第四章 4、悪徳の栄える島(4)

 


「よし、じゃあ後をつけようぜ」

 至極当然の事のような顔をして、そう主張したのはダリアだった。ジェムはぎょっとして彼を見る。

「え、でもシエロさんは今、着いて来ちゃ駄目って」
「ばぁか。あれはな、着いて来る時はばれないようにこっそりと来い、という意味だ」
「そ、そうなんですか……!」

 あまりの超訳にジェムは呆れるのも通り越して感動してしまった。

「立ち聞きするなんて悪趣味ね、あたしはいかないわよ」

 フィオリは露骨に眉をひそめるが、ダリアは聞かない。

「勝手にしろよ、誰もお前について来いなんていってねぇよ」

 むっと眉を吊り上げるフィオリを無視し、ダリアはそ知らぬ顔でジェムの腕を引っ張ってシエロの立ち去った方へ向かっていった。


 

 
 シエロとアイセは中央の一段低い甲板の、山と詰まれた木箱の陰で、なにやらこそこそと話をしていた。
 しかしその言葉は、船で使われているギュミル諸島の言葉でもなければ、ジェムたちが普段用いているノルズリ大陸の言葉でもない。これまでにまったく聞いた事もない言葉だった。

 ジェムがいぶかしんでいると、ダリアが首を傾げながら呟いた。

「ありゃヴェストリ(東の)大陸の言葉だな。しかし随分と古臭い、けったいな喋り方をしているな……」

 東の地の言葉に堪能なダリアが訳してくれた所によると、彼らが話していた内容とはだいたいこういう感じである。


 

「だからそんな風に俺を呼ばないでってば」
「そんな事を言ったって。じゃあどう呼べばいいのよ」
「そりゃあ……、俺にはもうシエロって立派な名前があるんだしさっ」

 シエロは何とも苛ついた仕種で髪をかきあげる。

「あのね、だいたい君は初対面の癖にすごく馴れ馴れしいんだよ」

 そんな彼の様子にどこか違和感を覚えていたジェムだったか、ふいにその理由に気が付いた。

 シエロはまったく笑っていないのだ。

 普段ならば例え苛立ちをあらわにしている時だって、シエロはいつも柔らかい笑みを浮かべていた。
 むしろそれが時々空恐ろしくも思えたのだが、これほど当たり前な表情で不愉快を顕わにしているシエロは逆に珍しい。そのお陰で、今の彼は何だかとても幼く見えるほどだ。

「お生憎様ね。風霊に対してあなたが初対面なんて言うのは無意味な言葉よ」

 対するアイセもどこか刺々しい口調だった。今にもその鋭いくちばしを突き刺さんばかりの勢いでシエロに突っかかる。

「だいたいどうしてあなたがこんな場所にいるの。あなたがいる場所はここじゃなくって――、」
「俺だって好きで降りてきた訳じゃないよ。でも仕方がないじゃないか。これはあの人の望んだことなんだからっ」

 吐き捨てるように呟かれたその言葉にアイセは黙りこくる。対するシエロはまるで叱られた子供のような表情でそっぽを向いた。

「心配しなくても、為すべき事を為し終えたら、なんとしてでも戻ってみせるよ。それが俺の違えることない無二の願いだ」
「その言葉に偽りは無い?」

 アイセはどこか躊躇うようにたずねる。シエロはややあってうなずいた。

「……碧い鳥籠の黒翼に誓って」
「そう――、」

 アイセはため息をつく。それは安堵を意味するため息なのだろうが、ジェムには不思議と彼女が哀れんでいるようにも感じられた。
 シエロは自嘲するように肩をすくめる。

「それに『ヴァガンス』の名を受けた俺だもの。きっと今の境遇はあの人の意思に沿うものだとは思わないかい」
「確かに……そうかもしれないわね、シエロ・『ヴァガンス』。もういいわ」

 そうしてアイセは顔をあげる。

「そこのあなたたちも隠れてないで出てきたらどう?」
「げげ……っ」
「わっ!」

 盗み聞きしていた二人は、それがとっくにばれていた事を知って思わず声をあげる。ジェムとダリアはばつが悪そうに顔を見合わせると、揃っておずおずと物影から現れた。

「うわ、ちょっと待って……。なに、もしかするとずっと聞かれてたわけ?」

 それを見たシエロは弱りきった様子で天を仰いだ。

「――最悪……」
「ご、ごめんなさいっ。シエロさん。ぼく、どうしても気になってしまって――、」
「って言うか、どうしてあなたが気付かないのよ」

 アイセが呆れたような眼差しをシエロに向ける。

「うっさいなぁ……。俺は気配を隠すのは得意だけど、気配を読むのは苦手なのっ」

 シエロはわずかに頬を赤らめて、不貞腐れたようにそっぽを向いた。

 そんな中、「それはいいとして」と、ダリアが硬く強張った面持ちで一歩前に出た。常ならぬ彼の張り詰めた緊張感に、いったい何が起こるのかとジェムは思わずごくりと息を呑む。

「よく分からんがようするに、お前らは初対面って事だよな」
「ええ、そうよ」

 アイセがクルルっと咽喉を鳴らして首を傾げる。

「もしかして昔の男が現れたかとでも思ったの?」

 からかうようなその言葉に、ダリアはどはぁっと息をつきおもむろにその場にしゃがみこんだ。

「おうよ。てっきりよりを戻されるかと思って焦ったぜ」
「もうっ、お馬鹿さんなんだからっ」

 そう言いながらもさも嬉しげにアイセはダリアの腕に飛び移る。ダリアはアイセの小さな頭部に頬を寄せささやいた。

「お前を失えば、オレの海からは月も太陽も昇らないんだぜ」
「ふふ、おだてても駄目よ。だいたいこんなのよりダリアの方が、ずっとずっと大切に決まってるじゃないの。嫉妬しないの」

 そうやってふたりは人目もはばからずいちゃつきはじめる。それはさながら、できたてほやほやの新婚夫婦のようでもあった。

「こ、こんなのって……」

 一方いつの間にやら当て馬にされたシエロはいい面の皮である。
 がっくりと落とされた彼の肩を、ジェムは思わずそっと叩いて慰めるのであった。

 


 

「よし、それじゃあこれからの進路について決めるぞ」

 空より降り注ぐ陽光を反射し、海はちかちかとまばゆく煌めいた。
 船は波を切るように風を受けて奔る。

 黒々とした影が落ちる甲板に船員らを集めて、ダリアは力強い眼差しで彼らを見回した。

「オレとしては、予定を変えて今からデザイアに向かおうと思っている」

 その言葉に何人かの海賊たちが怪訝な顔をした。しかしそれは彼の言っている言葉の意味が理解できないから、という訳ではない。

「お頭ぁ、どうして海賊島なんかに向かうですかぃ」
「おお、いい質問だな」

 手を上げて訊ねる船員のひとりをびしっと指差し、ダリアはうんうんとうなずいて見せた。

「オレらは運の良いことに、戦うことなく上物の船を一隻手に入れることができた」

 人を喰ったようなその言い様に、海賊たちのあちらこちらからけたけたと笑い声がこぼれる。

「だが残念ながら、この船は正直オレの好みじゃない。だから手に入れた船は早々に売り飛ばして金に替えようと思う。そしたらその代金は獲物と同じようにおまえらにも分配してやるからそこの所は心配するな」

 わぁっと歓声が起きた。船の売値はけして安くは無い。嬉しげに暴れだそうとする海賊たちを、ダリアはすっと腕を上げて静める。海賊たちの視線が再びダリアに集まった。

「船を売りにデザイアへ向かったら、オレはそのままそこで情報を集めたいと思う。この船の以前の持ち主だった私略船の奴らの根城を突き止めるためだ」

 ダリアは数十人のけして少なくは無い海賊たちを、ゆっくりと見回して言った。

「お前らの知っての通り、オレは封印石が嫌いだ。だから私略船を追おうとするのはオレの勝手な我が儘に過ぎない。つまりお前ら全員に反対されれば大人しく諦める。だが――、よく考えてくれ」

 ダリアは息を詰める仲間たちに、まるで嵐のように吠えた。

「私略船のやることには誰もが腹を立てているんじゃないのか。あのくそ生意気で、海を馬鹿にしたウツボ野郎どもをギタギタに叩きのめしたくは無いかっ!」

 ――うぉおおっと、地鳴りにも似た喊声が船に響き渡った。どんどんと激しく甲板を叩く者や主楼によじ登る者まで現れて、海賊船の甲板は何だかまったく収拾がつかなくなっている。

「ダリア、待ってください」

 だがそんなお祭り騒ぎに静かな声が水を差した。

「ちょっとよろしいですか」

 そう言ってダリアの前に出てきたのは、船内での第二席。操舵手のグレーンだった。

「……なんだよ、グレーン。どうかしたのか」

 せっかくの熱弁に横槍を入れられ、ダリアは不機嫌そうな表情で自分の副官を見る。彼はまっすぐに自分を見つめるダリアからふと視線をそらし、しかしはっきりと言った。

「ダリア――、私はあえて異なる意見を言わせて貰います」

 グレーンは生身の右足と木でできた義足で甲板をしっかりと踏みしめる。

「あなたはこの船を必要ないと言うが、私はそうとは思いません。船員たちも以前に比べれば増えてきました。戦争が終わって五年が過ぎ、我々を取り巻く状況も大きく変化しました。そんな中せっかく手に入った船をみすみす手放すというのは、あまり賢い選択だとは思えません」

 ざわりと、船員たちの間でもとまどいが生まれはじめる。

「私略船を気に喰わないという気持ちも充分分かります。しかしあえて藪を突き蛇出す真似をする必要があるのですか。たとえば他に、なにかやりようは無いのですか」

 グレーンは静かに宣言した。

「私は船を手放すことなく、そしてデザイアに赴かない案を上げさせてもらいます」

 


 

「――ふぅん。てっきり船長の意見なら何でも賛成になるのかと思ったら、案外違う意見も出るもんなんだね」

 騒がしい話し合いの場から距離をとり、巡礼者たちは海賊たちのやりとりを一歩離れた場所から眺めていた。
 シエロが感心したように呟いたのを聞いて、ジェムは少し意外に思う。どうやら彼も海賊船の仕組みについては詳しくはないようだ。
 しかしそんな中、シエロがふいに自分に視線を転じたのでジェムはぎょっとした。

「どうしたの、そんな穴が空くほど見つめちゃって。なんか用事?」
「い、いえ……」

 さすがに貫通するほどの眼力は持ち合わせていない。ジェムは慌てて首を振った。

 しかし実のところ、ジェムはシエロに対して用が無いどころの話ではなかった。先程耳に挟んだシエロとアイセの会話が、どうにもこうにも気になって仕方がなかったのだ。
 だが盗み聞きしていたと言う後ろめたさもあり、ジェムはただ物言いたげにシエロをちらちらと見やるのみである。

 そんな彼の様子を傍から眺め、フィオリは呆れるように言った。

「そんなに気にするぐらいなら、始めから盗み聞きなんてしに行かなきゃ良かったのに」
「そ、そうですね……」

 まったく返す言葉も無い。
 がっくりと肩を落とし、ジェムは乾いた自嘲を漏らす。

 ダリアの誘いを受け、のこのこ着いて行ったりしなければこれほど思い悩むことはなかっただろう。それもこれも、すべては身から出た錆でしかないのだ。

 しかしフィオリは、そんなジェムをまたむっとしたようにねめつけた。

「ねぇ」

 フィオリはぐっと眉間に皺を寄せ、ジェムを睨みつける。

「別に今に限ったことじゃないけど、どうしてあなたは人の言うことに何でもうなずいちゃうの?」
「え?」

 きょとんとジェムは目を瞬かせる。

「誰かが何かを言えば、すぐにそうですねそうですねって。他人の言う事を鵜呑みにしていて、それでいいの? あなたには自分の意見というものがないわけ?」
「そ、そんなことは……」

 そんなことはない、そう言おうとしてジェムは思わず口ごもってしまった。

 他人といさかうことを極力避けたがるジェムは、できれば人の意見には逆らうまいという意識が常に働いている。
 知らず知らずのうちに、自分さえ我慢してすべてが丸く収まるのならばその方がいいと考えてしまう癖がついているのだ。

 そのうえジェムは絶対的に自分の意見に自信が持てない。
 だから他の人の言うことを、自分のそれよりもいつも優先したがる。

 だがフィオリに言わせればそれは、単に自分の言動の責任を回避しているだけの話。なんてことは無いただの卑怯者のすることだ。

「人の言う事を何でも聞くのはね、良い子とは言わないの。それはただの都合のいい子よ」

 辛らつな言葉に、ジェムはがつんと殴られたようなショックを受けた。
 ジェムが間違っても自分を完璧だとは思わないように、誤らない者なんてこの世に存在しない。
 それどころか、何食わぬ顔で他人に自分のエゴや身勝手を押し付けてくる人間はいくらでもいるのだ。

 そうした人間の言う事までもいちいち鵜呑みにしてしまうのか。眉をひそめてそう忠告するフィオリに、ジェムは青ざめた顔で首を振る。

「シエロの事だって気になるなら誰にはばからず聞けばいいのよ。自分の考えを持たず、人の言うことに唯々諾々と従っているだけではそのうち取り返しのつかないことになるんだからね」

 ――と、スティグマはよく言っているわ。最後をそう締まらない言葉で括りフィオリはつんと唇を尖らせる。

「……そうですよね――っと」

 またあっさりとうなずきかけて、ジェムは慌てて口を押さえた。 そうやってすぐに相手の言葉にうなずいてしまうのは、確固とした自分の意見というものを持っていないからだ。
 意志の弱い自分がそれを持ち得るには、まだまだ時間がかかるだろう。ジェムは先行き不確かな展望に小さく息をつく。
 だけど今の自分にだってきっとできることはあるはずだ。例えば――、

「あの、シエロさん」

 ジェムは顔をあげると、隣に立つ青年を真っ直ぐに見て言った。

「シエロさんとアイセさんは、いったいどのようなご関係なんですか?」
「……まぁ、ご立派な意思表明だけど、それを当の相手に気付くようにするのはどうなのかなぁ」

 彼は困ったような顔で苦笑する。これで素直に答えなければ、自分はとんでもない卑劣漢みたいじゃないか、と肩をすくめた。

「別に大した関係じゃないよ。たぶん聞こえていたとは思うけど、俺とあのアイセちゃんは本当に初対面なんだ」
「だけど……」

 しかしどう見ても、アイセのほうはシエロの事を見知っていたようである。シエロはあっさりとうなずく。

「うん。俺にとってはだいぶ不本意なんだけどね、俺は風霊の間では結構有名なの。昔にかなりのやんちゃをしていた所為でね」

 そう言って悪戯っぽく片目をつぶった。

 元来風は『情報』という概念に対する象徴でもある。
 その為か風霊自身も大の噂好きで、ちょっとしたネタでもすぐに全体に広まっていってしまう。もっとも彼らはいっぽうで『飽きっぽい』という性質も持ち合わせているため、大抵の噂はすぐに風化してしまうのだが。

「精霊に名が知れ渡るほどのやんちゃって、いったい何をやったのよ……」

 フィオリは不気味なものでも見るような目つきでシエロを見る。

「――そうだね。まぁ、……色々だよ。色々と」

 彼は、ははっと肩をすくめて笑うばかりで答えなかった。

「だから精霊に親しげに声を掛けられることもあるけど、実際にその精霊と知り合いってことは滅多にないの」

 シエロはあっけらかんとそう語って、青い空と海の境に視線を向けた。そして心地良さそうに船に吹く風に目を細める。
 それは一枚の絵になりそうなほどに、実に穏やかな光景だった。

 しかし――、

(――あれ……?)

 ジェムはふいに眉をひそめた。

(シエロさん、なにか嘘をついている……?)

 ジェムはシエロと共に旅をしてきた。少しずつ、その人となりも分かってきたつもりだ。

 だからこそなのだろうか。

 何気なく振り返ったシエロの青い目と視線が合った瞬間、ジェムは彼の言葉の中に嘘が混じっているような気がしてならなくなった。

 
 それは丸っきりの虚偽では無いだろう。けれど寸分の偽りも無い真実と言うにも程遠い。
 どうして気付いたのか自分でも分からないし、彼の言葉の何が嘘だったのかもはっきりとは指摘できない。
 けれど彼が平然と欺瞞を口にしていることだけは明らかで、ジェムはひどく胸がささくれ立つのを感じた。

 ジェムが思わず眉をひそめ、そしてそれに気付いたシエロがおやと眉を持ち上げた時、歓声が船に響きわたった。

 海賊たちの決断が明らかになったのだ。