すでに夕闇が迫っていた。
二人が向かった埠頭はまるで人気が無く、ただどこまでも閑散としたうら寂しい雰囲気に包まれていた。 「静かだ……」 ぼそり、と囁くように呟いたのはパスマだった。周囲の雰囲気に触発されたようなどこか遠慮がちな声である。 「そうだな」 ゼーヴルムも声低く答える。 「あえてそのような場所を選んだか、あるいは秘密裏にこの付近一帯を買収したのだろうな」
差し向けられた刺客の漏らした情報に従い、二人は立ち並ぶ倉庫のひとつの前で足を止めていた。北の大陸の様式で建てられた煉瓦造りのその倉庫は大袈裟なまでに堅固で、中の様子は容易にはうかがい知れない。 「さて、どうするか」 無理やり中に押し入るという手もなくは無いが、もしも中で待ち構えられていた場合この人数では太刀打ちできない。ゼーヴルムが中の様子を探るべく思案をしていると、 「しばし待っていろ」 パスマがあっさりと言い、するりと倉庫の壁をよじ登っていった。そしてまたたく間に屋根の向こうに消えていく。
突然のことにただただ唖然としているうちに、早くも屋根から飛び降り戻ってきたパスマはゼーヴルムに向かってあっさりと言い放った。 「入っても大丈夫だ」 パスマは無造作に倉庫の大きな扉に手を掛ける。ぎょっとするほど大きな音をたて戸が開いたが、まるで頓着する様子は無い。 「中は――もぬけの殻だ」 確かにパスマの言葉の通り、そこに人の気配はなかった。
「なるほど、とっくに逃げ出したあとか」 口惜しげに、ゼーヴルムは舌を打つ。 「そうだな。だがどうもこの様子では相手は慌てて逃げ出したようだ。探れば、まだなんらかのことが掴めるだろう」 そこには食べ掛けの食器や封を開けたばかりの酒瓶が放置されている。取るものもとりあえずこの隠れ家を後にした様子がありありと想像できた。
「もっともその前に、我々は互いの目的と情報の整理をする必要があるのではないか」 パスマは臆すことなく視線を返す。ゼーヴルムはまっすぐにパスマを見つめていた。ゼーヴルムはゆっくりとした足取りで黒衣の影に近付きながら、淡々と言葉を投げかけてゆく。 「貴殿が『オー・ドー・ビー』の店主に求めた情報は、最近この近辺に潜んでいる密輸組織のことについてだ」 実のところ、ギュミル諸島において密輸という犯罪はそう珍しいものでは無い。 ギュミル諸島では長きにわたって島民たちが海運業を生業としてきたという歴史がある。だがここ十数年は、国家の政策としてノート島、ダグ島ともに民間の貿易が禁止されていた。
現在ギュミル諸島海域に出没する海賊も、その半数は武装密輸組織が大本である。
パスマが店で洩らした『禁制の品』という言葉。
「貴殿はどこまで承知で、そして何が目的なのだ」
さらりと返された言葉に、ゼーヴルムはぐっと息を飲む。刺客の騒ぎでうやむやになったが、確かにそれが彼らの決めた最初の取り決めである。 しかしパスマはふっと酷薄そうな笑みを唇に乗せ、ゼーヴルムを睥睨した。 「まぁいい。貴様の事情なら何となく予想がつく」
ゼーヴルムはむっと顔をしかめる。だが影はさらりと言い放った。 「貴様が単独で動いていることは承知している。ならば例え貴様がどんな目論見で動こうが、大したことは起こらん」 パスマはもはや気がついていた。
自らの与り知らぬ所で暗躍されれば、それは困る。己の思惑と相反する行動を取られる可能性があるからだ。だが単独で動いている限りは、目を離さぬ限りは不意を突かれることも無い。 ゼーヴルムは自分の行為は毒にも薬にもならないと判断されたことを知って、思わず憮然とした表情を浮かべる。もっともそれはけして事実に異なった推測ではないため、憮然とした面持ちのままでうなずいてみせた。 「その通りだ。たしかに私は独りで動いている。だがそれは――、救援を頼むことが今の段階では不可能だと判断したからだ」
その言葉にパスマはふっと視線を上げる。そして一瞬の思案の後、嘲笑にも似た物言いたげな笑みを浮かべた。 「なるほど。貴様はこの事件の裏で糸を引いているのが何者であるかを知っているのか」
ゼーヴルムは首を振る。 「私は単に関わっている者の正体を推測できるだけだ」
ゼーヴルムは一瞬言葉を詰まらせた後、苦々しげに肯定した。
あるいは自分が今ここにいることも、単にその時の意趣返しでしかないのかも知れない。それもある意味事実だろうと、ゼーヴルムは自分の心中を冷静に分析する。 アウストリ大陸の港町で偶然目にした号外版。
己に課せられた巡礼という任務。
けれど『義務』と『正義』と『意地』――そのすべてを天秤に掛けた結果、選んだのはこの道だった。 ならばその責任は取らなければならない。
さらりと掛けられた言葉にゼーヴルムはぎょっと顔をあげる。 「――なに?」
ゼーヴルムは思わず自嘲する。
「だが、憶測だけで証拠が無い。末端はどうであれ上にいるのは自分に繋がる証拠を残すほど甘い奴らではないはずだ」 だからこのアジトを家捜ししても、確たる証拠は掴めないだろう。ゼーヴルムはそう息を吐くが、パスマは構わぬと言う。 「証拠は必要ない。いざとなればどうにでもなる」 さらりと不穏なことを言い張るパスマにゼーヴルムは訝しげな視線を送った。
「この密輸に関わる禁制の品は二つ。ひとつは、気付いているだろう。封印石だ」 ゼーヴルムはうなずいた。それはすでに予想がついている。
だが次に述べられた言葉は、ゼーヴルムの想像をはるかに超えていた。 「そして、もうひとつは“精霊兵器”」
ゼーヴルムは大きく目を見開いた。
泡を食って詰め寄るゼーヴルムを、パスマは鬱陶しげに振り払う。 「自分の目的は、この禁忌の品を取り扱おうとする下手人の正体を突きとめること。そしてこの品に関わる取引をいかなる方法を用いてでも妨害することだ」 「――貴殿はいったい、何故にこの件に関わっているのだ」 ゼーヴルムは改めてパスマに不審の眼差しを向けた。 本来ならば、この南海の諸島とは縁もゆかりもないはずである北方の人間。
油断のない視線を向けるゼーヴルムを睨み返し、パスマはしかしふっと短く息をついた。それは鼻を鳴らしたようでも、ため息をついたようにも見える。 「貴様が心配するようなことは無いから安心しろ。自分は人に頼まれて、この件に関わっている」 そうしてパスマはあっさりと、このギュミル諸島に生きるものなら誰でも知っている名前をあげた。 ゼーヴルムは思わず息を飲む。
「その相手とは、エカイユ・シアーズ・マーガリタ大神官。――もっとも自分は、こんなこと好きこのんで関わりたいと思ったことは一度もないのだがなっ」 パスマはあからさまに苦々しげな表情を浮かべて吐き捨てる。
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