≪黒薔薇狂詩曲≫

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06 迷いの末の決断

 

 彼は転がる勢いで床に尻餅をつく。
「ちょ、ちょっと何してるのっ」
 あたしは慌てて二人の間に割って入った。喧嘩と言うにはあまりにも一方的なこのやり取りを、なんとかして止めなければと思ったからだ。
 けれどその瞬間、あたしは門真(かどま)という少年に顔に浮かんだこれまでとは違う表情にはっとした。もっとも門真はすぐにさっきと同様忌々しそうな目つきを浮かべると英梨を見下し、言い放った。
「いいか、余計なことは一切するなよ。おまえは何の役にもたたないんだから、大人しくしていろ」
「あ、ちょっと待ちなさい……っ」
 あたしはとっさに彼を止める。しかし少年はあたしの言葉に耳を貸す様子もなく、足取りも荒く去っていってしまった。


「……まったくもう」
 最近の小学生はどうなっているのやら。 あたしは再び呆れ果て、その後姿を見送る。
 それともそう考えるあたしがもう年なのか。五歳近く離れていればジェネレーションギャップも相当だろうし。
 ため息をつきながら、あたしは取り残されたもう一人の少年の方に目を向ける。むしろいまは彼の方が問題だろう。
 少年は突き飛ばされた状態まま呆然と地べたに座りこんでいたが、やがてその目からじわりと涙が溢れてきた。
「あ、こら。泣いちゃ駄目でしょ」
 あたしは慌てて少年の前にしゃがみこむ。そしてポケットから取り出したハンカチを押し付けた。
「ご、ごめん、なさ……っ」
 少年はしゃくりあげながらも受け取ったハンカチで涙を拭った。
「いきなり突き飛ばすなんて、酷いことするわね」
 もう一人の少年が去っていた方を見ながらあたしはこぼすが、英梨と呼ばれた少年はぶんぶんと首を振って鼻をすすった。
「違うよ……。門真は本当はすごく優しいんだ。それにすごく強くて頭も良くって……」
 アレが優しいか……。上手く想像がつかないが何とかうなずき、話をあわせる。すると彼はしごく真剣な調子で次から次へと釈明の言葉を紡ぎはじめた。
「さっきのは僕が悪かったんだ。門真は情けないからって、虐められてる事をおうちに知られるのをすごく嫌がってるのに」
「彼は学校では虐められっこなの?」
「違うよっ。……あいつらに虐められてたのは、最初は僕だったんだ。だけど門真が僕を庇ったら、今度は門真が標的にされるようになって」
 そう言って彼はぐいぐいとハンカチで顔を拭う。ハンカチがぐしゃぐしゃの皺くちゃになったが、そんなみみっちい事を気にするようなあたしでは無い。
 とりあえずこんな地べたにいつまでも座っているのもなんなので、あたしは泣きべその彼をどうにか立たせ近くのベンチまで連れて行った。
「君とあの門真君ってお友達なの?」
 隣に座ってそう訊ねると、彼は戸惑ったような顔をした。
「――僕と門真は従兄弟同士なんだ。でも僕はどんくさくて、運動神経も良くないし力も弱いから、
 みんなに馬鹿にされてて――でも門真はそんな僕をいつも助けてくれてて」
「つまり君は彼のことが好きなのね」
 英梨はためらうことなくこくんとうなずいた。
「例え門真が僕の事を好きじゃなくても、僕は門真が好きなんだ」
「じゃあどうしてさっき彼の事を助けてあげなかったの?」
 すると目で見て明らかに、びくんと彼の顔色が変わった。英梨は指が白くなるほどぎゅっとベンチの縁を握り締める。
 さっきのタイミングで彼が現れたということは、門真が虐めっ子に取り囲まれている様子もまたずっと見ていたということだ。黙って見ているくらいなら、どうして出てきて庇ってあげなかったのか。
 英梨は再び目に涙を滲ませていた。
「門真は僕が関わるとまた標的が僕に戻るから、手を出すなって……」
「――なるほどね」
 あたしは納得した。それが真実ならば、確かに彼は気位が高いだけの内弁慶というわけでは無さそうだ。英梨を突き飛ばしたその直後の彼の表情を思い出してあたしはふむふむとうなずく。そして今度はちょっと情けない思いで、英梨を睨みつける。
「じゃあ君はそうやって何もできないまま、門真君に役立たず呼ばわりされていていいの?」
 彼は辛そうにうつむき、ぼそぼそと呟く。
「でも実際、僕にできることなんて何も無いし……」
「できるかできないかじゃなくて、この場合問題なのはやるかやらないかでしょっ!」
 あたしはむっとして、思わず英梨を怒鳴りつけてしまった。英梨はぎょっとして身を強張らせる。さすがに大人気なかったかと、あたしはあわてて優しく言い変えた。
「別に庇って一緒に虐められろ、と言ってる訳じゃないのよ。人間にはどうしたって、できることとできないことがあるんだもの。でもね、何にもできないと始めから諦めてたら、やれることもやれないままでしょう?」
「でも……門真は手を出すなって――、」
「ようするにそれは邪魔をするなっていうことよ。だったら邪魔をしないことの中で、あなたが彼のためにできる事を考えればいいのよ」
 門真と呼ばれた少年は英梨を突き飛ばした瞬間、痛みに耐えるような表情をした。
 それは英梨を傷つけてしまった事に自らも傷ついていたから。つまりは彼も本気で英梨を邪険に扱っている訳ではないということだ。
 だったら、お互いが和解するまで、あとほんの一歩の道のりだろう。
「僕は……門真のために何ができるかな」
 英梨はぼそりとつぶやく。あたしは苦笑しながら答えた。
「彼が何をすれば喜ぶかなんて、これまでずっと一緒にいた君の方が詳しいんじゃないの?」
 英梨は少し躊躇っていたが、やがてしっかりとうなずいた。
「うん、分かった。門真のために僕が何をしてあげられるか考えてみるよ」
「そうね、それがいいわ」
 自分のするべき事を見つけたのが自信に繋がったのだろう。目に決意の光を宿して答える英梨に、あたしもまた微笑ましい気分でうなずき返した。
 ふいに英梨は困ったように、手の中のくしゃくしゃになったハンカチに目を下ろした。
「ごめんね、君のハンカチ汚しちゃった」
「いいわよ、別に気にしないわ」
 別に破れたわけでも落ちない汚れが付いた訳でもない。そのまま受け取ろうとしたけれど、英梨はしっかりハンカチを手に握ったまま首を振った。
「ううん、申し訳ないからこれは洗って返すね。良かったら連絡先を教えて」
 別にそこまで気を使わなくてもいいのに。そう思いはしたものの善意からの申し出をそこまで頑なに拒否することもできず、あたしは携帯の番号を彼に教えることにした。数字の羅列とついでに住所とをメモに書いていると、英梨は驚いたように目を見張った。
「すごいね、もう自分の携帯電話を持ってるんだっ」
「いや、まぁ……うん」
 ……なんだか様子がおかしいぞ。
 嫌な予感をひしひしと感じながら、あたしは念のために念を入れる。
「そう言えば名前をまだ言ってなかったわね。あたしは片瀬美鈴。十五歳の中学生よ」
「えっ!」
 彼は耳を疑わんばかりにばっと顔をあげてあたしを見る。
 その目は明らかに驚きの一言を映し出しており、あたしは自分の童顔を毎度のごとく口惜しんだ。 ……やっぱりあたしの事を同年代か、さもなきゃ年下だとでも思ってたな。ちくしょう。
「ハンカチの事は気にしなくていいから、何かあったら連絡頂戴ね。お姉さんがいつでも相談に乗ってあげるから」
 年上である事を強調しながらそう言ってメモを渡すと、彼はおずおずと戸惑ったようにうなずいた。
 そしてあたしは信じられないものを見たという英梨の目がいたたまれず、そそくさとその場を立ち去ったのであった。


 
   ◆ ◆ ◆



 因果は廻る、とまでは言わないけれど一度ケチがつくととことんそれが付いて回るようだ。
 あえて言うまでもなかろうが、結局今日の買い物も相手のドタキャンが理由で中止となった。だからあたしは現地集合はやめてくれとあれほど……まぁ、今となっては所詮これも繰言でしかないけれど。
 しかも今日の空はどんよりと曇り空で、まるで今のあたしの気持ちを代弁しているかのようではないか。
 あたしは前回と同じように、渋谷の繁華街を一人でうろついていた。せっかく電車代を使ってきたのだから、手ぶらで帰るのも何だか勿体無い気がしたのだ。
 もっとも今日はたまたま気まぐれを起こしただけで、基本的にあたしはあまりこういう所を一人で歩くのは好きじゃない。なにしろ結構な割合で声をかけられるからだ。相手はもちろんナンパ男――ではなく迷子の心配をした補導員やお巡りさん。
 自分は小学生じゃないと主張して学生証を見せることになったことも数知れず。まぁ大人から見れば小学生も中学生もさしたる違いはないのかも知れないが、あたしにとってこれはアイデンティティに関わる重大な問題でもあるのだ。
 そうやって見る目の無い歴代の補導員に対する文句をぶちぶちと思い浮かべながら歩いているうちに、あたしはふいにあることに気が付いた。
 あたしはあえて何気ない態度を装って歩みを進め、徐々に人ごみを離れていく。目に映る景色はやがて賑やかな繁華街から閑静な住宅街に変わっていった。
(……んっ)
 思わずこめかみを指で押さえる。
 急に周囲が静かになった所為か、ふいにずきんと頭が痛んだ。だけど我慢できないほどではないので、とりあえず今は無視することにする。まだ風邪が治りきってないのだろう。
 昼間だというのに、あるいは昼間だからこそか、周囲にはまるで人気が無い。まぁそれでも大声を上げればきっと誰かが気が付いてくれるだろう。
 あたしはぴたりと足を止めて背後を振り返った。
「ちょっとそこのあなた。そろそろストーキング行為はやめてくれないかしら」
 冷たく声を張り上げると、存外素直に人影が曲がり角から現れた。しかしその姿を見てあたしは思わず目を見張る。
「あれ、あなたは……」
 知り合いと言うわけではない。交わした言葉もほんの二言三言。だけどあたしはその人物のことを知っていた。
「よお、お(ひい)さん。また会ったな」
 そう言って気さくな態度であたしの前に姿を現したのは、前回この街ですれ違ったあの不思議な男だった。

 

 

 

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