≪黒薔薇狂詩曲≫
01 始まりは一通の手紙から
「おい、こっちに来るがよい」 だいぶ古びているが造りも意匠も立派な椅子から、同じくらい時代がかった呼び声があたしに向かって投げかけられる。 「こっちに来よと言っている」 傲岸不遜という言葉を体現したかのような尊大な声。けれどもその声の響き自体は、油断していると魂を抜きとられてしまうと思えるほど魅惑的だ。 「どうした。聞こえないのか?」 もっともあたしはその声の持ち主が、もはや手のつけようが無い程 ちなみにもちろん聞こえていない訳ではない。
「そうか、余の命令が聞こえないというのだな……」 椅子がぎしりと悲鳴を上げる。お尻に根が生えたんじゃないかと思える頑迷さで動こうとしなかった相手が、とうとう立ち上がる気になったようだ。 「ならば――、」 艶のあるバリトンがいっそう匂い立つような色香を放つ。
「こんな役に立たない耳は必要ないな」
ぎゅーっと容赦のない力で耳を掴まれる。このままでは確実に引き千切られると悟ったあたしは、あわてて相手の腕を振り払って射程範囲外まで逃げ出した。
「ちょっとちょっとっ、いきなり何をするのよ!」
緩やかなウェーブを描く長い漆黒の髪を払い除け、尊大な態度で鼻を鳴らす。人外魔境の美貌が見下すような目であたしを見ていた。 その瞳は明らかに「感謝しろ、この愚民」と言っている。 「だ、誰が……」 ふるふると、あたしは全身を小刻みに震わした。 これまでずっと耐えていたけれど、
「誰があんたの下僕だぁぁっ!!」 窓硝子すら割りかねないあたしの怒声が、びりびりと周囲に響き渡った。 ◇◇◇ ことの始まりはほんの三週間前のことだった。 「ねぇねぇたいへんよ〜っ」 あたしがリビングのソファーに寝転がって雑誌を読んでいると、可愛らしい舌っ足らずの悲鳴がどこか呑気にとてとてと近付いてきた。 「たいへんなのよ〜、みすずちゃ――あうっ」 ぺちょんっ、と濡れた雑巾を落としたような音がした。続いて月夜のアシカが鳴くような、どこか物悲しい声。
(むしろ、絶対にこうなると思ったよ……) ほぼ予想通りの結末に、あたしはため息をついてソファーから立ち上がる。そしてリビングの扉を開けて、その前にうつぶせに倒れている小さな物体に声をかけた。 「ねぇ、大丈夫?」
大きくてつぶらな瞳が涙目であたしを見ている。
「もう、しっかりしてよね。美登里さん」 そうやって自分の母に呼びかける。
正直こんなのが一児の母だなんて、自分の親でもなければとてもじゃないけど信じられない話だ。
「ごめんね、ありがとうね、みすずちゃん」 ソファーにちんまりと腰をおろした彼女はちんと鼻をかむ。潤んだ瞳がまだ涙の痕跡を残していた。 こんな彼女だが一応はデザイン会社に勤めている立派な社会人である。本人は会社ではバリバリのキャリアウーマンなのよ、なんて言っているが、あたしは単にマスコット扱いされて可愛がられているんじゃないだろうかと常々疑っていたりもしている。 「それで、いったい何が大変なの?」 落ち着いたのを見計らってそう尋ねると、彼女は大きな目をさらに大きく見開いてぽんと手を打った。 「そうそう、すっかり忘れていたわ。実はさっきこんなものが届いたのよ〜」 そう言って手渡されたのは、一通の薄っぺらい封筒だった。 差出人は都内の弁護士事務所。
この時、なんだかひどく嫌な予感が意識の片隅を横切っていった。
以前住んでいたマンションが火事になった時然り。
もっともその予感が何かの役に立ったことは一度もない。 あたしは恐る恐る封筒の中身に眼を通し、そして思わず絶句してしまった。 その手紙はチェーンレターのように何らかの不幸を告げるものではなかったけれど、ある意味それよりずっと性質が悪かった。 そこにはあたし――片瀬美鈴が、莫大な遺産を相続したと書いてあったのである。 |
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