「おい…」 よく晴れた日曜の午後。 一人暮らしの生活にも順調に慣れ、忙しい日々の中ではつい滞りがちな家の掃除をこの機会に徹底的にしてみようかと思いついた今日この頃。
「つうか一体なんじゃコリャ?」 定員一名様限定の小さい浴槽の中いっぱいに、黒っぽい緑の物体が水の中をふよふよとたゆたっている。色も揺れ方もまさしく海で光合成に励んでいる海藻類そっくりなのだが、 「髪だよな…」 それは明らかに人毛だった。 「まさか死体か」 何故自分の家の浴槽に死体が入っているのかはわからないが、それならば自分が第一発見者と言うことになるだろう。善良な一般市民は直ちに警察に連絡を―――、そう思った瞬間。 ぴくりっ 「……」 長い髪に埋もれた肩がかすかに動いた。 「…もしや、生きているのか」 びくっ 今度は明らかに水面が波打つ。 「…問題。ここに家庭用洗剤溶液A(塩素系)と同じく洗剤溶液B(アンモニア系)がある。これを一度に混ぜ合わせたら一体何が起こるでしょうか。レッツシンキングターイム…」 ちっ、ちっ、ちっ、ちっ―――、 答え。毒ガスが発生する。 「では実際に実験してみよう。ちなみにこの二つの溶液を混ぜ合わせたらすぐに私は浴室のドアを閉め退避するのでそのつもりで。では実験スタート」 「ちょっ、ちょっと待ってくださ――いっっ」 ざばりと派手な音がして浴槽の水が溢れた。 「…」 無言でズボンのポケットから携帯を取り出し、短い番号をプッシュする。
「ま、待ってくださいっ。いきなりどこに掛けているんですか!?」
男が情けない顔でついにはうるうると泣き出したのを見やり、ため息をついてぱちんと携帯を閉じた。 「分かった。武士の情けだ。通報する前に話だけは聞いてやる」
その不審者は浴槽の中で姿勢よく正座する。顔つきだけは真面目だが妙に間の抜けた光景だ。 「貴様、一体どこから入ってきた」 1DK風呂トイレ付きの私の部屋は、トイレ以外のどこに居たって玄関が見える。昨夜風呂を使ってから一度も外出していない私に気付かれないように浴槽に潜むのは不可能なはずだ。もしできるのだとしたら、あえてその方法を知り今後の防犯対策に役立てたいところである。 「あそこからです」 不審者は無邪気に壁を指差した。 「…そこは無理だろう」 不審者が指差したのは天井近くの換気用の小窓。確かにこの家では唯一鍵を掛けてなかったところだったが、けして小柄とも言えないこの男が通れるような大きさではない。小さな子供か、あるいはよほどスレンダーな女性がせいぜいだろう。 「私は頭が通れば大体どんな隙間でも通れるんです」 呟きに思わず感心したような響きが混じってしまい、慌てて首を振る。 「分かった。ならいい。次からはちゃんと施錠することにする。それで、おまえはいったい何なんだ。一体何のために私の家に忍び込んだんだ」
ずばり、僕は人魚なんですよ」 ぱちんっ 私は洗剤のふたを開けた。 「ちょっと待ってくださいっ。信じられない気持ちは分かりますっ。怪しむ気持ちも分かります。ですがもうちょっと話を聞いてくださいっ」
人魚(パチモン)は半泣きで悲鳴をあげた。 「…大体なんでその人魚が人んちの風呂場で体育座りしてるんだよ」 人魚と言う物は南の海か海底にでも住んでるんじゃないのか。 「メルヘンじゃないんですから、現代の人魚は地上で買い物もすれば食事だってしますよ。まあ、冬以外はたいていは涼しい夜のうちにしてますけどね。もっとも今日は春めいてきたとは言えまだ冬だから大丈夫だろうと思って外出したら、予想外の熱さにやられまして…」 なるほど。天気予報では今日は五月中旬並みの陽気と言っていた。異常気象真っ盛りである。 「段々体力もなくなってきて、もうだめだ〜、自分はこのまま干からびて干物になって死ぬんだ〜と思っていたら、ふと見あげた窓から水の気配を感じて悪いと思いながらも浸からせて頂いた次第です」
うんうんとうなずいた。 「貴様の言いたいことは理解した」 自称・人魚はほっと胸を撫ぜ下ろした。 「じゃあ、もう警察に連絡していいな」
そう言って彼はズボンの裾を捲り上げ、両手を突き出す。見てみれば、生っ白くて細い素足にはすね毛はなく代りに鱗がびっしりと生えており、両手の指の間には水掻きがついていた。
「そんなの何の証拠にもならない。貴様が単に幼少時から水泳をしすぎために水掻きが発達しただけかもしれないし、重度の皮膚病患者なだけかもしれない。で、次の証拠は何だ?頭のてっ辺に皿でもついているのか?」 再び目を潤ませ肩を落としていた自称・人魚だが何とか気を取り直し毅然と顔を上げる。 「じゃ、じゃあこういうのはどうでしょう。僕は人魚ですからいくらでも水の中に潜っていられます。だからあなたが言う時間水の中に潜っていられたら僕が人魚だって信じてもらえますか?」
自称・人魚は自信たっぷりに笑って胸を叩いた。
一分経過。 私は物音を立てないようにこっそりと部屋に戻り、ダイニングの椅子を持ってくる。そしてふたの上に置いて重石にした。 十分経過。 段々お湯も温まって来たところだろう。だが風呂場からは何の音もしない。 十五分経過。 とんとんと内側からふたを叩く音がする。がたがたとふたがゆれるが、椅子が重石になって出られないようだ。 二十分経過。 さらに激しくふたが揺れる。浴槽自体も揺れている。だいぶ中で暴れているようだ。 二十五分経過。 ついにがたんっと大きな音がした。どうやら椅子がふたから転げ落ちたようだ。 「まだ三十分たっていないぞ」 五右衛門もビックリ、風呂茹での刑。 「きさまが人間じゃないなら殺人罪にはならないので大丈夫だ」
人魚はほろほろと涙をこぼした。 しかし妖怪だろうが人間だろうが、一人暮らしの女性の家の風呂場に入り込んでしかもその浴槽に浸かっていたりなんかしたら、釜茹でのひとつやふたつされても文句は言えないではないかと思うのだが…。 「分かった。ならば六億九千六十二歩譲ってきさまが人間ではないと認めてやろう」
人魚が口ごもった。 「このお風呂場の持ち主に、ひとつお願いがあったんですけど―――、もういいです…」
何度かの押し問答の末、人魚はしぶしぶと言った感じで口を開いた。 「実は、このお風呂場の雰囲気がかなり気に入ったので―――、可愛いペットでも飼いませんか、と」
人魚は自分を指差してにっこりと微笑んだ。 「夜鳴きもしないし散歩も必要なし。しつけだって済んでます。淋しい時の慰めに―――、」 人畜無害な人型ペット(Not河童)はにっこり笑顔で首を振る。 「いえいえ、そんなことはないですよ。リーズナブルなことこの上ないですよ。毎日魚河岸直送の鮮魚を一キロほど―――、」
人魚(あるいは河童)はしくしくと泣きながらも懸命にこちらをうかがう。 「それで、僕を飼ってくれはしないでしょうか。むしろ今となっては追い出された方が幸せになれる気がしないでもないので、いっそ断っていただけた方が有り難いのですが…、」 ほとんど逃げ腰のその生き物の上から下までをじっくり眺め、私はしばし思案する。 「よし。いいだろう」 人魚は大きく目を見開いた。 「今…、なんておっしゃいました?」 人魚はあからさまに怯えた表情を浮かべた。微笑む顔は完全に引きつっている。 「それって一体なんでしょう…」 人魚は再び目をぱちくりとさせた。
【終】 |