第四章 6、精霊が紡ぐ歌(3)

 


 それはあまりにも唐突な凪だった。
 そして風霊の寵愛を受ける〈イア・ラ・ロド〉にとっては、その航海上初めて遭遇する凪でもあった。
「これは、いったいどういうことだ!?」
 誰も想像だにできなかった事態に、船長であるダリアは慌てた様子で船内から飛び出してきた。
「ダリア、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるかっ! アイセ、アイセっ! どこにいる。聞こえないのかっ!?」
 グレーンが落ち着かせようと声を掛けるが、ダリアはまるで子供のように首を振る。そして自分に加護を与える風霊の名を呼ぶが、それに応えて現れるはずの純白の鳥はどこからも姿をあらわさなかった。
 時間が止まったように、周囲は不気味な沈黙に包まれている。
 それもそのはず。船を取り巻くのは寄せては返す波の音色でも、帆に押し寄せる風の歌でもなく、船員たちの不安と緊張による張り詰めた呼吸だけ。
「いったいどうなっちまったんだ……」
 ダリアは眉根を寄せて頭を掻き毟る。しかし事態がわからない以上は手の施しようがない。通常の船が凪に見舞われたときの定石どおり、ただ黙として事態が改善されるのを待つしかなかった。
 だが、初めてのことである分、船員たちの動揺は激しかった。
「まさか、ずっとこのまんまってことはないよな……」
「水にも食料にも限りがあるじゃねぇか」
「これから、どうすればいいんだ――?」
 これから訪れるであろう不明瞭な、しかしその到来がほぼ確実であろう不吉な予想。それに押しつぶされそうになる焦燥感。誰かがぽつりと呟きを漏らす。
「あの私略船さえ残してあればあるいは――、」
 ざわざわと船員たちの不安が高まりつつある中、ふいに力強い声が彼らの耳を打った。
「落ち着きやがれ、お前らっ!!」
 はっとして視線を向ければ、どうにか自身の恐慌を振り切ったらしいダリアが厳しい目つきで彼らを見ていた。こうした切り替えの速さこそが彼の船長としての資質でもあるのだろう。
 ダリアは自分に視線が集まると、朗々と張りのある声を彼らに叩きつけた。
「この程度のことで何を動揺する必要がある。お前らは何者だっ。お前らは誇り高き海賊《イア・ラ・ロド(夜の魚)》の船員だろうっ!! もっと気持ちを強く持て!」
 びくりと雷に撃たれたかのように海賊たちの肩が震える。
「この事態は必ず俺が何とかしてやる。それが船長としての俺の務めだ。だからお前らも自分の役割をしっかりと果たせっ」
 ダリアはふと目をすがめ、部下の何人かに直接指示を与える。
「カザミ、お前はマストに登れ。周囲の警戒を怠るな。カイガラは武器庫の確認だ。クイ、キフジン、ヤマネコ。お前らは風が吹いたらすぐに帆の向きを調整しろ。あとはそれぞれ持ち場にもどれっ」
 ダリアの指示に、海賊たちは威勢よく返事をしてそれぞれ散っていく。
「グレーン、下っ端。お前らはこっちに残れ。シエロ、お前もちょっと意見を聞かせろ」
 ダリアに呼ばれたシエロは不思議そうに首を傾げるが、素直に彼の元へ近付く。ジェムとフィオリもその後についていった。
「お前ら、この凪をどう思う?」
「どうって……」
 真剣な眼差しのダリアに、ジェムもシエロも表情を硬くする。
「俺の目が正しければ、この海域の目に見える範囲に精霊の姿はない。どうだ?」
「ぼくの目にも精霊は見えませんねぃ」
「こちらもおなじ。水霊も風霊も見当たらないね」
 精霊の姿を見ることができないジェムには分からないけれど、精霊使いである三人にはその違和感をしっかりと感じ取っているらしい。
「こんなこと初めてだ。この海から精霊の一切がいなくなったことなんて、これまで一度もない。普通はありえないだろう」
 ダリアは呟く。その言葉にジェムもはっと顔をあげた。
「それってまさか――、」
「つまりだ。グレーン、私略船の情報をお前はいったいどこから仕入れてきた」
「……ダリア?」
 きょとんとした視線を向けてくるグレーンに、ダリアは厳しい表情を崩さなかった。
「こんな広範囲の海域からあらゆる種類の精霊の姿が消える。こんなこと、封印石による外法しかありえない」
 そして、とぎりっとダリアは歯を食い縛る。
「こんな所で立ち往生しているということは、俺らは罠にはまったとしか考えられないだろうっ」
 折しもその瞬間、ガンガンガンっと鐘楼が勢い良く打ち鳴らされた。誰もがはっとして視線をマストの上に向ける。
「敵船発見っ! 私略船です! こちらを標的に定めて向かってきます!」
 見張りを任されていたカザミと言う名の海賊が声を張り上げる。ジェムは目を丸くした。
「えっ、どうして!? 風が吹かなくて船が動かないのは向こうも同じなのに!」
「忘れたか? 私略船は風がなくても動く」
 その言葉にジェムは思い出した。ノルズリ大陸籍の私略船は、精霊の力を借りることがないため櫂を備えている。
 このままでは遠からず私略船はこの船に辿り着くだろう。
「攻撃を仕掛けるにしても、矢を射掛けられるにしても動くことのできないこの船はいい標的でしかありませんね」
「ああ、その通りだな」
 グレーンの言葉に、負け惜しみなのか、苦虫を噛み潰したような顔にダリアは無理やり笑みを浮かべた。
「いったいどうすれば……」
 泣きそうに顔を歪めそう呟いたジェムの肩に、誰かがそっと手が掛ける。振り返るとそれはシエロだった。
「船長、少しの間でいい。マストに登らせてくれ。そしていつ風が吹いてもいいように備えておいて欲しい」
 怪訝そうな顔のダリアが尋ねる。
「いったい何をするつもりだ」
「風を吹かせる」
 その場にいた誰もがぎょっとする。
「で、でも精霊はここにはいないんでしょっ。どうするつもりなのよ」
 フィオリが声を張り上げるが、それは誰の胸にもあった言葉だった。
 精霊魔法とは、すなわち精霊の手を借りて力を行使する術だ。精霊が封じられているからこそ、風霊の愛し児であるダリアでさえこの凪に手も足も出ないのだ。
「何をするかは秘密。だけど、ちょっとだけ俺を信じて欲しいな」
 シエロはジェムを覗き込む。
「ジェム、悪いけど君に手を貸して欲しいんだ。ちょっと付いて来てくれないかな」
「付いて行くって、まさか……?」
 ジェムはひくりと顔を引きつらせてシエロを見る。シエロはくいっとその場所を顎で示して見せた。
 それは見上げるほどに高い主檣最上部の檣楼だった。