第四章 7、裏切りに求められる代償(3)

 


 ようするに半分は彼の思い込みもあったのだろう。
 生まれつきの酷い船酔い体質に加え、海は天敵、水は苦手という考えが染み付いていた。そのために海の見える甲板には近寄らず、ずっと薄暗い船室に篭りきりでいたことが逆に仇となっていた。
 そんな呪縛を振り切り、眩しい太陽の光と熱い南国の空気を充分に浴びた彼はこれまでの不調を覆そうとするかの勢いだった。
「海の上にせっかく生まれた炎をこんなことに使いやがって! 火霊が赦しても、おれが許さないぞ! その腐った根性を叩きなおしてやる!」
 たぶんそんなようなことを言っているのだろう。まだ距離があるのでその言葉の内容までは届かないが、船首に立ちなにやら喚いている様子のバッツを見れば、その言っている言葉はなんとなく想像がつく。
「バッツさん、すっかり元気になって」
 ジェムはほっと胸を撫で下ろした。長らく弱りきった姿ばかりを見てきたから、こうした元気な様子のバッツを見ると状況も顧みずなにやら安心してしまう。
「それよりも、スティグマは? スティグマはどこなの?」
 負けじとばかりのフィオリも身を乗り出して目を凝らしている。やはり彼女にとって一番気に掛かるのは大事な養父の存在らしい。
「本当に助かりました。これで状況は一気に……」
 しかし隣を見ると、肝心のダリアはなにやら顔を引きつらせている。若干顔色も悪い。
「ダリアさん……?」
「まったく、この忙しい所に厄介な奴らが……。お前ものん気に喜んでるんじゃないってぇのっ」
 ぺしっと頭をはたかれて、ジェムも気がついた。自分にとっては頼もしい援軍でも、海賊であるダリアにとって海軍は犬猿の仲であるある相手。言うなれば、今の状況は三竦みになったというわけだ。
 反対を見れば、エジルもなにやら落ち着かない様子でそわそわしている。
「仕方がない……」
 ダリアは再び船員たちに向かって声を張り上げる。
「おい、お前ら! 面倒臭いやつらがおこぼれを預かりにしゃしゃり出てきやがった! 邪魔をされないうちに、さっさと片付けて、さっさとずらかるぞ!」
 おおーっと、海賊たちからも威勢のいい返事が返ってくる。満足げに頷いたダリアはぼそりと呟く。
「平時だったらいくらでも遊んでやってもいいがな。もっとも、あの男がいなくなってから、軍も骨がなくてつまらん」
「あの男……?」
 ジェムの視線に気付いたのか、ダリアが答える。
「ああ、以前海軍の管轄化にあった海上警備隊に面白い男がいてな。左遷にあったのか辞めたのか、最近はちっとも顔を見ないが……ん?」
 ダリアが私略船の方を見る。ジェムもつられて視線を向けた。
「どうかしたんですか?」
「私略船の奴らの様子がおかしい。次の攻撃でも仕掛けてくるのか……」
 その時、エジルがはっと顔色を変えた。
「いけない、お頭っ! すぐに全員に衝撃に備えるように伝えてくださせぇ!」
「どうしたんだ? いきなり……?」
 ダリアが唖然とする。ジェムもフィオリも、きょとんとしてエジルを見る。唯一シエロだけは、何か気付いたのか同じように顔色を変えた。
「いいから! あれは……」
 だがジェムはエジルの言葉の途中で思わず耳をふさいだ。ジェムだけではなく、片耳を押さえたダリアも唇から苦痛の呻きを漏らし悪態を着く。
「な、なんだこの音は……」
 それはまるで深い怨嗟の念が篭った甲高い悲鳴だった。鬼哭、あるいは峡谷に吹く風にも似たその音は、どれだけ耳を塞いでも脳天を貫くような不快な音をたてる。それはまさしく私略船から放たれている。
 驚愕を隠せない私略船を見つめる彼らの目の前で、遠い船の姿が僅かにぶれたように見えた。
 そして次の瞬間。
 目に見えない、しかし何かとてつもない力の塊が海を割り裂きながら《イア・ラ・ロド》に迫ったのだ。




 耳を掻き毟りたくなるほどに不愉快な甲高い悲鳴がことさら高らかに響き渡った後、彼らに襲い掛かったのは船を破壊せんばかりの凄まじい衝撃だった。幸い狙いが甘かったらしく直撃は避けられ、その力の本流は船体から距離を開けて通り過ぎただけだったが、それでも船は嵐の只中に突如見舞われたかのごとく激しく揺さぶられた。
 誰一人立っていることは叶わず甲板に叩きつけられる。驚き、愕然としてただ私略船を恐るおそる伺うことしかできない。
「いったい、今のは何なの!?」
 間一髪のところでシエロに庇われ甲板に打ち付けられることを逃れたフィオリが、顔を上げ悲鳴のように声を張り上げる。それはまさしくジェムの疑問そのものだった。
「あれは、精霊兵器による攻撃に間違いない……」
 エジルが苦渋に満ちた表情で被害を受けた船内を見回す。
「精霊兵器だと!? あれがかっ!?」
 すぐさま立ち上がったダリアも鋭く私略船に視線を転じる。
 精霊兵器は五大神殿によって所持も取引も禁止されている御禁制の品の中で、最も厳しい弾圧の対象となっているもの。
「精霊兵器って、精霊の力を使った武器となんですよね」
 国や大陸によっては、精霊の力を動力や兵器に取り入れる実験が行われていると以前ジェムはバッツから聞いたことがある。だが、エジルは厳しい表情で首を振る。
「精霊兵器は、そんな生やさしいものじゃありませんぜぃ」
 私略船を睨みつけるエジルの表情はまるで親の仇でも見るかのような苛烈さを孕んでいる。
「精霊兵器の動力はねぃ、精霊の命そのものなんでさぁ。精霊兵器は精霊を拘束し、その命の源となる力を無理矢理搾り取ることで精霊魔法よりも強力な威力を発揮することができる。もっとも――、」
 エジルは痛ましげに視線を伏せた。
「原動力に使われた精霊は、その存在を保つことができず消滅する。……死んでしまうんでさぁ」
 ジェムは思わず息を飲んだ。
「まさか、そんな」
 攻撃が行われる前に聞こえてきた音は、まさしく命を削り取られる精霊の悲鳴そのものに等しい。
「ひどいわ、そんな残酷なこと……」
 フィオリはその痛ましさに耐え切れず、目に涙を浮かべている。
 精霊の存在は神の慈悲の顕現と言われる。それを消費してまで武力に代える人間の欲の果てしなさに、ジェムは言葉をなくした。確かに精霊兵器はその威力もさることながら、大神殿によって禁止されるに充分なおぞましさを感じられた。
 ジェムはふいに東の大陸の樹神の森で地の精霊に言われた言葉を思い出した。
(『呪われし五欲の民』……)
 こんな自分たちは確かに、精霊たちにとっては欲にまみれ憎まれて当然の存在なのかもしれないと。
「許せねぇ……。そんなもの、封印石以上に許せるはずがないじゃねえかっ!」
 ダリアがいきり立って私略船を睨みつける。
「あの野郎、間違いなく海の藻屑に変えてやるっ!!」
 もとより封印石に強い反発を覚えるダリアである。精霊兵器など無論のこと見過ごせるはずがない。
「じゃあ、いったいどうするつもりですか?」
「ぐっ、それは……」
 だがダリアはジェムの疑問に言葉を詰まらせる。なにしろそう意気込んで見せはしても今この場では彼らは私略船に手も足も出ない。私略船が停泊しているのは封印石によって風の止んだ呪われた海域。無理に手を出そうとすれば精霊兵器によって沈められかねない。
「くそっ、仕方がねえ。ここは戦略的撤退だ。いずれ目に物を見せてやる。ここはいったんずらかるぞ!」
 船長の号令に海賊たちは我に返ったように作業に戻る。いつかエジルは海賊船は逃げ足が肝要だと言っていたが、それを証明するかのように船員たちは目を見張る速さで撤退の準備に取り掛かった。あるいはやはり皆、精霊兵器の見せた威力に並々ならぬ脅威を感じていたのかもしれない。
 だが、私略船は彼らが尻尾を巻いて逃げることを悠長に待っていてはくれなかった。私略船から再び悲痛な叫び声を思わせる怪音が響き始めたのだ。
「くっ、第二撃か……っ」
 ダリアは少しでも距離を取るべく船員たちを急がせる。
「私略船がこの船を狙った理由は二つあったんだろうねぃ」
「二つ……?」
 表情を硬くしていたジェムが青ざめた顔のエジルを振り返る。
「そう。ひとつはここがダリア船長の船だったから。『風喚び』と名高いダリア船長が率いる《イア・ラ・ロド》を沈めることで、精霊兵器の威力を誇示することができる。精霊兵器は『精霊魔法よりも強い』と世に知らしめる事ができる」
 そうすれば結果として何が起こるか。
 これだけ強力な威力があるのだと保障されているのならば、例え御禁制の品だとしても欲しがる者は少なからずいるはずだ。つまり今回の件は明らかに密輸組織が糸を引いている。精霊兵器の宣伝行為も兼ねているのだから。
「利用できるものはなんでも利用する。まったく商人とはがめついもんでさぁ」
「じゃあ、もうひとつは……?」
 ジェムがたずねると、エジルはどこか冴えない顔色で自嘲気味に笑みを浮かべた。
「もう一つの理由は、――僕がいるからでさぁ」
「えっ?」
 ジェムが目を見張ったのとほぼ同時に、精霊兵器の放つ悲痛な慟哭がことさらに高まった。ダグ島の艦隊も私略船へと向かうが距離を縮めるには圧倒的に時間が足りなかった。もはや逃げられないことを悟ったダリアは大声で叫ぶ。
「お前らどこかに掴まれ! 衝撃に備えろっ!」
 ダリアの声を掻き消すように精霊の断末魔は海域を震わせ、凄まじい衝撃が《イア・ラ・ロド》に襲いかかった。




 それはまさに空と海がひっくり返ってしまったかのような、途方もない威力だった。船は激しく揺れた。転覆しないことが不思議なほどだった。まだ精度が甘いらしく船体を直撃しなかったのは不幸中の幸いだっただろう。だがそれでも霊兵器の砲撃は帆を貫き、主檣をまるで玩具のようにもぎ取ったのだ。
 逃げるために船の向きを変えようとしてのはある意味幸いだったかもしれない。主檣は船を巻き込むことなく真横に倒れ、損傷は比較的少なかった。だが一つだけ、彼らにとっては最悪の事態があった。
 それは主檣の倒れるちょうどその真下に、彼らの船長であるダリアがいたのだ。
「ダリア――っ!!」
 その叫びが誰のものなのか、ダリアは判断できなかった。強い力で突き飛ばされ甲板に身体を打ちつけたダリアは、激しく揺れる船の中でどうにか振り返った。その目に映った光景をダリアはいつかどこかで見たような覚えがあった。そしてふと気付く。
 それは七年前の嵐の夜。あの時も船の主檣は倒れ、船縁を破壊しながら海に没しようとしていた。
 あの時自分は檣索に足を絡め取られ目の前に倒れていた男を助けるために、反射的に斧を振るった。
 ダリアは揺れる甲板の上を無理やり立ち上がると、七年前の行動をなぞるように男の手を掴み、強く引き寄せる。男――グレーンは苦痛に激しく呻いた。あの時と違い、今度は檣索に絡めとられてはいない。だがグレーンの足は、義足も、残された生身の足までも倒れた主檣に惨たらしく潰されていたのだった。

 もっとも被害が甚大だったのは主檣の倒れた右舷だっただろう。ジェムはグレーンがダリアを危うい所で突き飛ばし、そしてその身代わりとなるように主檣の下敷きになるのを見た。
 そして一方で揺れに耐え切れず転倒したフィオリをシエロが身を挺して助けるのを見た。そして顔色を変えて自分に腕を伸ばすエジルの姿も。その腕に向かって伸ばした自分の手がぎりぎりのところで届かずに遠ざかっていく所も、ジェムは異様にゆっくりと流れていく時間の中で他人事のように眺めていた。
 ジェムは自分が激しい揺れによって船から振り落とされたことを知った。こうやって船から落ちるのが二度目なのかと思うと、ジェムは状況も省みずどこか可笑しい気分だった。あまりのことに感情が麻痺しているのかもしれない。
 下は精霊兵器の影響で激しく波立ち荒れ狂う海。今度ばかりは助からないかも知れない。ジェムは船縁から身を乗り出して泣きそうな顔をしているエジルを見ながら思う。
 ジェムは海中に没する間際、波と潮騒と怒号の合い間にエジルの身を切るような叫びを聞いた。
「どうかあの子を助けて……っ、僕の竜騎士っ!」
 そしてそれに答えるかのように沈みかけたジェムは、何者かの腕によって力強く海面に引き上げた。塩辛い海水によって目は霞んでいたものの、見上げた先にいるその腕の持ち主は、ジェムの良く知っているものだった。