≪黒薔薇狂詩曲≫

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14 幻痛(ファントム・ペイン)

 

 街では夜になってもなかなか気温は下がらない。蒸し蒸しとした湿度の高い空気がいつまでも全身にまとわりつく。
 夏の風物詩ともいえるそんな熱帯夜にここ数日はずっと苦しめられていたのだけれど、それもこんな山の中では関係ないことなのだろう。
 身体の芯から熱を奪う山の冷気にあたしはぶるりと身を震わす。
 しかしそれでもそんな影響など欠片もないかのように、あたしは颯爽と振舞い顔をあげた。それは門真たちに怯えていると勘違いされたくない、なんていう理由からではない。
「なんだ。密談はもう終わりか」
 淳哉とあたしの二人の会話を黙って眺めていた門真が、立ち上がったあたしたちに向かって言った。
 たぶん、今まで黙って見ていたのは自信の表れ。
 淳哉程度の術者ならどうとでもできると高を括っているのだろう。
 だけどこちらだって、そういつまでもしてやられている訳にはいかないのだ。
 武者震いのひとつでも起こりそうな高揚感に、あたしはぴんと背筋を伸ばす。
「ああ、お待たせしたな。こちらの準備は万全だ」
 ゆっくりと彼らの方を向いた淳哉を見て、しかし途端に門真と英梨はぎょっと顔を引きつらせた。
 それもそうだろう。何しろ淳哉の風体は普通ではなかった。
 彼は目隠しをするかのように、目の周りに布を巻いていたのだから。あたしはふっと強気な笑みを唇に乗せる。
 さあ、ここからが反撃だ。


 炎が消えたのはおかしい。
 あたしの言葉に淳哉は一瞬きょとんとしたが、それでもすぐに真剣な術者の顔になってあたしに聞いてきた。
「どういうことだい?」
「だってどう見ても、順番が逆だわ」
 淳哉と門真たちの攻防。
 流れとしては、英梨と門真が何か私には認識できない不可思議な術を使って淳哉の術を消した――そう判断しておかしくはない。
 しかしそこにはひとつ決定的な矛盾があった。
「炎が消えたのは、どれも淳哉が消えたって言ってからなのよ」
 最初の炎陣もそのあとの炎弾も、門真たちのアクションのあと淳哉の反応があってようやく炎が消えた。
「ねぇ、本当に彼らが術を消し去ったの?」
 あたしの問い掛けに、淳哉は戸惑うような素振りを見せる。しかしややあって彼ははっと顔をあげた。
「まさか、門真の――幻術?」
 唖然と呟く淳哉にあたしは小さくうなずいた。
「たぶん、そうなんだと思う」
「そんな……。だって俺には、真っ黒な影が俺の炎を飲み込んだのがはっきり見えたんだ」
 まだ信じがたいと言わんばかりの淳哉にあたしはきっぱりと告げた。むしろ今の言葉があたしの予想を確かなものにした。
「あたしにはそんなの、全然見えなかったわ」
 まるで淳哉の認識を待つようにして、炎が消える。つまり淳哉がそう感じてしまったからこそ、術は効力を失ったのだ。
 彼ら四ノ宮の一族が使う術は、物理法則やら力学などに従っているようには思えない。むしろ術者の精神状態や気力、意識などに強く左右されるのではないだろうか。
 ならば炎を消したのは門真たちではなく、淳哉自身だと考えても不都合はない。
 すなわち炎を消されたと考えた淳哉が、自分で炎を消しさったのだ。
 もっとも理屈の上で理解したからといって、それだけでどうにかなるものじゃないのも確かだろうとあたしは思う。
「相手はただの錯覚じゃなくて、門真の幻術なんだものね……」
 例えば偽薬効果という言葉がある。本物の薬の中に偽物の薬を混ぜても、そうと知らなければ人は本物の同じ効果を偽物の薬で得るというものだ。
 それは人間の思い込みが現実に与える影響を物語る良い例なのだけれど、それと同じように――いや、それ以上に門真の幻術はまるで実際に起こったかのような錯覚を人に与えてしまう。
 そのうえ《炎術》の術者は、《幻術》の術者と相性が悪い。たぶん、それは炎術使いが余計に幻術に掛かりやすいという事なのだろう。
 けれど淳哉はにやりと笑った。
「いや、たぶんいける。要するに、見えるから気になるんだよな」
 そう言って淳哉はするりと、手首に巻いていたハンカチを解いたのだった。
 
 
 そして今、目隠しとして淳哉の目の周りに巻かれているものがそのハンカチだ。
 こうしたハンカチの使用法はあまり普通では無いだろうけど、まぁ、こんな事態だから仕方ないだろう。
 ちなみに目隠しをするときに、何故だか淳哉から「これは別に俺の趣味という訳ではないから」とくどい位に念を押されたけれど、わざわざ教えてもらわなくたって、さすがに私も彼がスイカ割りを趣味にしていると勘違いはしたりはしないのに。
「さぁて、見ての通りどこに当たるか分からないからな。上手く避けろよ」
 淳哉はにやりと笑って手のひらに生み出した火球を勢いよく二人に向かって投げつける。さすがの二人も短い悲鳴を上げて、攻撃を避けるため身を大きく投げ出した。火球は見当違いのところで破裂し、大きな火柱を上げる。
 もっとも今のは単なる脅しに過ぎない。口ではあんな事を言っているけれど、実際には淳哉は当てずっぽうに術を放っているという訳ではないとあたしは知っていた。
(目に頼らなくても、ある程度術者の気配を感じられるくらいには俺だって修練を積んでいるからな)
 これは、この作戦を立てたときに淳哉がこっそりと耳打ちしてくれた言葉。やはり一族内でも名の知られた実力者というのは誇張ではないのだろう。
 それでも万が一に備えてという形で、あたしは彼のサポートを任されていた。
 『炎術使い』が『幻術』を苦手としているように、『幻術』の使い手にとっては『予見』の能力者がそれに相当するらしい。
 『予見』とは、すなわち『視る』力。
 『予見』の術者には『幻術』の能力はあまり通用しないのだ。
 だからあたしは淳哉の目の代わりになる事を頼まれた。
 もっともそれがあたしを戦闘に巻き込まないための方便だと言う事も薄々感じてもいたのだけれど、そこは黙って気付かない振りをした。だってあたしが見ること以外、何の役にも立たないという事は事実だ。自分の無力さが生み出す口惜しさを意志の力で抑え込んで、あたしは彼らの攻防を必死に目で追っていた。
「見る事をしなければ、消されたと思い込むこともないからな」
 目隠しをした淳哉は宙に次々と焔の華を咲かせていく。周囲に浮かぶ炎の球はまるで夜の闇に咲く真紅の薔薇のようだった。
 淳哉はすっとタクトを持つ指揮者のように腕を振るう。それにつられたように周囲の火球がいっせいに動き、英梨と門真を取り囲んだ。
「さて、火傷したくなければ素直に答えるんだ。いったい何が目的で、お前たちはこんな事をしでかした」
 英梨と門真は互いに寄り添い、怯えたように身を縮め込ませている。しかし淳哉は追及を緩めない。
「ただ功名心に逸ったという訳では無いんだろう」
 門真の陰に隠れる英梨は一瞬口を開きかけたが、門真の様子を窺い口を閉ざす。
「正直に言えば、悪いようにはしないぞ」
 怯える二人の様子を感じ取ったのだろう。語勢を弱め、なだめる調子で淳哉は問い掛ける。
 口惜しげな眼差しで淳哉を睨みつけていた門真だったが、やがて彼は観念したようにがっくりとうつむいた。しかし――、
「……ふふ」
 どこか不吉な響きを持つ笑みに、あたしははっと視線を向ける。
「まったく残念だね。実に惜しいところまできた、と言ってあげるよ。だけど、俺を追い詰めるにはまだ至らない」
 唖然とするあたしの目の前で、門真は優雅とも言える仕種で腕を伸ばした。そしてパチンと指を鳴らす。それに被せるように英梨も手を叩いた。
「幻は何も、目で見るものとは限らない」
 彼らを取り囲む炎が消え失せたのは、次の瞬間の事だった。
「な……っ!」
 淳哉はぎょっとしたように目隠しをむしり取る。あたしも今自分の目の前で起きた事をすぐに理解することができなかった。
 しかし淳哉の炎はたしかに消えている。
「着眼点は良かったよ。たぶん一番最初にそれをやられていたら、この術は成功しなかっただろう」
 門真は得意げに顔をあげ、にんまりと笑う。
「だけどもう遅いんだ。あんたはすでに自分の炎術が消される感覚を身体に記憶してしまった。今更目を閉じたって手遅れなんだよ」
 門真は淳哉に、英梨の操る影の使い魔が炎をかき消す様子を見せたのだろう。しかし淳哉が感じたのはそれだけではない。
 門真が幻を見せる時に行った指を鳴らすという行為、英梨の手を打ち合わせる音。あるいは炎が消されたときの衝撃も淳哉は感じたかもしれない。
 幻肢痛――それは存在しない四肢に感じる痛みの幻。あるいは幻聴、幻覚などといったものもまさしく感覚における幻だ。
 すなわち人間に備わる五官のすべては、幻覚を感じる受容器(レセプター)となり得てしまう。
 すべての五官を通して感じてしまう幻は、目隠しひとつで完全に防げるわけではないのだ。
「くそうっ」
 悪態をついた淳哉はもう一度固く目をつぶり術を放つ。しかし結果は同じ。門真の見せる幻によって術はことごとく封じられてしまった。
 一度消されたと思ってしまった感覚は、例え頭で理解しても完全に払拭でできないみたいだ。
(どうにかして、門真の幻術を打ち破る術はないかしら)
 あたしはぐっと唇を噛んで、必死で思考をめぐらす。
 けれど形がなく、実際には存在しない幻だからこそ打てる手立てが見つからない。
 だけど絶対に何の弱点も存在しないなんてことがあるはずがないのだ。
「いったい、どうすれば……」
 その時、焦って呟くあたしの声に重なってほんの微かに軽やかな音色が響いた。
 それは始めただの幻聴かと思えた。しかし向かい合う淳哉もまた同じ表情でこちらを見ている。
 たぶんその時のあたしたちの表情は、まるで暗闇の中に一筋の光明を見つけたかのようだったと思う。

 

 

 

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