≪五万ヒット御礼企画≫
これは短編『陽天下お風呂場飼育論』の番外編……と言うか一種のパラレルと思って読んでください。
02 クリティカルヒット
その決定に対し、彼は断固として抵抗を示した。 「ですからっ、それだけは絶対に認められません! 何が何でも拒否します!」
彼の言葉に短いため息混じりの声が返された。
「いい加減認めてしまえばいい」
彼はぶんぶんと首を振る。
「さっきから言っているように、これは僕のアイデンティティにおける重大な――、」
「だから僕は河童じゃないんだってばぁっ!!」 彼はほとんど泣きながら、己の飼い主の命名に抵抗した。 ことの始まりは一週間前。 「そう言えば、貴様の名前は何と呼べばいいんだ」 ぶっきらぼうにこう訊ねたのは、このアパートに一室を借りている独り暮らしの女子大生であった。 「さすがに名無しの権兵衛じゃ呼び難い」
その声に答えたのは彫りの深い国籍不明な顔立ちに、にこにこと浮かべられたのん気そうな表情。緑がかった黒髪を腰の辺りまで伸ばしていると言う、見るからに怪しげな風体の若い男だった。
彼は人魚であり――そして彼女のペットなのである。 真偽はともかく、迂闊にも陸に上がって干からびかけたらしい彼は間一髪で見つけた浴場に一目惚れした。そして勝手に他人の部屋に入り込んだ彼は、その部屋に住まう女子大生に発見され通報されかけ、すったもんだの末に彼女の家の風呂場に住むことになったのである。 「ここに置いて貰うなった時点で、僕はこれまでの自分を捨てて新しい人生を歩むつもりでいましたから」 だから好きに名前をつけてください、と彼は殊勝な態度でそう言う。
「なんでよりによって河童の助なんですか!?」 彼は己の住処である風呂場に閉じこもってそう叫ぶ。 彼は人魚である。誰がなんと言おうと人魚であって、牧歌的で滑稽な河童なんかじゃない。もちろん尻小玉なんか好物じゃない。彼は己の主張を貫くために、篭城と言う手段でもって必死で飼い主に抵抗していた。 「でもキュウリは食べるじゃないか」
文句を言うな、と彼女は冷たい眼差しですりガラスの向こうの彼を睨みつける。養われている身の上ならば、こちらの台所事情に協力してしかるべきだ、と。
だいたい知らないとでも思っていたのか、と彼女は冷たい眼差しを彼に向ける。 「貴様、テレビの相撲中継を欠かさず見ているだろう」
河童と言うのは大の相撲好き。
「そ、それは日本の国技に敬意を払っているだけです!」 なんとかそう主張するものの段々雲行きが怪しくなってきたことは否めない。
「人がせっかくこんなに頭を絞って考えてやったというのに、どうして拒むんだ」
名は体を表わすと言うが、名前と言うのはその本人を象徴する重大なシンボルだ。当の本人にかすりもしない(むしろ何が何でも遠慮したい)名称を与えられるのは、自身のアイデンティティを崩壊に導く暴挙である。 「あのな、貴様は私に名前をつけろと言ったのだろ。ならばこうなることも予想してしかるべきではなかったのか」
彼はおどおどと答える。彼女はやれやれと大きく息を吐き、彼を見つめた。 「貴様はこれまでの名前を捨てて新しい名前が欲しいと言う」
たとえ名を捨て過去を拒絶しても、これまで得てきた経験を消してまっさらな自分になることはけしてできないのだ。 「ならばそこまで、昔のおまえを消し去ろうとすることはないんじゃないか」 どこか慰めるような調子で淡々と言う彼女を、彼はそっと視線を上げて見る。彼はおずおずと鍵をはずし閉じこもっていた風呂場から出てきた。 「良い子だ」 無表情の彼女にぽんと頭に手を乗せられ、彼は恥ずかしそうに首をすくめる。まるで幼い子供のような反応を見せる彼を見て、彼女は自分が折れることにした。……弱いもの苛めをしているような気持ちになってきたのだ。 「そんなに嫌なら違う名前を考えてやる。参考にするから以前の名前を言ってみろ」
彼はぱっと顔を上げる。そして嬉しそうにひたすら長ったらしくてややこしい音の羅列を口にした。 「……なんだって?」 しかし彼女は眉間に皺を寄せて怪訝な表情で聞き返す。その複雑怪奇な音節は一度聞いたぐらいでは到底覚えられそうになく、しかも舌を噛みそうだ。彼は頬を赤く染めてもう一度同じ言葉を述べ、照れたように頭をかいた。 「昔の僕の名前です」
彼女は納得する。確かにその名前ではこの国で暮らすには不便かもしれない。と言うか、呼べといわれても絶対に御免だ。いったい彼の親は何を考えてこんな呼びにくい名前をつけたのやら。 「その名前には、何か由来があるのか?」
彼は自慢する子どものように嬉々として答える。 「『河辺の子ども』と言う立派な意味があるんです!」
彼は目を丸くする。愕然とした表情を浮かべる彼の前で、彼女はうんうんとうなずいた。 「じゃあやはり河童の助でいいな」
「そ、そんなの僕は絶対に認めませんよ――っっ!!」
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2、「クリティカルヒット」……『陽天下お風呂場飼育論』番外編(パラレル)
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