牲は大嫌いなの」

 艶やかに微笑んだその顔は、しかし目だけは一切笑っていなかった。

「騙されてかどわかされるかも知れない。殺されるかも知れない。それだけのリスクを理解したうえで、ついて来たいって言ってるんでしょ」

 そうにっこりとフィオリに優しく問い掛ける。フィオリはびくっと身を震わせ、しかしそれでもきっと力強くシエロを睨みつけて言った。

「その通りよ」
「じゃあ止める理由はどこにもないね」

 うんうんとうなずいて、シエロはスティグマを見た。

「ベルさん、悪いけどあなたは残っていて欲しいな。病人のバッツを一人残すのはさすがに不安だ。まぁ、バッツの傍には医者が残る方が、都合がいいって言っちゃあ都合がいいね」
「いや、それは……、――くそっ」

 先を決めようとするシエロの言葉を一瞬制止しかけて、スティグマは滅多にしない悪態をつき彼を見た。

「それは構わないが……ひとつだけ頼みがある」
「なんだい」

 硬い表情を浮かべるスティグマにシエロは首をかしげる。

「フィオリを守ってくれ」

 シエロを見据えるスティグマのその言葉は、否とは言わせぬ力強さがあった。

「確かにフィオリは気は強いし、言い出したら聞かないし、後先を考えないような所もあるが――、」
「……言い過ぎじゃない、スティグマ?」

 フィオリは口を尖らせるが、スティグマは無視する。

「それでもわたしにとっては大切な娘なんだ。君には気に食わないこともあるだろうが、そこを曲げてどうかわたしの変わりにこの娘を守ってくれないか」

 すがるような目をスティグマはシエロに向けるが、もっともシエロは意外なほどにあっさりとうなずいた。

「構わないよ。というか、もともとそのつもりだし」
「はっ!?」

 スティグマもバッツもフィオリさえも、その答えには目を丸くする。
 きっと断られるだろうと思ったことも確かだが、そんなにやすやすと承諾するのでは、むしろ先程見せた怒気はいったいなんだったのか。
 しかしシエロはにっこりと笑ってそれに答えた。

「俺はね、安易な自己犠牲は大嫌いだけど向こう見ずな態度はそれほど嫌いじゃないんだよね」
「……お前の判断基準は良く分からん」

 がっくりと肩を落としバッツはつぶやく。それに反論する者は、当の本人も含めどこにもいなかった。