行動に移るのがいささか遅かったのだろう。
彼らのあとを追って路地に入った時には、ジェムは彼らの姿をすっかりと見失ってしまっていた。
それでも何とか探し出そうと、目星を付けて路地の奥を進んでいくと、ふいに甲高い金属音が聞こえた。はっとしたジェムは音のする方へ急いで駆けていく。そして路地を曲がった所で、その光景に出くわした。
それは袋小路の先で剣を交える三人の男の姿だった。そして剣を持つ二人の海賊に庇われるようにいるのは、見間違えることはない。
――グレーンである。
「グレーンさんっ」
思わず声をかけたジェムの存在に、グレーンもはっとしてこちらを見る。だが、気付いたのはグレーンだけではなかった。
ジェムの存在に気付いたらしい男も身を翻す。自分のほうに近寄ってくる男の存在にジェムは思わず身を強張らせるが、そうした男の行動は自身に隙を生んだようだ。
素早く背後に迫った海賊の一人の剣が一閃し敢え無く切り伏せられる。ジェムはびくりと震え、反射的に身を竦ませた。
「大丈夫ですか。ジェム?」
おずおずと目を開くと、グレーンが心配そうにジェムを覗き込んでいた。
「あ……は、はい」
青ざめた顔でどうにかうなずく。恐るおそる窺うと、切り伏せられた男は、海賊たちの手によって縛られている所だった。
「殺してはいませんよ。彼には聞かなければならないことがありますからね」
「そ、そうですか……」
今の出来事をなんら気にしている様子のないグレーンのあっさりとしたその台詞に、ジェムは思わずほっと息をついた。
「ところでジェム。どうしてあなたはここにいるんですか?」
「えっと、実はですね――、」
ジェムはグレーンに、自分たちが情報屋に会うためにここまで来たこと。そして不審な男にあとを付けられているグレーンを見かけ、思わず追って来たことを伝えた。
「そうですか。ノート島の皇子殿下を探しに、ですか……」
「はい」
淡々と呟いたグレーンにジェムはうなずく。やがてグレーンはまるで独り言のようにぽつりと言葉をこぼした。
「あなたはご存知ですか。これまでにもひとりノート島の皇子殿下が行方知れずになっていることを」
「えっ?」
ジェムははっと顔をあげる。だが、ちょうど日差しが背後から差し込んでいたため、逆光となったグレーンの表情は窺えなかった。
「ノート島には現在二人の皇子がいます。しかし彼らの上にはもう一人、兄皇子がいたのです」
その皇子は兄弟の中でもずば抜けて優秀であり、ギュミル諸島の慣習を覆す形になってでもぜひとも後継者にと目されていたと言う。だが彼は、ある時を境にぷっつりと姿を消した。
「あまりに優秀であったために海神に愛され、その元に召されたとも言われています。それは今から十六年前のことです」
「そ、そうなんですか」
ジェムは驚きを隠せぬ様子で小さくうなずいた。
だがもしかすると今回の皇子殿下が失踪した件も、その時の事件と何か関わりがあるかもしれない。そう考えを巡らせるジェムに語りかけるでもなく、ただ押し殺した口調でグレーンはぽつりと呟く。
「――いったい、あの時何があったのでしょうね……」
「ええ、本当に」
ジェムはしっかりとうなずいた。これはもしかすると重要な手掛かりになるかもしれない。
「そう言えば、グレーンさんこそどうしてここにいるんですか? お仕事ですか?」
「ええ、そんなところです」
やはり海賊船の《操舵手》ともなると、様々な仕事が出てくるらしい。ふと顔をあげたグレーンは穏やかに微笑む。その様子はいつものグレーンそのものだった。
「でも、なんでグレーンさんが襲われなければならなかったんでしょう」
「ここは海賊島ですからね。こうした輩もけして珍しい存在ではありませんよ」
もともとすねに傷を持つ、物騒な人間が多く集まった場所だ。こうした騒ぎは日常茶飯事だとグレーンは言う。
「ですが、そうとは言えども私としてはダリアに無用の心配をかけさせるのは本意ではありません。ぜひともここであったことはひとつ、あなたの胸に収めておいてくださいませんか」
こんな些細なことでダリアに負担を掛けさせたくない。そう感じているらしいグレーンの思いを読み取って、ジェムは力強くそれに応じた。
「ええ、分かっています。ダリアさんには内緒にしておきますね」
「はい。ありがとうございます。念には念を入れておきたいですからね」
グレーンはそう言ってひとつ頷いた。
「ところで、ここは表通りからだいぶ離れた場所なのですが、ジェムはひとりで戻れますか?」
「え、ええっと……」
ジェムは思わず顔を引きつらせ、語尾を濁した。後先考えずに彼らを追ってきてしまった所為で、残念ながら自分がどの道をどう通ってきたのか記憶は確かでは無い。
グレーンはそんなジェムを見てひとつ頷いた。
「この路地を出たら、左へ真っ直ぐ進んでください。三つ目の角を折れてさらに進めば大通りへ出られます。私たちはこれから用事があるので送っていっては差し上げられないのですが……」
「いえ、道を教えていただいただけで充分助かります。あとは一人で戻れますから」
「そうですか。では充分お気をつけくださいね。ここは本当に物騒ですから」
グレーンの言葉にジェムは思わず笑みを引きつらせるが、それでもぺこりと頭を下げ礼を述べた。 「グレーンさんこそお気をつけて。ありがとうございます。また後で」
「ええ、ジェム。さようなら」
そう言ってグレーンは、また穏やかに微笑んだ。
十六年前に行方知れずになった皇子殿下。
今の後継者である末皇子はあまり人々に知られていないらしいけれど、長兄であるその人はみんなに慕われていたのかもしれない。
ジェムはグレーンの痛ましげな様子を思い返しながら、そんなような事を考えていた。
だけれど、そうやって気もそぞろに歩いていたのがいけなかったのかもしれない。グレーンが教えてくれた道を進んでいたつもりだったのだが、ジェムはいつまでたっても大通りにはつくことはできなかった。
それどころか、道はどんどん薄暗く、不穏な雰囲気を漂わせている。
「もしかして、どこかで道を間違えてしまったのかな……」
曲がる角をひとつ間違えたか、あるいは進むべき方向を勘違いして聞いていたのか。
びくびくと怯えたジェムは周囲を警戒しながら進んでいく。グレーンの忠告が、今更ながら不安感を増幅させていた。
もし、このまま何事もなく教えられた大通りに辿り着いていたら、ジェムの不安はただの過ぎた心配性、あるいは笑い話で終わっただろう。だがその畏れは気付けば想像の垣根を越え、現実のものになっていた。
いつしか、ジェムは自分の背後から靴音がひとつ着いて来るのに気が付いた。幾度か角を曲がってみたが、靴音は変わらずに聞こえ続ける。
試しに角を曲がる時にそっと後ろを確認してみると、それは目深にフードを被った見知らぬ男だった。そしてジェムをさらに怯えさせたのは、その腰に据えられた一振りの刃の存在。
びくりと身を震わせたジェムは、一心不乱に歩き出す。まだ自分に危害を与えようとしているとは限らないとは言え、あたりに漂う不穏な空気にいてもたってもいられなかった。
もはや背後を確認することさえできやしない。けれどその足音はどこまでも着いてくる。
ついに堪えきれなくなったジェムは、次の角を曲がると同時に駆け出した。その足音に気付いたのだろう。追跡者もまた周囲をはばかることもせずに、ジェムを走って追いかけ始めた。
走るジェムにその男はどんどんと迫ってくる。もともとの歩幅からして違う上に、恐怖に身を竦ませたジェムはふいに足をもつれさせ転倒した。勢い良く地面に倒れ伏したジェムはあわてて身を起こそうとするが、足はがくがくと震え力が入らない。
そんなジェムの様子に余裕を見て取ったのか、男はおもむろに歩調を緩めると、ことさらゆっくりと歩み寄ってきた。
荒事には慣れてはいないジェムでさえ、男から伝わってくる殺気をはっきりと感じ取ることができた。恐怖に耐え切れなくなったジェムは思わず目をつぶって頭を抱え込む。
しかし――、その時何の前触れもなく体が浮き上がった。
ジェムの口から短い悲鳴が漏れる。
慌てて開いた視界が回り、腹に圧迫感を感じる。目の前にあるのは逆さまの誰かの背中。そして普段の視点よりも近いところに地面があった。
ジェムは誰かの肩に担ぎ上げられたのだ。
驚く間もなく、ジェムを荷物のように肩に担いだ人物は走り出す。背後からは追跡者の怒号が聞こえるが、ジェムを抱えた人物に足を止める気配は感じられなかった。
ジェムは揺れに振り落とされそうになるのを、必死で身を縮めることで堪えた。
地面は近く、安定感も悪い。どうやら自分を担ぎ上げている人物は、非力ではないにしても随分と小柄なようだ。少し立つと息遣いに荒いものが目立ち始めていた。
やがて視界の端に移る周囲の様子が薄暗く不潔な路地裏から、比較的清潔なものに変わった。通りの奥に目をやると、人の多い道に繋がっているのが見える。
そしてジェムはそのままいささか乱暴に地面に投げ出された。
誰かの肩に担がれたままの逃走は非常に目が回り、地面に下ろされてもまだ頭がフラフラする。
「――油断なさらぬように」
ぼそりとかけられた声にジェムははっと顔をあげる。ジェムの窮地を救った人物は素早く背を向け走り去っていった。
だけれど、ジェムにはその後姿が良く見知った――忘れたくても忘れられないものであるようにしか思えなかった。
「まさか……でも、どうして――、」
ジェムはしばらくのあいだ、ぽかんとした表情のまま呆然とその場に座り込み続けていた。
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