第四章 エピローグ 約束の海は遠く(4)

 


 海賊たちの根城である島デザイアに向かうよりも先に、〈イア・ラ・ロド〉が停泊した場所があった。
 それはダグ島本土の海沿いであり、ダグ島本土の主要な港から目と鼻の先にあるような自然の湾だった。
「えっ、なんでこんな所に船を留めるんですか?」
「この船はお尋ね者の海賊船だぞ。本土の主要な港に堂々と停泊できるわけねぇだろう。ここだって長居はできないんだから、いいからさっさと降りろっての」
 なぜ真っ直ぐデザイアに行かないのかと尋ねたかったジェムではあったが、しかし有無を言う暇すら与えられずシエロやフィオリたちとともに船を降ろされてしまった。
 エジルや他数人の船員の漕ぐ小船に乗って海岸に降り立ったジェムは、不安げな顔で共にここまで来たダリアを見る。
「ジェム。お前はオレの捕虜って扱いなわけだが、これまでの功績に免じて身代金はまけといてやるよ」
「えっ」
 ジェムは目を真ん丸く広げ、ぽかんと口を開ける。
「なんだよ、オレの決定に文句があるのかよ?」
「い、いえ。そんなことはないんですけどっ」
 慌てて首を振るジェムの背中を、ダリアはマーテル号ではじめて顔を合わせたときのように力強く叩いた。
「お前にはやることがあるんだろ。だったら何をぐだぐだと考える必要があるんだよ」
 その言葉に、ジェムはたたらを踏みながらも力強くうなずいた。
「は、はいっ。リア船長、ありがとうございます。本当にお世話になりました」
 深々と頭を下げるジェムにダリアは照れくさそうに笑って頷いた。
「じゃあ、達者でやれよ」
 そしてはっと顔を上げて港の方を見ると慌てて身を翻して、小船に飛び乗った。何事かとジェムたちも視線を向けると街の方から数人の人々が駆け寄ってくる所だった。どうやら不法に停泊した船に気付いて取り締まるためにやってきたらしい。
「陸に飽きたらいつでも戻ってこいよ。お前らはもう俺らの――海賊の仲間なんだから」
 小船の上から大きく手を振って投げかけられるダリアの言葉に、ジェムは苦笑しながらも手を振った。
「船長こそ、どうぞお元気でっ」
「まぁ、これからはお頭の方も大変なはずだけどねぃ。グレーン操舵手殿の件は、どうしても後々まで響いてくるはずだから」
「でもきっと、ダリアさんなら大丈夫ですよ――って!?」
 ジェムはぎょっとして振り返る。そこにはごくごく当たり前のような顔をしたエジルが一行に混じってちゃっかりダリアを見送っていた。
「なっ! どうしてエジルさんがここに!? もしかして置いていかれちゃったんですか!?」
 慌てて遠ざかる船と彼を見比べるジェムに、エジルはけたけたと笑いながら首を振る。
「違いまさぁ。僕の方から船長にお願いしていたんでせぃ。お前さんたちと一緒に、僕も降ろしてくれって」
「むしろジェム、気付くの遅すぎよ」
 呆れたような視線を向けてくるフィオリに顔を赤らめながらも、ジェムはさらにエジルに問いを重ねる。
「あの、どうしてエジルさんも船を降りてしまわれたんですか?」
「ああ、僕もお前さんと一緒でねぃ。生粋の海賊って訳じゃなくて、半年ちょっと前に海で船長に拾い上げてもらったんでさぁ」
「えっ」
 ジェムは思わず目を見張る。どこかで聞いたような話だと思考の片隅に何かが過ぎったが、エジルは待ったなしで説明を続ける。
「船長にお願いして、雑用をする代わりにしばらく船に置いて貰ってたんでさぁ。状況が落ち着いたら、船を降ろしてもらう約束でね」
「それってどういう――、」
 ジェムがさらなる説明を求めようとした時、ようやく街からこちらに向かっていた人たちが到着した。その中に見知った顔を見つけ、ジェムははっとして声を張り上げる。
「ゼーヴルムさんっ」
 揃いの制服を着た海上警備隊5、6人の先頭に居たのは、ゼーヴルムだった。
「ジェム、お手柄だったらしいな。お前のお陰で私略船の乗組員のほとんどを捕まえることができた。密輸組織との繋がりもおいおいはっきりするだろう」
 ゼーヴルムがジェムに視線を向けると重々しい口調で褒める。ゼーヴルムにとって密輸組織を捕まえることこそが悲願であった為、そのとっかかりを作ってくれたジェムに対する賞賛は本心からのものだっただろう。
 だがジェムはその言葉を掛けられた時、泣きそうに顔を歪めた。もっともそれは彼の俯いた顔の陰に隠れて、ゼーヴルムには気づかれなかったが。ゼーヴルムは、残りの巡礼の仲間にも同様に声をかける。
「シエロ、フィオリトゥーラ。お前たちにも迷惑をかけた。己の行動に後悔はないが、謝罪はあとで必ずさせてもらう」
 だが、今はそれよりもとゼーヴルムは姿勢を正す。何事かと顔を上げたジェムは、ゼーヴルムと共にやって来た隊員たちが一様に跪いていることに気付いてぎょっとした。そしてゼーヴルムもまた恭しく膝を着く。
「お迎えに上がりました、殿下」
 その視線の先にいた人間は、苦笑いしながらもうなずいた。
「ご苦労様」
「え、エジルさんっ!?」
 エジルは笑って肩をすくめる。
「ジェム、このお方はエジル・コーラリウム・マーガリテ殿下だ。海大神殿の大神官の末子で、ノート島の次期治世者と目されている」
 ため息混じりに説明するゼーヴルムの言葉にジェムは驚きを隠せなかった。ただ丸く見開いた目でゼーヴルムとエジルを交互に見る。
「まっ、そういう訳なんでさぁ」
「な、なんで教えてくれなかったんですかぁっ」
 ジェムは動揺したまま、涙目でエジルに訴えかける。シエロとフィオリは彼を探すためにデザイアで情報を集めていた。その状況を彼がしたり顔でたずねていたのをジェムははっきり覚えていた。
「いやぁ、悪かったねぇ。こちらとぎりぎりまで正体を隠していたかったからねぇ。それに海賊船にいる時には、何を言ってもどうせ信じて貰えなかっただろうしねぃ」
 ジェムは海賊船で流布していたエジルの二つ名を思い出した。『下っ端』に『貴族』に『詐欺師』。そこに『殿下』が加わったとしても、ジェムも海賊たちも愉快なあだ名のひとつとしか思わなかっただろう。
「もっとも、いつの間にかそこのシエロには気付かれてたみたいだけど」
 ちらりと視線を向けるとジェムたちの驚き振りに必死で笑いを噛み殺していたらしいシエロが、悪戯坊主同然の表情で肩をすくめる。気付いていたなら教えてくれれば良かったのにとジェムは思うが、それも今さらだ。
「ゼーヴルムにも、心配を掛けたねぃ」
「心配はいたしましたが、貴方の居場所にはおおよその見当はついていました。海神の寵愛を受ける貴方が海上で害される怖れは限りなく低かったですし、貴方は本当に海賊の話がお好きでしたから」
「お前が語ってくれる話の中では、海賊についてのことが一番面白かったからね」
 丁寧ながらもどこかため息混じりに答えるゼーヴルムと、それに楽しげに応じるエジルのやりとりから二人の間に気の置けない雰囲気を感じてジェムは首を傾げる。それに気付いてゼーヴルムがうなずいた。
「エジル殿下は、私が以前に仕えていた方だ。巡礼使節に選ばれてからはその任を解かれたのだが」
「それでもお前が、僕の竜騎士であることには変わりないさ」
 エジルはにこりと笑う。
「お前が送り届けてくれるなら、僕も安心して帰れるよ」
 粗末な海賊服に身を包んでいても、そこからは皇族としての威厳が感じられジェムは不思議に思った。同じ笑みを浮かべていても、海賊船の中ではどこか胡散臭いとしか見られなかったのに。
「それはなによりです。お父上であるマーガリテ猊下もご心配になられていたようですし」
「あれ? そうなの?」
 きょとんとした表情を浮かべるエジルに、ゼーヴルムは生真面目にうなずく。
「今回の件で私に手を貸してくれた者が、直々に殿下の居場所を探るよう申し付けられていたそうです。もっとも殿下の身に関しては私に心当たりがあったので私が代わりにその任を請け負ったのですが」
 彼の言い方だと、どうやら海上警備隊の隊員たちのほかにゼーヴルムには協力者がいたらしい。いまこの場にはいないようだが、一体誰なのだろうとジェムは小さく首をかしげた。
「それより、スティグマは!? いま、どこにいるの?」
 ついに忍耐の限界に達したフィオリがゼーヴルムに問い詰める。やはりフィオリにとってはスティグマの安否が一番気に掛かるらしい。
「それでもやっぱりバッツさんのことも思い出してあげましょうよ」
 ジェムは小さく肩を落としたが、やはりフィオリが聞く耳を持たないのは予想の範疇だった。
「ベルクライエン医師とシェシュバツァルは、マレー提督が責任をもってここの港まで送ってくれるそうだ。殿下を保護したこともすぐ伝わるだろうから、問題はないだろう」
「あの、その時にどうかマレー提督にお礼も一緒に伝えてください。ぼくは会ったことはないけれど、ぼくを探すことに手を貸してくれた人だから。あの、確かマレー提督はゼーヴルムさんの以前の上官だったんですよね」
「ああ、そうだな」
 おずおずとたずねると、ゼーヴルムはうなずいた。
「あの人は、部下思いであるし能力も高いんだが、やることがどうにも突飛でな」
 ゼーヴルムは、どことなく疲れたような口調で呟く。かつての苦労を思い出しているらしいゼーヴルムに、ジェムたちは思わず笑みを浮かべたのだった。


  ※  ※  ※


 何の前触れも無く、自分たちは襲撃を受けた。もちろん目的が皇子殿下だと言うことははっきりしていた。何しろ今までも小規模ではあったけれど、ノート島との友好関係を認めたくない勢力の襲撃が幾度かあったのだ。
 しかし今回ばかりは様子が違った。
「あなただけは逃げてください」
 皇子殿下はこう言った。敵に囲まれ、もはや降伏すらも聞き入れられないと言うような危機的な状況の最中だった。
 もちろんそのような申し出を聞き入れられるはずは無い。自分は彼の護衛官なのだ。しかし彼は首を振った。
「このたびのことは、すべて僕の事情によるものです」
 この襲撃はノート島の人間の手によるものだった。
 自分は兄殿下に憎まれているのだと皇子は語った。末子相続のギュミル諸島で指導者の位を継ぐには自分の存在が邪魔になる。そのために命を狙われ続けていたのだと。
 本当は誰も巻き込むまいと思っていたのに、そう言って涙を流す皇子の姿を見て自分はようやくにして気付いた。
 彼の楽観的な物言いのすべては、若くして断ち切られる命を覚悟してのものだったのだと。
 自分は遠からず死ぬ。だからそれまでの人生を悔いの無いように生きようと。
 冗談じゃないと思った。
 彼はこんな所で殺されるべき人間ではないのだ。
「やめてください」
 だから彼に言った。
「あなたは私が何としてでも護りますから」
 護りたいと、心からそう思った。
 かつて自分の故郷の島を護りたいと思ったように。
 このあまりにも優しく、そして哀しい思いに支配された皇子を助けたいと――、
「だから生きることを諦めないでください」
 すっと剣の鯉口を切る。
 自分はここで死ぬかもしれない。しかし彼だけは何としてでも生かしたかった。
 そして彼に本当の生きる喜びを知ってもらいたかった。
 意味無く命を散すなと言った、かつての上官の言葉が蘇る。それは本当に必要な時にこそ命を掛けろと、そういう意味なのだとやっと気がついた。
 そして、今がその時に他ならない。
 飛び出そうとした腕をつかまれ、振り返る。
 向けた視線の先には、今にも泣きそうなくらい真剣な表情を浮かべる皇子殿下がいた。
「行くなという命令は、受け付けませんよ」
 先手を打ってそう言うと、彼は小さく首を振った。
「僕ら皇族は、生涯にただ一人だけ、自分のすべてを預ける騎士を持ちます」
 それはこの大陸に伝わる伝説になぞらえて呼びならわされる存在。
 それは絶対の守護者にして、無敵の英雄。
「僕はあなたを、その相手に選びます」
 皇子は胸の前で聖印を切り、指先を伸ばし額に触れた。ひやりと冷たい指先は細かく震えていた。
「僕を護って。――竜騎士ゼーヴルム……」
 エジルは全てを託して、淡く微笑んだ。


  ※  ※  ※



 バッツたちを乗せた船が着くまで、ジェムたちは港で待つことになった。
 これまでのことを考え、ゼーヴルムたちはジェムにどこかで休んでいるように提案したが、ジェムはそれを辞退した。ようやく仲間が全員揃うことを思うと、ジェムはいてもたってもいられなかったのだ。
 大人しく待っていることができず、ジェムは船を待ちながら一人で港を歩いていた。やはりダグ島側の本土であり、軍の拠点のある島の港なだけあって治安は良いようだ。もっとも海賊島であるデザイアと比べれば、おおよその港は治安が良いことになるだろうが。
 やがて港の一角に、大きな船が停泊した。それはバッツたちが乗っているである軍の船ではなく、民間の定期船だった。ジェムたちが乗ってきたマーテル号と同じ紋章が帆に描かれているため、おそらくは東の大陸の貿易港メルカトールからやってきた船なのだろう。
 停泊する島は違っても、本来なら自分たちもこうやって何事もなく港にたどり着くはずだったことを思うとなにやらジェムは感慨深い思いを抱くのだった。
 東の(アウストリ)大陸を出てから、思っていたよりもずっと長い時間がたっている。東の大陸に入った時にはまだ春も初めだったのに、大陸が違うことを考えても降り注ぐ太陽はまさに真夏の眩さだ。
 そんなことを考えながら定期船から降りてくる人々をなんとはなしに眺めていたジェムは、ふとその中に見知った顔を見つけた。ジェムは思わずその後姿を追う。
「ルーチェさんっ!」
 強い日差しが振り注いでいるにもかかわらずぴったりとした黒い服を身にまとっていた男は、ジェムがすぐ後ろまで近寄ってようやく振り返った。
「おや、あなたは……」
 白茶けた長い金髪を持つおとがいの細いその男は、考え込むような表情でジェムを見下ろす。
「ジャックではなく、ジョン……でもなく……」
 そしてようやく顔を上げた。
「思い出しました。ジェムでしたね。お元気そうでなによりです」
 覚えていなかったこともあからさまな態度は一般的に見れば失礼極まりないものだったが、彼が名前を覚えることを不得手としている事を覚えていたジェムはむしろそれを懐かしんだ。
「ルーチェさんこそお変わりないようで嬉しいです。ルーチェさんはどうしてギュミル諸島にいらっしゃったんですか」
「オレは人に会いに来たんですよ。どこにいるかは分からないので、これから探さないといけないのですが」
「そうだったんですか」
 ルーチェは東の大陸の森で、怪我の手当てをしてくれた上に親身になって話まで聞いてくれた。できることなら世話になったルーチェの力になってあげたいとジェムは思ったが、世間知らずなうえ旅の最中の自分には人探しの手伝いはできないとがっかりした。
「そうそう、思い出しましたよ」
 もっともそんなジェムの落胆に気付いているのかいないのか、ルーチェはぽんと手を叩く。
「あなたに伝えておかなければならないことがあったんです。どうやらオレはあなたに間違った名前を教えてしまったようでした」
「間違った名前?」
 ジェムは首を傾げる。
「ええ、『ルーチェ』という名は今では使っていない名前でした。今のオレの名は――、」
「ジェムっっ!!」
 背後から突然掛かった鋭い呼び声に、ジェムはびくっと身を震わせて振り返る。それと前後するように、ジェムは何者かに強く腕を掴まれ引っ張られ、その痛みに思わず顔を顰めた。
「ジェム、良かった。無事だったか」
 ホッとしたような口調でそう言ったのは、ジェムが久しぶりに見る人間だった。
「スティグマさんっ!?」
 自分を背後に匿うように目の前に立ち塞がる医師を、ジェムは唖然とした顔で見る。そこに浮かぶ表情はジェムがこれまで見たことがないほどに、厳しく険しいものだった。
「どうしてお前がここに……。まさか、またあの災いを繰り返すつもりなのか!」
 スティグマはルーチェを睨み付ける。
 激しい恫喝をぶつけられても、ルーチェはいっこうに気にする様子を見せなかった。ただわずかに不本意そうに、どこか幼い口調で戸惑いを口にする。
「あなたこそ、どうして? オレは言ったよね。ちゃんと隠れていてねと。もう巡礼に関わっちゃ駄目だよって」
 そうしてようやく気付いたように目を瞬かせる。
「ああ、そうか。彼と一緒にいるということは、ジェム、あなたも巡礼者だったんですね」
 ルーチェは愉しそうに目を細めて笑う。その目の中にかつてない酷薄な色を見た気がして、ジェムはぞくりと背後に冷たい汗が伝うのを感じた。目の前のスティグマの背中にさらに緊張が走ったのが分かる。
 ルーチェは蒼く冴えわたる眼差しを、ジェムに向けて微笑んだ。
「オレは冥府の河の渡し守、カロン・ステュクス。巡礼使節を抹殺するために雇われた殺し屋です」
 これまでになく優しい口調で語りかけたルーチェ――カロンは、そのままひどく愉しげに笑った。
「さぁ、あなたたちはこれからどうやってオレを愉しませてくれるんでしょうか」
 打ち寄せる波の音が、ジェムの耳にはあまりにも遠く聞こえた。


 


 

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