≪黒薔薇狂詩曲≫

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09 アンフォン = テリブル

 

「っくしょんくしょんっ」
 二連続で出た自分のくしゃみで我に返り、あたしは慌てて部屋に取り付けられたクーラーの設定温度を上げる。ぼんやりしているうちに思っていたよりもだいぶ室温が下がってしまったようだ。
 もともとあたしはクーラーの冷気があんまり得意では無い。だから多少の暑さならば扇風機だけでしのいでいるのだけれど、今年は夏休みに入った途端連日連夜の猛暑となり、お陰で例年よりも早くクーラーのお世話になることになった。
 それにキンキンに冷えた部屋の中なら、自分の頭も冷えるかもしれないと、淡い期待を抱いてもいた。
 あれから二週間が経ったが、ルードヴィッヒがあたしの前に姿を現すことは一度たりとも無かった。
 まぁ、こちらとしてもあいつの名前を間違っても口にすることのないよう、これでもかと言うほど気を使っていたのだから当然かもしれないが。
 ルードヴィッヒとのほんのつかの間の再開を果たしてから、あたしのテンションは下がりきったままだった。
 あの魔性とその前の主人のこと。
 あいつにとっての自分の存在価値。
 それらに関する埒も明かない思考が、頭の中をぐるぐると無駄に回っている。こんな状態でまたあいつと対峙することは本当に遠慮したかった。
 むしろこんな風に悩みに悩まされ続けるくらいなら、いっそうだるような暑さと戦っている方が、余計なことは考えなくて済んだかもしれない。
 特に今夜はやることもなく、ひとり部屋の中で夏の宿題に取り掛かっているのだが、それもいい気晴らしにはならなかった。
 だけどそんな時、思いもかけず携帯電話の着信音が鳴り響いた。渡りに船とばかりに嬉々として電話を手に取るが、ディスプレイに表示された番号は見知らぬもの。まさかいたずら電話じゃなかろうかと警戒しつつも、いつまでも鳴り止まぬ呼び出し音に恐るおそるあたしは電話を取った。
「あの……すみません。片瀬さん、ですか?」
 おどおどとした遠慮がちな声。あたしははじめそれが誰だか分からなかった。戸惑いつつ不思議がっていると、その声はまた遠慮がちに自分の名前を答えた。
「前に一度だけお会いしただけで覚えて無いかも知れないですが、その、英梨と言います」
「あっ、英梨くん!? どうしたの、いきなり!」
 あたしはびっくりする。その電話の相手は、以前に駅であった少年だった。確かに電話番号と住所は教えていたものの、突然のことに驚愕を隠せない。もっとも電話するのに予告も何もあったもんじゃないだろうけれど。
「実は前に借りてたハンカチを返したいと思ったんです」
「わざわざそんなのよかったのに」
 あんなの駅前量販店のセール品、三枚いくらの安物だ。しかし英梨は小さな声で、しかしはっきりと言った。
「実は今、すぐそこの公園にいるんです」


 


 あたしは凄く驚いた。最近はだいぶ陽も高くなってはいるのだが、それでもこの時刻だ。外はとっくに闇に覆われている。
 小学生をこんな遅くに一人で外に居させることはできず、あたしは大急ぎで指定された公園に向かった。
 英梨はすぐに見つかった。公園のベンチに落ち着かない様子で座っている。もっともあたしに目を止めると彼はびくっとしたようすで立ち上がり、そしてバツが悪そうに視線を落とした。
 まるでなんだか、あたしが来てしまったことが悪いと言うような態度だ。あたしは首を傾げたが、とにかく英梨の元へ駆け寄った。
「ごめんね、待たせちゃったわね」
「いいえ。僕こそ急に来ちゃってごめんなさい」
 彼は肩身狭そうにぶんぶんと首を振る。
 とりあえずあたしは一番に彼を元居たベンチに座らせた。そうでもしないと今にも倒れてしまいそうに思えたのだ。彼は前回あったときよりもずっとか細く、風が吹けばそれだけで折れてしまいそうに見える。あたしもその隣に腰をおろした。
「ねぇ、大丈夫? もしかして具合が悪いんじゃないの?」
「平気です。……気にしないでください」
 心配になってたずねたが、彼はどことなくかたくなな態度で首を振った。もしかするとまたあの従兄弟と何かあったのだろうか。
「あの。これ、借してもらってたハンカチです」
 英梨は綺麗にアイロンを掛けられたハンカチをあたしに差し出してきた。しかも、おお、糊まで利かせてある。こんな手間隙、うちじゃ絶対にかけないぞ。
「こんな安物わざわざ持ってきてもらっちゃって、逆に申し訳なかったわね」
「借りたものは返さなきゃいけないですから」
 そう言って彼は首を振る。そして鞄の中から小さな包みを取り出した。それは可愛らしくラッピングされたマドレーヌだった。
「良かったらこれ食べてください。ハンカチのお礼です」
 英梨はごそごそと包みを開けて中の焼き菓子を手渡してくれた。夕食後だとは言え少年の好意を無碍にする理由もないので、あたしはお礼と共にそれを受け取って口に放り込んだ。
(……うぐっ)
 しかし噛み砕いたその途端、あたしは呼吸を止め目を白黒させた。
 なんだか非常にありえない味がする。
 むしろこれはすでに菓子ではないだろう。
 苦い。とんでもなく苦い。なにか絶対に菓子に入れてはいけないものが入っている。あたしはほとんど味わうことなくそれを丸呑みにして、英梨を見た。
「も、もしかするとこれは、英梨君が作ったの?」
 引きつりそうになる頬を何とか誤魔化し笑顔でたずねると、英梨はこっくりとうなずいた。
「はい。美鈴お姉ちゃんにぜひ食べてもらいたくって」
 
 お姉ちゃん!
 
 その言葉にあたしは菓子の味も忘れてじーんと胸を熱くした。なんて素敵な響きなのだろう!
 一人っ子であり、またこの外見の所為で同年代どころか年下の人間にさえ子ども扱いされてきたあたしである。
 お姉ちゃんと呼ばれたのはもちろん生まれて初めてだ。
 英梨はどこか不安そうな顔付きであたしを見た。
「あの、もしかして美味しくなかったですか。だったら無理して食べなくても……」
「ううんっ、そんな事ないわ。とっても美味しかったわよ」
「良かった」
 あたしが慌ててそう答え残りのマドレーヌを飲み下すと、英梨はほっとしたように息をつく。
「お姉ちゃんに喜んでもらえるよう、頑張って作った甲斐がありました」
 あまりにも健気な言葉に、あたしは再び胸を熱くする。ホント、こんな可愛らしい弟が欲しかった。たとえ作る菓子の味がどんなに恐ろしいものでも。
 あたしがこの喜びを噛みしめていると、英梨はいそいそと再び鞄を開き出した。
「あの、良かったら沢山あるのでいっぱい食べてください」
 大きく開かれた鞄の中にはマドレーヌがいっぱいに詰まっている。あたしは背中で冷や汗を流した。


 


 とりあえず、あたしは英梨の焼き菓子を三つ食べたところでギブアップした。むしろそれだけ食べた事を褒めて欲しい。……たぶんしばらくは舌も味覚も麻痺したままだろう。心なしか気分も悪くなってきた。
 あたしは自分の気を逸らわすために、英梨に話を促す。
「ねぇ、英梨君。何だか君はさっきから元気がないみたいだけど、また従兄弟君のことで何かあったの」
 門真と喧嘩でもしたのかと訪ねるが、彼は首を振った。
「いえ、門真に手助けをしたいと言ったら彼は受け入れてくれました」
「じゃあ、何が……?」
 英梨は逡巡したように口を閉ざす。あたしは辛抱強くその答えを待った。
「僕が手を貸して、本当に門真のためになるのかが不安で……」
 ぽつりと零されたのは、そんな言葉だった。
「それは自分なんかじゃ、やっぱり役には立たないんじゃないかってこと?」
 英梨は何も答えなかった。
 うつむいた顔から窺えるのは真剣な悩みが落とす影だけである。とにかく英梨は心から、そのことを案じているようであった。
「大丈夫よ。英梨君はまだ若いんだもの。これから自分のできる事を増やしていけばいいのよ」
 馬鹿にしているつもりはけしてないけれど、まだ幼い彼の真剣な悩みをあたしは微笑ましい思いで受け止めた。
「英梨君は本当に門真君の為を思っているんでしょう」
 英梨ははっきりとうなずく。
「だったら迷わず自分が門真君のためと思えることをやってみればいいのよ」
 もちろん相手のことも思いやらないでの行動は押し付けにしかならない。けれど相手のことばかり考えて、現実になるかも分からない不安に居竦んでたら、結局一歩も動けないままだ。
「それに誰かが――、」
 あたしはふと思い至って途中まで言いかけた言葉を飲み込んだ。
 ここまで言ってしまうのはさすがに先走り過ぎかもしれない。なによりこれは本人から聞いてこそ意味のある言葉だろう。だから代わりに別の事を告げる。
「頭で思っているだけじゃ、結局相手には何も伝わらないものよ。門真君の事を思うなら行動に移さないと」
「でも、それが結局門真のためにならなかったら……?」
 疑心暗鬼の塊になってしまっている彼を不憫に思いながらも、あたしは苦笑して肩をすくめる。
「一生懸命やってれば、それだけで何とかなるものよ。思わぬ人が助けてくれたり、ふいに良案が浮かんだりとか――、」
 しかしあたしの言葉に英梨はやはり悲しげな顔のままで、小さく首を振った。
「でもそうやって自信を持って言うことができるのは、貴女が四ノ宮の長姫だからじゃないんですか」
「――えっ?」
 ぎょっとしたあたしは思わず腰を浮かしかけ、――そのままバランスを崩してベンチから転げ落ちた。
 肩から地面に叩きつけられたのだ。息が詰まるほどの痛みを感じてもいいはずなのに、身体はまるでマネキン人形にでもなってしまったかのように無感覚だった。
 おかしい。
 身体がまったく言う事を聞かない。
 思考が空転し、頭が真綿を詰められたようにくらくらする。
「ようやく薬が効いてきたか」
 砂利を踏む音がすぐ耳元で聞こえた。誰かが倒れたあたしのすぐそばに立ったのだ。
「まぁ、睡眠薬入りのマドレーヌをあれほど食べたんだ。効かない方がおかしいかもな」
「門真――、」
 歪んだ視界に入る足が四本になる。眩暈の所為で二重に見えるのかと思ったが、英梨の不安そうな声がやはりすぐ近くで聞こえた。
「ねぇ、本当に大丈夫なのかな。こんなことして」
「口先だけの腑抜け爺どもの代わりをしてやってるんだ。感謝こそされ咎められる言われは無いね」
 ふんと嘲笑うかのような甲高い少年の声が、頭の中でくわんくわんと反響した。
 何が起こっているのかまったく分からない。ただあたしは最後の気力を振り絞るように、ポケットの中から小さな使い魔の宿る鈴を取り出そうとする。しかしその瞬間、どうしてだが突然腕が凍りついたように動かなくなった。
 まるで石像にでもなってしまったかのように固まった手から鈴は零れ落ち、ころころと地面を転がる。それをスニーカーを履いた足が無造作に踏み潰した。
「――っ」
 息を飲むあたしの目の前で二度三度鈴は踏みにじられ、足がどいたときにはすっかりひしゃげて土にまみれた金属片が落ちているだけだった。
「言っておくが、抵抗は無意味だぞ」
 子供らしい無邪気な残酷さが、まるで蝶の羽をむしる様に愉しげに声を弾ませる。
「安心しろ。おまえ自身に興味はない。おまえは単なる餌でしかないんだ。暴れたりしなければ危害は加えない」
 もっともそんな身体では、抵抗などしたくてもできないだろうがな。そんな声がだんだん遠くなっていく。
(あたしは、餌じゃない――)
 ぎりりと奥歯を噛みしめたが、その甲斐もなく視界は闇に埋め尽くされていった。
 そしてあたしの意識は完全に途絶えたのだった。

 

 

 

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