≪黒薔薇狂詩曲≫

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10 魔術師の共犯者

 

 ――遠くで誰かが話をしている。
 
(いいからそこを通すがいいっ。余がすべてを蹴散らしてやるっ)
(駄目だ、おまえは出て行ってはいけないよ)
 ビロードのような滑らかで美しい声を、零れ落ちる花びらのような――しかし可憐というにはどこか凛々しい声が押し留める。
 まるで深い森にいるかのように、周囲には白い霧が満ち何もかもが霞んでいてよく見えない。だけどかろうじて目に映るその姿は声の印象をそのまま形にしたかのようだった。
 霧に阻まれてもはっきりと分かる、まるで夜の闇を具現したような美しい男性。そして儚いまでの優美さとともに颯爽とした麗々しさを合わせ持つ佳人。
(ならば貴様は、貴様があのような不逞の輩に蹂躙されるのを、余に黙って眺めていろとでも言うのか。ふざけるなっ)
 痛ましさを滲ませるほどの熱を持って激昂する声は、しかし彼女の意思を変えるには至らなかった。女性は静かに首を振る。
(いいや、おまえは何も見る必要はないよ。だっておまえは眠りにつくのだから)
(――っ!?)
 ふいにぐらりと男の長身が傾ぐ。
(目覚めた時には必ず、おまえの求めるものがそこにある。おまえはやっと望んでいたものを手に入れられる。だからどうか――安心しておやすみ)
(やめろっ。勝手を言うな! なぜ余の望みを貴様が推し量る!)
 しかし女性は優しく微笑むだけだった。
 愛情と慈しみと、そしてほんのわずかな憐憫をもって男に語りかける。
(今までずっと護ってくれたね。だけどもういいんだ)
 ――ありがとう、ルフト。そして、さようなら……。
 ささやくような台詞と共に、男性の姿が霧に溶けて消える。残ったのは女性ひとりだった。
 女性は静かな眼差しで、男性の消えた場所を見つめ続けていた。けれど、一瞬その姿がぶれたかと思うとふいにこちらを振り返る。
(はじめまして、ちいさなお嬢さん)
 あたしはぎょっとした。まるでドラマの中の登場人物がいきなり自分に話しかけてきたような、そんな奇妙な感覚があった。
「い、今のはいったい……?」
 あわあわとしながら口に出した言葉は、しかし思いのほか力強く世界に響き、そのままこの儚い空間を打ち砕きそうなほどだった。あたしは慌てて口を押さえるが、しかしありがたいことにそんなことは起こらなかった。
(今のはここに残った記憶の欠片。過ぎ去ってしまった幻影さ)
 女性は穏やかに、そして水のように静かに微笑んでいる。
(そしてわたしもおなじ……)
「ねぇ、あなたはもしかすると――、」
 しかし彼女はそっと目を伏せ、小さく首を振った。
(わたしのことはどうでもいい。でもどうか、あの子には優しくしてやってくれ。ああ見えて誰よりも、寂しがり屋で哀しい子なんだ)
 すぅっと霧がさらに深くなり、女性の姿が薄れていく。
 消えゆく彼女に追いすがるように、あたしは慌てて声を張り上げた。
「ねぇ、待って! あなたに聞きたいことがあるの、行かないでっ」
(貴女が呼べば、わたしはいつでも存在する。貴女は会いたい時にここに来ればいいだけ)
 だけど忘れないでくれ。
 すでに姿は無く、静かな声だけが世界に満ちる。
(わたしはもはや、ただの幻影でしかないんだよ――、)
 喜びも哀しみもなく、淡々とした穏やかな響き。
(目覚めなさい。貴女を待っている人がいるのだから)
 その言葉にサァっと霧が晴れて行く。雲間から太陽が覗くように世界は光に満ちて、そして――あたしの視界は真っ白になった。


 

 目が覚めて最初に感じたのは、痺れるような腕と背中の痛みだった。まるでうっかり机の上で転寝をしてしまった時のように、身体が不自然な感じに強張っている。
 そしてその後に気付いたのは、目の前で揺らめく蝋燭の明かりだった。
「ここ、どこ……?」
 いまだはっきりしない頭で身体を起こそうとしたが、再びごろんとひっくり返る。そうなってようやく気が付いた。あたしの両腕は身動きできないように縄で縛られているのだ。
「ちょっ、ちょっといったい何なのよこれ!!?」
「やっと目が覚めたか」
 呆れたような声に視線をあげると、そこには勇ましい、しかしまだだいぶあどけなさを残した顔があった。
「どういうことなのっ。どうしてこんなことをするのよ、門真(かどま)君!」
 そこにいたのは英梨の従兄弟、門真少年だった。彼はふんと鼻を鳴らすと、馬鹿にしたようにあたしを見下ろす。
「なんだ、まだ自分のおかれた状況が理解できないのか」
 しかしいきなりこんな目に合わされて、即座に何が起こったのか理解できる人間の方が少ないと思う。そのうえ今あたしの目の前にいるのはまだ十代始めの少年なのだ。
「ごめんなさい、美鈴お姉ちゃん。仕方がなかったんです」
 ふと顔を横に向けると、そこには泣きそうな顔をした英梨がいる。
「いったいあたしをこんなところに連れてきて、何が目的なの?」
 あたしは大きく深呼吸して、どうにか冷静さを取り戻す。そしてあたりを見回し慎重に尋ねた。薄暗い場所だけれども、ここには彼ら以外いない。それだけは確かなようだ。
「言っただろう。お前は餌なのだと」
「餌って、どういうこと」
 あたしはもう一度尋ねる。
「それはもちろん、常盤闇の鬼神を誘き出すための餌だ」
 思いもよらないその言葉に、あたしはぎょっと顔をあげた。
「まさかあなたたちも四ノ宮の――!?」
 門真は自信に満ち溢れた顔でにやりと笑って見せる。
「その通り。俺は四ノ宮門真。一族における三番目の氏族、三吉埜(みよしの)の当主の第一子だ」
「同じく三吉埜の分家で、四ノ宮英梨です。ごめんなさい、騙すつもりはなかったんですが」
 あたしは愕然とした思いを隠すことができなかった。まさか彼らまでもが四ノ宮の一族の人間だなんて、いったい誰が気付くことができるだろう。
 言葉もないあたしにかまわず、門真はあたしに要求する。
「さあ、四ノ宮の長姫。鬼神を呼ぶがいい」
「あいつを呼んで何をしようと言うの」
 あたしはきっと門真を睨みつける。しかし彼はあどけなくすら見えるほど傲慢に、当然のごとく答えた。
「倒すのさ。それ以外にいったいどんな理由が要る?」
「でも、淳哉と昭仁さんだって倒されたのよ。それをあなたたちが――、」
「俺をあんな半端者と一緒にするなっ」
 彼は激怒した。荒く息を吐いた彼は、しかしすぐに蔑むような表情であたしを笑って見下ろす。
「こんなときにも口に出るのはニノ錘(にのすい)の傍流の名前か。どうやら半端者は半端者同士、馴れ合っているようだな」
「半端者……?」
 意味がわからず首を傾げるあたしに、門真は嘲笑を滲ませた表情でその理由を語った。
「あいつらは一族の血を半分しか引かない半端者だ。何処の馬の骨とも知らない男の精を継ぎ、濁った血を持つ一族の恥さらし――、」
「ふざけないでっ。彼らは立派な人よ!」
 その言葉を遮るように、あたしは門真を怒鳴りつける。その横でびくんと英梨が肩を震わせた。
 何が一族の血だ。身のうちに流れる血液はただの体液でしかなく、そこには貴さも賤しさもありはしない。
 出会った始めに行き違いはあったにしろ、あたしは淳哉と昭仁がきちんとした立派な人間だという事をもう知っている。
 例えどんな血を引いていようが、それを理由に罵る権利なんてどんな人間だってありはしないのだ。しかもそれが四ノ宮とは関係ない家の血を受け継いでいるなどという下らないものだとしたら、なおさらに。
 そんなものに振り回されて人を蔑む門真に、あたしは非常に腹を立てた。もちろんその怒りは彼のような子供にまでそんな価値観を植え付けた四ノ宮という一族事体全体にも向けられている。
 しかし門真はつまらなそうに目を眇めると、鼻を鳴らして言った。
「ふん、どうとでも吠えればいい。だがどれだけ信頼して待ちわびようと、あいつらは来やしないぞ」
「え……っ」
 あたしは顔を青ざめさせた。
「ま、まさか何かしたの!」
「別に俺は何も手を出してないさ。だが一族を出し抜こうとしたことで、あいつらは一度きつい罰を受けた。二度も同じ事を繰り返したりはしないだろうさ」
「きつい……罰?」
「折檻に……行動制限。それにあの人たちにはまだ、一族の監視がついている、はず……」
 おずおずと口に出された英梨の言葉にあたしは愕然とする。
 まさかあたしと関わったことで、淳哉と昭仁がそんな目にあっていたなんて思いもしなかった。彼らは、あたしと先日あった時も何事も無かったかのように振舞っていたのに。
 どうしてと言う以前に、そんなことにも気付けなかった自分が情けなくなる。
「それにどうやら先程一族のほうでも何かあったようだからな。主だった術者は呼び出しを受けていた。勿論その中にはあいつらも入っていたみたいだ」
 だから強情を張ってないで、素直に鬼神を呼び出せ。門真はあたしにそう求める。
「やめてよ、ねぇ! そんな事しても意味は無いでしょう!」
 あたしはそう叫ぶが、彼に己の気を変えるつもりはさらさらないようだった。
「少し時間をくれてやる。頭を冷やしてじっくり考えるんだな」
 門真はそう吐き捨て部屋を出て行く。その後に続いて部屋を出ようとした英梨をあたしは思わず呼び止めた。
「ねえ、待ってよ。英梨君!」
 びくりと肩を震わせて、英梨は足を止めた。
「こんなことして良くないって、気付いているんでしょうっ。どうして止めないのっ」
 英梨は苦しそうに顔を歪め、しかしはっきりとあたしに答えた。
「でも僕は、門真のすることを手伝うって決めたから」
 あたしはショックを受ける。まさか自分が彼を慰めるために語った言葉が、こんな事態を引き起こすなんて。
「僕は門真が、元の門真に戻ってくれるためならなんだってするんです……っ」
 英梨はそう言うと、何かを振り切ろうとするかのように部屋から出て行った。
 


 部屋にはあたし一人だけが取り残された。
 しばらくは、ただ呆然とするしか出来なかったけれど、徐々に頭が動き始める。
 始めはよく分からなかったが、よくよく見ればここはあたしが初めて父の一族の存在を知るきっかけとなり、漆黒の魔性が眠っていた四ノ宮の別荘だった。
 再びここに連れ込まれるとは、随分とあたしはここに縁があるようだ。あるいは縁があるのはあたしではなく――、
 ぶんぶんと首を振る。
 そんなことよりも、今はどうにかしてこの状況を逃れるための方法を考えなければ。
 そうしてあたしは短い間であったけれど、ずっと自分の傍にいてくれた小さな使い魔の事を思い出した。
「すぅちゃん――、」
 ふいにぼたりと、頬をつたった涙が床にこぼれる。
 あんなに可愛くて稚かったのに、あたしが連れて回らなきゃあんなことにはならなかった。
 後悔に押し潰されそうになるあたしだけど、それでも自分と英梨たちが出会ったのは偶然だと信じたかった。
 あたしが友達と待ち合わせをした経緯には誰かの意図が入り込む隙は無いし、何よりそうでなきゃあまりにも辛すぎる。
「とりあえず、どうにかしてここから脱出しなきゃ」
 肩に頬をこすりつけて、涙をぬぐう。くよくよ悩むよりも、まず行動に移すことが大事だ。
 一瞬、あの美しい魔性のことが頭の片隅に過ぎったけれど、その幻影をどうにかして振り払う。あんな腹の立つ輩に手を借りるのはそれ自体がまず業腹だし、正直あれからまた顔を合わせるにはまだあたしの心の整理がついていない。
 まず自由に動けるようになるのが先決だと、身体をがちがちに縛っている縄を切る事を考える。所詮は子供のしたことだと甘く見ていたけれど、縄は切れるどころか緩む気配すらいっこうにない。むしろ変に手首を傷付けてしまったようで、皮膚がすりむけじんじんと痛んだ。
 仕方が無いので部屋に残されている蝋燭で焼き切ることまで考えたけれど、なんと蝋燭だと思ったのはそれっぽく見せた電気照明だったのだ。
 まぁ、何かの弾みで蝋燭が倒れて火事にでもなったら一大事だ。意図的にか偶然にかは分からないけれど、もしもそこまで考えてしたことなら、彼らはかなり気の付く相手だろう。――今はそれが非常に癪に障るけど。
 もはや腹をくくった。
 こうなったら縄を解くことは諦める。このままどうにか屋敷を抜け出し、人がいる場所まで戻るのだ。
 ……なんかこのまま山道を下るのは恐ろしく自殺行為だというような気もするけれど、そこはもう気付かなかったことにしよう。
 後ろ手に扉のノブを捻るけれど、やはりというか当然というか、鍵が掛かっている。
 屋敷の中央付近にある部屋なのか、窓も無く出口はそこ一箇所だけだ。
(よし、仕方が無い)
 あたしは覚悟を決めて、壁際まで下がる。そして勢いをつけて扉に向かって駆け出した。
 古びてはいるけれど頑丈そうな扉。あたしが体当たりしたところで破れるとは思わないけれど、何もしないでいるよりはマシだ。
 ぐんぐんと近付く扉。ぶつかる瞬間、あたしは顔を背けて目をつぶる。
(ぶつかる――っ!)
「ぐえっ」
 不思議なことに、硬い扉にぶつかったにしては痛みはほとんどない。それどころか妙にやわらかく、そして変な声で喋る……扉?
「ええっ!?」
 あたしはぎょっとして顔をあげる。
「びっくりしたなぁ。そんなに俺が待ち遠しかった?」
 そこには全力を込めた体当たりを食らって呻きながらも、どこか愉快そうな顔の淳哉があたしの肩を支えていた。

 

 

 

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