私略船からの攻撃によって、《イア・ラ・ロド》は混乱の極みに陥った。
ただでさえ、グレーンの裏切りによる動乱の中、誰を信じればいいのか、何を行えばいいのか戸惑う海賊たちの動きは鈍かった。
けれど、私略船からの攻撃は止むことなく続いている。海賊船には船の破壊音と、海賊たちの悲鳴が響いていた。
「奴らははじめから、この船を沈めるつもりだったんだろうねぃ」
厳しい目つきをしながら、エジルは呟く。
「私略船もその裏で糸を引いている奴らも、《イア・ラ・ロド》を傘下におさめるつもりは毛頭なかった。やはり船長の言うとおり、グレーンの兄貴は騙されたんだろうねぃ」
エジルの言葉はすでに確信を得ているかのような物言いだった。ジェムにはその揺ぎ無さが不思議に思えた。
「どうして……?」
どうして、そこまで確信を得ることができるのか。どうして私略船は《イア・ラ・ロド》を沈めようとするのか。
どちらの問いも含められたジェムのつぶやきに、エジルはわずかに言葉に詰まる。
「それは……」
「そんなこと、今はどうでもいい! 売られた喧嘩は、買うだけだっ! ――お前ら聞け!」
ダリアが声を張り上げる。こんな場合であるにも拘らず、凛としたその声は甲板の隅々まで響き渡った。
「仲間割れだとか、そんなことは今はどうでもいい! 優先すべきなのは、この危機的状況から如何にして脱出すべきかと言うことだ。そのためには敵だ味方だと仲間内で揉めていたら、奴らの思う壺だ。戦いたくないと言うやつは、無理に戦えとは言わない。だが、自分たちの命と、そして何よりも誇りを守るために、お前らがここで踏ん張らなくてどうする! 船長からの命令だ! 総員、今すぐに戦闘配置に着け!」
『おおおーっ!』
力強いダリアの言葉に、浮き足立っていた海賊たちは一気に統制を取り戻した。それぞれ駆け足で自分たちの定位置につき、反撃の準備に取り掛かる。
そんな中、呆然としているグレーンの元に近付いたダリアは、厳しい眼差しのままもっとも近しい仲間であった操舵手に声をかける。
「お前は、このままここにいろ。そして、自分がしたことの結末をしかとその目に焼き付けろ」
グレーンはぐっと唇を噛んで、俯く。杖を握った手が、小刻みに震えていた。
「船長、大変です! 後方から、別の船がっ!」
見張り台にいた船員カザミから、焦ったような声が降ってくる。
ぎょっとして視線を向けると、数台の船が隊列を組んでこちらに向かってくる様子が遠くに見えた。
「くっ、新手か!」
ダリアが悔しげに毒づく。だが、顔をきっと上げると、声を張り上げた。
「新手のことは気にするなっ! まだ距離がある。個別撃破を狙うんだ! 風向きに注意して、挟み撃ちにされないようにだけ気をつけろ!」
だが、その時私略船から新手の攻撃が行われた。ぼうぼうと燃える火の塊が飛んでくる。
油を入れた樽に布を巻き、火をつけて飛ばしてきたのだ。
「しまったっ」
ダリアは焦る。船にとって、火の気はもっとも危険な存在だ。一度火が回れば、もはや消火する術を持たない。
「おい、お前らすぐさま消し止める準備をしておけ――っ」
ダリアが声を大きくして叫ぶ。炎のかたまりは船に向かってどんどん近付いてきた。
だが、突然炎が激しく燃え上がったかと思うと、樽はあっという間に燃え尽きて消し炭が海へ落ちた。
ダリアも海賊たちも、もちろんジェムたちも呆然としてその様子を見る。
一方の私略船にとっても予想外の出来事であったらしく、すぐさま次の火の手が飛んできたが、それもまた空中で一気に燃え尽きて海に落ちた。
「な、いったいなんだ……?」
驚きを隠せないダリアの声を呆然と聞いていたジェムであったが、ふいにその腕を引かれて振り返った。嬉しげな笑みを浮かべたシエロが黙って海の向こうを指差す。そしてそこでようやくジェムにもぴんと来た。
「え、なに? いったいこれってどういうことなの?」
いまだ状況をつかめないフィオリがおろおろとシエロとジェムの袖を掴む。
「頼もしい増援がきたんです」
ジェムはもう一方から迫ってくる船団に目をやる。もうだいぶ近付いてきた船は、海賊船にも私略船にも見えない。
「あれは――海軍の船だっ!」
誰かが叫ぶ。船べりに駆け寄り大きく身を乗り出したジェムは、船首に立つ一人の人間に気付き、顔を輝かせた。
大きく手を振り、そして叫ぶ。
「バッツさんっ……!」
まだだいぶ距離があるにも拘らず、懐かしい仲間の浮かべる強気な笑みが目に飛び込んできたかのようにジェムには感じられた。
狭く薄暗い船の廊下を支えられるようにして、まるで這這の体と言わんばかりの様子で歩いている一人の少年がいる。
「先生……、あんたはおれを殺す気か……」
その声は力なく、しかし怨嗟の篭った恨みがましそうな語調である。
それもそのはず。彼はここひと月近い間ずっと寝込んでいたベッドからほとんど無理やりのように連れ出されているのだ。
「殺す気かなんて、大げさだな」
そうやって苦笑を返すのは、無精ひげを生やした背の低い地の民の男性――スティグマ・ベルクライエン医師だ。彼に引きずられるようにして歩いている少年は、浅黒い肌にびっしりと色鮮やかな刺青を入れた砂漠の民シェシュバツァル・フーゴである。
「少しだけでいいから甲板に出ようと言っているだけじゃないか。うまくいけば、君にとっても事態が好転するかもしれないんだ」
「甲板なんて、最悪だ! 海が近いんだぞ!」
バッツは悲鳴のような声を上げて足を踏ん張るが、さすがにバッツとスティグマでもそこにははっきりと体格差がある。なによりも調子を崩している状態では、スティグマに抵抗することもできずずるずると廊下を引きずられてしまっていた。
「海が近いといったら、船室の方が近いだろう。あっちは壁を挟んだ反対側が海になるんだぞ」
「うぐっ……」
スティグマの反論に、バッツは思わず言葉を詰まらせ顔を青ざめさせる。
火の民であるバッツは海が苦手だ。元から船酔いをする体質らしく船に乗るとすぐに気分が悪くなるし、火霊の愛し児の彼にとって火の元素が極端に少ない海上は最悪に居心地の悪い場所でしかない。
それは医者でありこの航海の間ずっと自分を診てきたスティグマなら分かるだろうと、バッツは涙目で訴えかける。
「そう。そこが私には気に掛かる部分なんだ」
スティグマは小首を傾げて一人ごちた。
「確かに、海や船の上は炎を発生させるような火の気はほとんどないだろう」
台所の竈でさえ、波の高さと船の揺れ具合によってはすぐに火を落としてしまうほどだ。
「だが、なにも炎だけが『火素』というわけではないのではなかったかい」
バッツは目をぱちくりと瞬かせる。スティグマは、これまでずっと考えていたんだと、すらすらと神話の一節を唱えた。
『地神が眠れる金の獣に手を伸ばすと、獣はその指に噛みついた。指先からは一滴の血が零れた。地神の熱い血が金の獣のたてがみを赤く染めると、それは瞬く間に眩き熱《炎》へと変じた。』
「すなわち太陽――金の獣の輝くたてがみと、地神の血の一滴が合わさって生まれたのが炎の神『イグニアス』だろう」
海神バロークが海を含む全ての水を司っているように。
空神セレスティンが風と大気を司るように。
炎の神イグニアスが司っているのは光と熱なのだ。
「ここには確かに火の気はないよ。だけど、光と熱ならいくらだってあるじゃないか」
スティグマはバッツの手を引き、暗く薄ら寒い船内から外へと連れ出す。
甲板に上った途端、バッツは眩い南国の太陽の日差しに目を細め、帆をはためかせる熱をはらんだ潮風を全身に浴びた。
砂漠の少年の瞳が、まるで水を得た魚のように輝いた。
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