番外編 「遥かなる友へ」(2)

 


 とりあえず奴が走っていった方向をそのままたどっていたが、オレはおもむろに足を止めねばならなくなった。
 選択肢が三つになったからだ。

 廊下をまっすぐ。階段を上。階段を下。

 さてどちらを選ぶか。
 オレは数秒迷って直感に従った。

「よしっ、下だっ」
(…上です)

 耳をかすめたささやき声にオレは思わずたたらを踏む。

「うおっ、あぶねぇ」

 素で見当違いの方向に向かうところだった。

「あんがとなっ」

 姿は見せないその声に礼を言い、オレは階段を駆け上がる。
 そして程なくして、授業放棄の優等生を発見したのだ。







 奴は半分物置と化していた最上階の踊り場にちんまりと腰を下ろしていた。

「よおっ」

 膝を抱え俯いていた奴はオレが声をかけるとはっと頭を上げ、そして泣きそうな顔で金切り声を上げた。

「な、なんでついてくるんですかっ」

 さぞや刺々しい文句を盛大に言われることを予想していたオレは、推測が外れたことに首をかしげた。最初の印象ではもっとつんけんした嫌味な感じだったのだが。
 だが最初の印象はともあれ今の奴は明らかにオレに対して怯えていた。

「別に苛めたりしないからさ、そうびくびくしないで…」
「何でぼくに関わるんですか! やめてくださいっ」

 そう叫び、顔をくしゃくしゃに歪め自分を自分で抱きしめる。
 それは、まるでそうすることで自分を必死で守っているように見えた。

「………」

 これは予想外の展開。
 さてどうするか。

 いまいち訳の分かっていないオレはぽりぽりと頭をかく。

「…、あのさぁ。あんた何をそんなに怖がってんの」

 率直なオレの疑問に奴は当然何も答えなかった。
 だが、荒い息が治まってくると少し身じろぎをして上目遣いにオレを睨みつけてくる。

「あなたは、ぼくの噂を聞いてないんですか」
「何も。これでも人の噂にゃうとい方でね」

 これは嘘だ。
 『何も』聞いていないという事はない。

 しかしオレは奴の口からはっきりと真実を聞きたかった。

「ぼくといると不幸になります」
「そりゃまた抽象的だねぇ。具体的にはどんな感じになんのさ」

 あえて挑むように言ってみる。
 奴がぎりっと唇を噛むのが分かった。

「―――――です…」
「ああ? 聞こえないぞ」
「日常生活すら困難な苦痛と後遺症。あるいは精神に異常をきたします」

 ぴくり、とオレの眉が動いた。

「へえ…」

 にんまりと口の端を吊り上げてみせる。

「そりゃあ穏やかじゃねぇな。実際そんな目に合った奴がいるのかい」
「ぼくの友達…。いえ、友達だった人たちです」

 学院から消えたという奴らのことか。

 何かを堪えるように堅く喰いしばった唇。震える指先を見るに、どうやらそれはただの噂や気の迷いといったものとは違うらしい。
 何があったかは推測するしかないが、ようするに下手を打てば本当にこの身に危険が及ぶ可能性があるというわけだ。

「だから、だからぼくには構わないでいて下さい。そっとしておいて下さい。それが、あなたの身の為です」

 奴はそう言って再び俯いた。
 自分のことを考えるなら、オレは奴の言うとおりこのまま大人しく立ち去ったほうがいいのだろう。しかし、

 
 ―――面白い。
 

 オレはにやりと唇を歪めた。
 そんなことを言われてしまえば、逆に嫌と言うほどお近づきになりたくなってしまうのがオレの性分なのだ。

 こちらを見ようともしない奴に向かって一歩近づいた時、オレの耳元で再び空気が揺らいだ。

(若さま…)

 俺は顔をしかめると鬱陶しげに手を払う。

 別にお目付け役というわけでもないんだから、人の交友関係にまで口出しすんなよ。

 だがちょうど同時に顔をあげた奴はどうも自分に対する仕種だと勘違いしたらしく、さらに怯えた表情で俯いてしまった。

 …しくじった。

 とにかくオレは気を取り直すと、あらためて奴に近付いた。

「あんさぁ、」

 奴はおずおずとオレを見上げる。

「悪いけどそれじゃあオレを諦めさせる事はできないぜ」
「あ、あなたはぼくの言ったことを聞いてなかったんですかっ」

 奴はぎょっと目を見張った。まあ、普通はそうだろう。
 わなわなと唇が震えるのは怒りか、さもなきゃ呆れの所為か。

「いや、聞いてたけどオレはかなりの天邪鬼でね。そう言われると逆に構いたくなるんだな」

 オレは不敵に笑って見せる。

「それに、オレは一目見てあんたを気に入っちまったんだ」

 はっと顔をあげた奴の目に喜色が浮かんだが、それはすぐに絶望に取って代わられた。

「やっ…」

 奴は頭を両手で掴みぶんぶんと振る。

「やめてくださいやめてくださいっ。ぼくになんて構わないでください。放っておいて下さいよおおっ」

 奴は一瞬でも喜んだ自分を恥じるように、あるいは自身をすべて否定するように、絶叫する。
 そして頭を抱え込んでその場に泣き崩れた。

「駄目なんです。ぼくになんて関わっちゃいけないんです。ぼくは不幸の元だから、ぼくがいると迷惑が掛かるから…」
「そんな風に言ってまで突き放したいほど、オレが嫌いなのか。もしそうならそうだとはっきり言って欲しいんだが」
「…違います。ぼくはただ、ぼくの所為で誰にも傷付いて欲しくないからっ―――、」

 あえて悲しげな響きを持たせた言葉に見事引っかかった奴は、顔をあげると慌てて首を振る。
 オレはにやりとほくそ笑んだ。

「じゃあ話は簡単だな。あんたのせいでオレが傷つかなきゃいい」
「…そんなことは、無理です」
「無理じゃないさ。オレには立派な護衛が付いているからな。―――なあ、カーム」

(あまり無茶は仰らないで下さい)

 ふと、踊り場の隅の影が滲んだ。
 影は徐々に質量を増し、やがて人間一人分の形へと膨れ上がる。

「無茶って、あんたオレの護衛だろう。そんなに気弱でどうすんだよ」

 肩をすくめるオレに、黒装束に身を包む小柄な男は無愛想に返答する。

(護衛対象が非協力的な場合に限り、こちらの処理能力に限界が生じる場合があります)

「限界って。いい加減な奴だなぁ、おい…。あ、こいつがオレの護衛の―――っっ」

 振り返ったオレは思わず息を呑んだ。
 顔を土気色に変えたジェムは、口を半開きにしがくがくと震えている。はしばみ色の目は瞳孔が開ききっていた。

「い、いや…、やめ。うわ、う、ああぁぁあぁ―――っっ」
「ジェムっっ!?」

 オレは慌てて駆け寄った。
 奴は先ほどの比ではないほど、狂乱し正体を失っている。

「ご、ごごめんなさいっ、許してもうやめて、うああっっ」

 もう自分が何を言っているのかも分かってないだろう。
 ちっとオレは舌打ちすると、背後に所在無く立ち尽くす無能な護衛に命令する。

「ちょっと姿隠してろ。たぶんお前が原因だ」
(―――御意)

 黒い姿が消え去ったのを確認して、オレは奴の面を引っ叩いた。
 まあ、この緊急事態だ。多少対処の仕方が乱暴になったのは勘弁してほしい。

「落ち着け、ジェム。ここにゃお前を傷付ける奴はどこにもいない」

 名前を呼び数度肩を揺さぶると、どうにか奴の目の焦点が合ってきた。

「―――あ、あの…」
「悪かったな。お前を驚かすつもりはなかったんだ」

 どうにか奴が落ち着いたのを見て、オレはほっと息をついた。

「とりあえず場所帰るぞ。人が来る」

 オレはジェムの手を引き、踊り場を離れた。