≪黒薔薇狂詩曲≫

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16 魔性の王は嘲笑う

 

 あたしは恐るおそる瞼を持ち上げる。
 衝撃はあたしが覚悟していたほどにはなかった。
 むしろ痛くも痒くもない。なのに目を開けどそこに映るのは闇一色。
 もしかするとこれが死後の世界という奴で、あたしはまさか死んでしまったのか。
 思わず顔を青ざめさせた時、何とも不遜な声が頭の上から降ってきた。
「……ふん。何かと思えばつまらぬ。ただの式神か」
 ぐしゃりと何かを握りつぶすような音。
 この聞き覚えのある、むしろありすぎる美声はまさか……っ。
 あたしはぎょっとして声の方へ顔を上げる。
「ル、ルードヴィッヒっ! どうしてここに!?」
「呼ぶのが遅すぎるわ、この下僕め」
 じろりとあたしを睨みつけ、無駄な美貌を湛える漆黒の魔性はびちんっとあたしの額にでこピンをする。あたしは痛みに耐え切れず、思わず彼の足元にしゃがみこんだ。
 あたしはどうやら奴に庇われ、その胸に抱きこまれていたようだ。今更ながらに頬が熱を持つ。
 しかしルードヴィッヒはまるで猫のようにあたしの首根っこを掴むと、無理やり立たせた。
「何故、余を呼ばん」
「えっ?」
「必要の無い時には気軽に呼び出す癖に、何故こういう時に限って助けを求めんのだ」
 べ、別にこれまでだってあたしはこいつを呼んだ覚えは一度だってないのだけれど!
 ルードヴィッヒはなにやら非常にむすっとした表情で、すここここんっとあたしの側頭部を連続でノックする。たいして痛くは無いのだけれど、何だか非常に腹の立つ動作だ。
「だ、だってさ……」
 あたしは、ただただばつの悪い思いで視線を逸らして言いよどむ。
 こんな腹の立つ奴の手なんて借りたくない。顔を合わせるには心の整理がついていない。理由はきっと幾通りも思いつく。
 しかしそれ以上にあたしの中心にあったのは、普段はあれだけ邪険な扱いをしておきながら必要なときだけ利用するなんて、あまりにも虫が良すぎるというそんな思いだった。
 あたしはこの魔性を敬遠している。できれば顔を合わせることも遠慮したいと考えている。
 それなのに自分が危険に陥ったときだけは助けてもらおうなんて、あまりにも卑怯な、そして自分勝手な考えだった。それはけしてあたし自身が許容できるものでは無い。
 だいたい仮に助けてもらえたとしても、あたしはルードヴィッヒになんの見返りも差し出すことができないのだ。
 決まり悪くそう答えるあたしは、いったい奴の口からどんな罵詈雑言が飛び出すか覚悟をする。しかしルードヴィッヒは黙りこくったままであり、訝しがったあたしは恐るおそる彼を窺った。
「……この愚か者め」
 それを待ちわびていたように、額を拳で小突かれあたしは思わず仰け反った。
「な、何するのよっ」
「下僕の分際で余計な気を回すのではない。例えできが悪かろうが、貴様は余の下僕だ」
 だから貴様は大人しく余に守られておれば良いのだ。そう言われあたしは思わずむっとする。そんな言われ方をしてもちっとも嬉しくないぞ。
「だいたいなんだ。また貴様は余の知らぬ間に傷を負っているのか」
「きゃあっ」
 ぐいっと無造作に手を掴まれる。ルードヴィッヒは手首についた縄の痕、それが擦れてできた擦り傷を睨みつけるように見ていた。
「貴様の血は最後のひと雫に至るまで、余のものだ。余の了承もなく勝手に流してよいものではない。覚えておけ」
 ひとの人権も考えない、傲慢極まりないその言葉。
 てか誰かに許可を貰って怪我をするなんて事態がまずありえない――、そう呆れていたのも束の間。
「な……、ちょっとやめっ! んっ」
 ルードヴィッヒは当たり前のように、手首に唇を押し当てた。
 舌が抉るように傷口を舐める。ずきんと走る痛みは、しかしどこか甘い違和感を伴って、背筋を駆け巡った。
「無駄に流すな。資源の無駄だ」
「資源って人を何だと――んくっ」
 ぞくぞくと全身の血がさざめき、身体を支える骨が砕けてしまったかのように足腰が立たなくなる。
「あのさぁっ、お二人さん。そろそろ二人の世界から戻って来てはくれないかい?」
 苛立たしげな淳哉の声にあたしははっとして振り返った。
「べ、別に二人の世界なんてそんな――っ!」
「とにかく君はこっちにおいで、危ないから」
 ぐいっと腕を引かれ、あたしは淳哉の胸の中に倒れこむ。彼はそのままあたしをルードヴィッヒから引き離した。掴まれた腕の力強さにあたしは思わず顔をしかめる。
「危ないっていったい――、」
「門真がやる気満々だ」
 見ればルードヴィッヒは厳しく鋭い眼差しでたたずんでいる。その視線の先を追えば、物騒な笑みを浮かべる門真がいた。
「ようやく姿を現したか。待ちわびたぞ、常盤闇の鬼神」
 どこか熱に浮かされたような門真をルードヴィッヒは冷たく見やる。
「一族に語り継がれる最強の魔性。この俺、三吉埜の長子たる門真がお前を地に這わせてやる。覚悟しろ!」
 ルードヴィッヒは黙って門真を眺めていたが、やがて呆れたように小さく息をついた。
「……いったい何時からだ。四ノ宮が揃いも揃って相手の力量も測れぬ愚か者の集団になり下がったのは」
 相手にもならないと言外に言われ、門真はかっと目を怒らせる。
「その言葉、すぐに撤回させてやる!」
 勇ましく声を張り上げ、門真は懐から取り出したものを投げつけた。細長い紙片に見えたそれはみるみるうちに真っ白な鳥になり、すごい勢いで魔性に向かって飛んでいく。ルードヴィッヒはふうとため息をつき、軽く手を払った。その途端、鳥は呪札に姿を戻しひらりと空しく地に舞った。
 その隙を衝くように英梨が手を打ち鳴らした。その一瞬だけわずかに魔性の動きが鈍ったが、煩わしそうに彼が足元に視線を落としただけで、パンと乾いた破裂音がして術が解かれる。小さな悲鳴を上げた英梨が地面に膝をついた。
 まさに赤子の手を捻るようなありさまだ。
「……悪い、美鈴ちゃん。もしかすると君にも手を貸して貰わなければならなくなるかも知れない」
 そんな攻防を為す術もなく見ていたあたしは、耳元に落とされた囁くような声にはっと振り返った。淳哉は緊張に青ざめた顔を門真たちへ向けている。
 つかまれたままの腕が、更なる力を加えられ微かな痛みを伝える。
「どうにかして鬼神を押さえないと」
「え、それって……?」
「このままだと、門真たちが危険だ」
 今はまだルードヴィッヒは彼らを小手先であしらっている状態だ。だけどその表情が徐々に煩わしげに苛立ってきている。
「奴は子供相手でも、手加減なんかしないだろう。いざとなったら俺らが止めなければ」
 ようやくあたしにも淳哉が何を危惧しているのかが理解できた。
 残念ながら、やはり門真とルードヴィッヒの間には明らかに実力の差というものが存在している。
 しかしルードヴィッヒは魔性。人間とは異なる存在だ。獅子は兎を狩るにも全力を持ってする、という言葉が奴にも当てはまるのかどうかは知らないけれど、年端も行かない子供だなんてことは、奴にとっては意味を持たないことだろう。
 このままでは門真たち二人は手加減無しで叩き伏せられてしまうかもしれない。もしかすると、命だって危うくなる可能性だってある。
「俺らもいざとなったら全力で鬼神に向かうけれど、果たしてどこまで俺らの力が通用するかは分からない。万が一のときは、申し訳ないけれど美鈴ちゃんが頼りなんだ」
 淳哉は緊張に引きつった顔を苦く笑う。昭仁もやはり真剣な表情でルードヴィッヒを見ている。二人とも、一度実際に戦ったからこそ、その桁外れの力を理解しているのだ。
「分かったわ……。でも、そんな切羽詰った状況になるまで待たなくたって今止めてもいいんじゃないの」
「み、美鈴ちゃんっ!?」
 掴まれていた腕を振りほどきルードヴィッヒの元へ向かおうとするあたしを、淳哉は慌てて止めようとする。しかしあたしは歩みを止めなかった。
 今は他ならぬあたしがあの魔性を止めなければいけない。
 それは伝承の上ではあたしが奴の主となっているから、なんていう根拠の無い驕りから出た思いではない。むしろそんな考えではあいつはけして止まらないだろう。
 だけど今だけは、間違いなくあたしにもあいつを止める権利があるはずだった。
「ルードヴィッヒ!」
「なんだ」
 悲壮感すら漂わせて、決死の覚悟で呼んだ魔性は至極あっさりとこちらを振り返った。むしろそのことにあたしはびっくりしてしまう。
「下らぬ用ならば後にしろ。余はこの愚かな小童どもに仕置きをくれてやるので忙しい」
「い、今すぐ攻撃をやめなさいっ」
「攻撃?」
 ルードヴィッヒは心外そうな顔をする。
「こんなもの攻撃とは言わん。手慰みにも足りない児戯に類するものだ」
「どっちだって同じよ。止めてって言ってるの」
 漆黒の魔性はすっと目を半眼にして、冷ややかな眼差しであたしを見おろす。
「余に、命令をする気か」
「命令じゃないわ。止めてって頼んでいるだけよ」
 あたしは真っ直ぐにルードヴィッヒの目を見返す。その濃緑の眸に暖かみという物は皆無だったけれど、あたしは怯まなかった。
 なぜならこいつはあたしの名前を題目に掲げてここに現れたのだ。
 あたしを守るためだと言うそんな理由で。
 それならば当のあたしを放って争いに興じる魔性を止める権利を、少なくともあたしだけは持っていると言っていいはず。
「余の方から手出しを下というわけでは無いぞ。余は火の粉を払っただけだ」
「あなたはいったい何のためにこの場に現れたの。彼らの相手をするため?」
 あたしとルードヴィッヒは真正面から睨みあう。緊張感をはらんだ沈黙ののち、やがて彼は小さくため息をついて視線を逸らした。
「余には、好んで蟻を踏み潰す趣味は無い」
 そう言うと漆黒の魔性は先程までのやり取りなどなかったかのような気軽さで身を翻す。彼にとっては門真たちの相手は本当にさしたる手間ではなかったのだろう。
「ちょこまかと目障りゆえに相手をしてやったが、下僕が泣いて懇願するようなら仕方ない。捨て置いてやろう」
「こ、懇願なんかしてないけど……まぁ、いいわ」
 非常に不本意な単語を出されたけれども、ここはぐっと我慢する。言葉がどうであれ重要なのは結果だ。
「おい、待てっ! どこに行く!?」
 門真は慌てた様子でルードヴィッヒの背中に怒鳴りつけた。
 ルードヴィッヒの反撃は本当に手慰み以上の物ではなかったらしい。門真は何度も地面に転がされて土塗れになっているけれど、目立った怪我は無いようだ。
 しかしそのことがさらに門真のプライドを傷付けたらしい。
「まだ俺との勝負は終わっていないぞ!」
「余は懐深く慈悲に溢れているが、いつまでも迂愚な小虫と遊んでやれるほど暇では無い」
(懐深い……?)
 慈悲やら小虫やら、色々突っ込みたい所はあるけれどここはぐっと我慢である。
 詰まらなそうな顔をしているけれど、どうやら素直に言う事を聞きいれ戻ってくる様子の魔性にあたしはほっと息をついた。しかし――、
「おいっ」
 ひと際声高く、門真がルードヴィッヒを呼びつける。
「こっちを見ろ」
 居丈高な声にふいに魔性は視線を向ける。門真が指を鳴らし陽炎が生じた。 その瞬間、ルードヴィッヒが驚いたように目を見開き、顔色を変えるのが分かった。
「伊織……」
 ふいに零れ落ちるように漏らされた言葉に、あたしの心臓は音をたてて軋んだ。

 

 

 

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