第四章 6、精霊が紡ぐ歌(2)

 


 そこは水と緑が豊富な、宝石の様に美しい島だったと伝えられている。
 南海に浮かぶ小さなその島は、海を行き来するすべての者にとっての楽園だった。
 真水が何よりもの貴重品となる海上において、その島には滾々と真水が湧き出る泉があり、人々はいつでも自由にその恵みを甘受することができた。
 そこは精霊の護る島だと言われていた。真水の湧き出る貴重な泉は島を守護する水の精霊によって得られる糧であると。
 精霊の存在は神の慈悲の顕現である。
 だからこそ人々はその水を独占しようとせず、誰もがその恵みを自由に得ることができた。
 けれど、時代はそうした人々の敬虔な思いを許さなかった。
 時は戦時下。大陸内での戦ではなく、大陸同士の大規模な戦争が起きていた時代である。
 誰もが自由に物資を補給することのできる島は、戦略上において重要な拠点となった。
 それを企てたのは、他大陸の人間か、あるいはギュミル諸島の人間か。どちらにしても、いずれかの陣営はその小さな島を敵の手に落とさないために、最悪の手段に出た。
 封印石による外法で、周囲の海域ごとその島を封じたのだ。
 結果、人の望みの通りに泉は枯れ果てた。
 精霊による加護を失った島は、水を失い緑を失い、生き物の気配すら失った死の島へと変貌した。
 それから三百年たった今でも、島は元の姿には戻っていない。



 決行時、術の核となる封印石は海の底に沈められた。
 それまでも封印石が使われたことは幾度となくあったけれど、術を解く方法を持たないまま島ひとつ囲むほど大規模な術が使われたのは、その時がはじめてだったらしい。
「まさかその作戦を指示した奴も、三百年たっても術の影響が残り続けるとは考えていなかっただろうよ」
 ダリアはその愚考を嘲笑う。
 封印石はそれほどまでに自然の摂理を歪める。封印石が大神殿のご禁制の品に数えられるようになったのはそれ以降の話だ。
「だが、大神殿が禁じようがいまいが、俺が封印石を気に食わないのは変わらない」
 もし自分の愛する島々が、道理の分からない人間によって死の島へと変貌させられたら。
 それを思うと、ダリアは到底封印石の流通を見逃すことができなかった。実際に、途方もない年月の間、無残な姿を晒し続けている島の姿を間近に見続けてきた分、なおさらに。
「最近は精霊兵器なんてのがあるらしいけれど、それも封印石と大差ない代物だろうよ」
 ダリアはそう吐き捨てる。
「だからこそ余計に、オレの縄張りでそんな物騒なものをやり取りされるのは許せないんだよ」
 海を自らのものと言い放つかのように海の色を宿す碧い瞳は、真っ直ぐな力強い意思を宿してそよとも揺らぐ様子を見せない。
 ジェムは彼が、この海を深く深く愛しているのだという事を改めて実感した。
「そう言えば、その島を守っていたという精霊はどうなったのかねぃ?」
 ふいに呟くエジルにダリアは視線を向ける。
「さてな。言い伝えでは愛する島から離れることができず泉が枯れるのと一緒に消滅してしまったとも、海神の寵愛を深く受けた精霊だったからその寸前に神の手により深い眠りについたとも言われてるがな。如何せん大昔の話だし、詳しいことは良く分からん」
「……精霊でも死んでしまうことがあるんですか?」
 思わず口にしてしまった疑問の言葉に、エジルとダリアは同時にジェムを振り返る。ジェムは恐縮して縮こまった。
 怪訝そうなその顔に、どうやら自分は常識外れの事を聞いてしまったのだと悟った。
「……そりゃ、精霊だって死ぬことがあるに決まってるんだろうよ」
「まぁ、ジェムはノルズリ大陸の人間だしねぃ」
 呆れた口調のダリアを宥めるようにエジルは苦笑し、精霊は基本的には不死に近い存在であるとした上で、例外を語ってくれた。
 精霊は一般的な生物とはことわりをまったく別にした存在である。
 怪我をすることもなければ、病にかかることもない。稀に力を増して成長することはあっても老いることはせず、死の概念すらも持たない。だけどそこには例外も存在する。
 精霊が死ぬのはおおよそ二つの場合に分けられる。
 ひとつは物と深く結びついた精霊が、その宿体から無理やり引き離されたとき。
「例えば植物や宝石といったものに精霊が宿ることがままあるんだけど、宿ったものを破壊されたりそこから引き剥がされたりすると消滅してしまうことがあるさねぇ。もうひとつは、精霊が力を使い果たしたとき」
 精霊と言うのは一種のエネルギー体であると言われている。精霊の持つ力それ自体が、精霊そのものと言って過言ではない。
「だから力を枯渇させてしまうと、精霊はその存在を保つことができずに消滅してしまうってわけでさぁ」
 もっとも、精霊に関してはまだ分かっていないことの方が多いから、それもどこまで正しいかは定かでは無いけれど。そうまとめてエジルは口を閉じた。
「エジルさんって、すごく精霊に詳しいんですね……」
 すらすらと淀みなく語られるエジルの講釈にジェムは唖然として聞き入るしかなかった。それは自身が風霊の愛し児として精霊を身近にしているダリアにとっても同様であったらしく、なにやら意外なものでも見たような目つきでエジルを見ていた。
 ジェムの感嘆交じりの賞賛にエジルはわずかに視線を逸らし、居心地悪そうに乾いた笑いを浮かべる。
「あはは。いやぁ、そのう……一応ぼくも精霊魔法が使えるからねぃ」
「はぁっ!? なんだよそれ。めちゃくちゃ初耳だぞ」
 途端にぎょっとした様子のダリアがエジルの襟首を掴み上げる。たぶん本人に害意はないはずだけれども、乱暴な仕種にジェムは反射的に怯えてしまう。
「ほ、ほらおかしら。小童が怯えてますぜぃ。落ち着いて、落ち着いて下せいよぅ」
「うっせぇっ。そんな大事なこと、よくぞ今まで黙っていやがったな」
「大事って、別にオレはおかしらみたいな精霊の愛し児とかでもなくて、単にちょいとばっかし水霊魔法が使えるだけなんですってばっ! ほら、おかしら。グレーンの兄貴が呼んでますぜぃ」
 視線を向けると確かにグレーンがこちらを見て、ダリアを呼んでいる。
「くそっ、運の良い奴め。いいか、戻ったら直ちに膝詰めで問い質してやるからなっ」
 指を突きつけてそう捨て台詞を吐くと、ダリアは悔しそうにグレーンの元へと向かっていく。
「はぁ、そいつはぞっとしませんねぃ」
 わざとらしくエジルは震えて見せる。
「果たしてこの狭い船内のどこに隠れて、やり過ごすとすっかねぃ」
「エジルさん、逃げるつもりなんですかっ!」
「だって船長のあの勢いだと、うっかり絞め殺されてもおかしくないじゃねぇかい。まぁ、船舵手殿と話して多少は頭が冷えてくれりゃあいいんだけどねぃ」
 目を丸くするジェムにエジルは笑いながらあっさりとそう答える。
 そのあまりに飄々とした様子に、ジェムは思わず吹き出した。
「無事に逃げ切れるといいですね」
「まぁ、逃げ足と運のよさには自信があるからなんとかなるさね」
 しかし結局、エジルはダリアから逃げる必要はなく、ダリアもエジルを問い詰めることはできなかった。
 それどころではない事態が、この〈イア・ラ・ロド〉に降りかかったのである。


 死の島を窺い見る海域からさらにどれだけ走っただろう。
 ジェムとはまた別の場所で、海賊船員たちの邪魔だかちょっかいだか手伝いだかをしていたはずのシエロが、フィオリをつれてジェムの所にやって来た。だが、その様子はどこか尋常では無い。
「悪い、ジェム。船長さんを知らないかい」
「え、ダリアさんならグレーンさんとお話をされていましたけど、なにかあったんですか?」
 緊迫した様子のシエロに、ジェムは何やらただ事ではないと感じ取る。シエロに連れて来られたらしいフィオリもまだ事態を把握し切れていないようで、不安げな眼差しで彼を見上げていた。
「風の様子がおかしい」
 シエロはそう言う。その言葉にジェムもようやくこの船に吹き寄せていた風の勢いが弱まっていることに気がついた。
 だがおもむろにシエロは首を振る。
「いや、もはや風どころじゃない。この海域自体あまりに異常だよ。すぐにでもここから離脱したほうがいい」
「え、それってどういうことなんですか?」
 ジェムの言葉にシエロは断言した。
「ここに、精霊の姿は一切ない。精霊がどこにもいないんだ」
「え、それって――、」
 ジェムが聞き返すその間にもさらに風は弱くなっていく。
 そしてとうとう風はやみ、船はその動きを止めた。