<競作小説企画 第六回「夏祭り」参加作品>

  □■□ 怪しいバイトは真夏のプールサイドで □■□
 

 

 冷やし水、はじめました。
 そんなキャッチコピーが、ふいに脳裏をよぎる。
 ぎらぎら焼け付く太陽の日差しを浴びて、キラキラと舞う水飛沫。
 無邪気にはしゃぐ声は、決して子供たちだけの専売特許ではない。それどころか老若男女が区別なく、楽しげな笑い声を弾けさせているのだ。
 確かにこんな暑い日が続けば、誰だって水の中に飛び込みたくなる。
 願わくば、青い海にでも向かって駆け出したいのが本音だが、生憎メジャーな海水浴場は大渋滞や芋洗いと、切っても切れない仲なのが最近の常識だ。
 ならばもっとお手軽にと、人々が足を運ぶのが市民プール。
 ちゃっちい、などと言ってはいけない。気軽に涼を取るには最適だし、最近はウォータースライダーなども設置され、大人も子供も揃ってきゃーきゃーと嬉しそうな黄色い悲鳴をあげているのだ。
 そうでなくとも若い女性はちょっと背伸びしたセクシーな水着を見せびらかし、男性はそれを見て鼻の下を伸ばしている。
 子供たちは友達同士でどれだけ長く水中に潜っていられるかを競い合って、一方引率のお父さんは昼間からビールを飲んでプールサイドで虫干しされている。
 花より団子の人たちにとっては、売店で売っているフランクフルトやカキ氷を頬張るのだって楽しいものである。
 もちろん俺もそんな人たちを眺めながら、

≪ピィィィィー――――ッ!!≫

 笛を吹く。
『そこぉ、プールサイドで走らないっ! あと、そっちのお兄さんっ! 勢い良くプールに飛び込まないでくださいっ! あっ、こら! 子供っ、食べ物持ったまま水に入るんじゃないっ!』
 メガホンを通して、俺は矢継ぎ早に注意事項を怒鳴る。
 夏の日差しに脳が温まるのか、はしゃぐ客たちは次から次へと問題行動を起こし、息つく暇も見つからない。
「いちいちうるせえっての」
 誰かが監視台の足を蹴り、椅子が揺れる。
 慌てて手すりに掴まった俺は、声のほうを振り返るがとっくに犯人は人ゴミに紛れている。
(俺だって好きで怒鳴ってるんじゃないっつーのっ!)
 短パンからのぞく足に一滴の水が落ちる。俺は首に掛けたタオルで流れる涙――ではなく、滝のような汗をぬぐった。
 キャップを被り、サングラスを掛けてはいるものの、それで夏の日差しを遮れるかといったらそんな訳がない。
 いくら金のためとはいえ、まったく監視員の仕事も楽ではないと、俺は深々とため息を漏らした。


 日が落ち、僅かばかりでも気温が下がると思いきや、むしむしとした暑さは昼間とさほど変わらない。
 バイトを終えた俺は、まっすぐ帰路についていた。
「ううむ、このバイトは失敗だったかな」
 少しでも涼を求めてプールの監視員のアルバイトに応募したのだが、よくよく考えれば自分がプールに入れるわけではないし、むしろ暑い日差しの中何時間も座ってなければならないとなれば苦行に近いものがある。
 お盆も過ぎ、夏休みは終盤に差し掛かっている。
 学生達は残り少ない夏休みを精一杯満喫しようと、社会人はもとより少ない夏休みをどうにか充実させようと、様々なイベントを企画する。
 一般的にもっとも休みが長いと言われる大学生は、いまだにのん気に遊びほうけているかもしれないが、それも先立つものがあればの話だ。
 俺のような貧乏学生は、授業料を稼ぐために相変わらず休み返上でバイトバイトの日々を過ごしているのである。
「俺だってプールに入りたいんだけどな」
 いや、本気で望めばそれは不可能ではないかもしれない。最近は割りのいいバイト先があるため、授業料は順調に溜まっている。だが、それでもほんの少しさえ時間に余裕があると、思わずバイトを入れてしまう、苦学生の悲しい習性なのだ。
(って、割が良いとは言わないな……)
 俺は首を振って考え直す。稼ぎが良いのは間違いないが、真夏の日差しに炙られるプールの監視員とどちらがマシかと問われれば、いろんな意味で返答に迷うバイト先だ。
 それならいっそ、これまでどおり安い時給で肉体に鞭打ち、良くあるその辺のガテン系のアルバイトに精を出している方が精神的には楽かもしれない。
 その一秒一秒が金に変わると思えば、肌を焦がす太陽の日差しさえも逆に心地よく感じられることだろう。
 もっとも。
(それもどこかの誰かさんが、バイト先まで冷やかしに来なきゃの話だけれどなっ)
 と、そんな風に胸のうちでぼやいたと同時に、ふいに携帯が着信を告げる。ディスプレイを見れば、噂をすればなんとやらだ。
 居留守を使ってやろうかと一瞬考えるが、さすがにそれは大人気ない。通話ボタンを押して仕方なく機体を耳に当てる俺だったが、そうするや否や、のん気な声が威勢良く耳を突き抜けた。
『健介、プールに行くぞっ!』
「だから来んじゃねぇ〜〜っ!!」
 っていうか、お前はエスパーか。閑静な住宅地。思わず声を大にして叫んだ俺は、もちろん周辺住民の顰蹙を買った。


 俺の携帯に電話してきたのは、早乙女昌彦といって俺と同じゼミの同級生だ。柔和な笑みを浮かべ、常に気遣いを忘れない奴は、『アルパカみたいで可愛いよね』と同じゼミの女性陣から高い評判を得ている。
 しかしながら俺は、そんなこいつに長らく苦手意識を抱いていた。
 理由としては、さりげなくブランド服を身にまとっていたり、ゼミ室にケーキやジュースなどの差し入れを惜しげもなくするような金離れの良さ。悲しき貧乏学生である俺は、そんなこいつの裕福さに、やっかみ半分の反感を抱いていたのだ。
 だがそうした気持ちとは裏腹に、ひょんなことから俺はこいつのバイトを手伝うことになった。正直非常に胡散臭く、かつある意味危険なバイトではあるものの、あまりの報酬の破格さから、貧乏学生の俺はその誘惑を撥ね退けることが出来ないでいる。なんとういか、金の切れ目が来ない限り、もはやこいつと縁が切れることはないのではないだろうか。

 さて、かかってきた電話であるが、よくよく話を聞けばバイト先のプールに襲来するという犯行予告ではなく、手伝いをしているもう一つのバイトの連絡だった。
 怒鳴ってしまって悪いなと思う反面、気を抜くとこいつはひょいひょい俺の他のバイト先に顔を出してくるため自業自得と言えなくもない。
 それはともかく、俺は早乙女の連絡を受けて、翌日昼過ぎには現場へと向かうことになった。ちなみに今回も荷物が多いため、俺がライトバンを運転することになる。
「いやぁ、やっぱり車があると便利だね。健介が居てくれてすごく助かるよ」
「俺はアッシー君かっての。お前は免許、持ってないのかよ」
「いや、持ってるには持ってるんだけどさ」
 俺が怪訝そうな視線を向けたのに気付いたのだろう。早乙女は苦笑して肩をすくめる。
「オレ、人間と幽霊の区別が付かないから運転が危なくって――あ、そこを右な」
 そりゃあ確かにおっかない話だと思いつつ、俺は早乙女のナビに従ってハンドルを握る。
 こうやって、気付けばあっさり聞き流してしまえるくらいに慣れてしまった自分がいるが、もちろんそんなことそうそうあって溜まるか。
 だがなにを隠そう、俺が手伝っているアルバイトこそ、ずばり『幽霊駆除』の仕事なのである。
 もっとも俺はこのバイトを始めるまでは幽霊なんて見たことがなかったし、今だって護摩も焚けなきゃお経も唱えられない一般人だ。しかしそもそも、早乙女の行う幽霊駆除とは、漫画や小説に出てくるような霊媒師なんかの除霊とは一味も二味も違っている。
 今回もまた妙な駆除作業が待っているのかと諦観の思いでいた俺だが、そこでふいに視界に写る風景に既視感を覚えた。
(なんか、どっかで見たことがある町並みのような――、)
 そんなこんなを思いながら到着したのは、どこにでもあるようなのんびりとした住宅地――の中にある、ひとつの小学校。
 校門から車を乗り入れ、人気のない校庭のすみに車を止めると校舎から一人の男性が出てきた。
 流れる汗をひっきりなしに拭いながら、髪の毛の薄い涼しげな頭を見せ付けるように、男性は俺達にぺこぺこと頭を下げる。その瞬間、俺の記憶中枢がスパークした。
「遠いところをわざわざお越し下さいまして、ありがとうございます。私はこの学校の教頭の、島田と――、」
「ああっ! シマブー先生っ!」
 既視感の理由に思い至った俺は、思わず声を張り上げ指を差す。
 そんな俺の手を、すかさず早乙女はにっこり笑顔でチョップした。いつもと変わらない柔和な笑みだが、この時ばかりは目が据わっている。
 いけねっ、いまはバイト中だった。すっかり忘れて声を張り上げてしまった俺は、早乙女に視線で詫びる。プロのアルバイターとして、あるまじき失態だ。
 だが、俺の声にぎょっとした表情で顔を上げた島田教頭も、ぽんと手を打ち俺に話しかけた。
「お前、もしかして健介か!」
 懐かしさと親しみのこもったその言葉に、俺はしっかりとうなずいてみせた。
 恐らく俺の目にも、同様の色が浮かんでいた事だろう。

 すっかり忘却のかなたにあったわけだが、俺はかつて短い間ながら、この町に住んでいたことがある。そしてまさしくこの小学校に通っていたのだ。もう十五年近く昔の話だ。
 校舎は建て替えられ、町並みもすっかり変わってしまっていたため、ちっとも気付かなかったのもうなずける。だが、当時は俺の担任だった島田教頭の、あの涼しげな頭だけは変わらず健在であった。
「ふうん、じゃあ健介はこのプールに入ったことがあるんだ」
「いや、子供の頃は転校が多くってな。この学校にも半年くらいしか居なかったんじゃなかったかな」
 秋ごろにこの小学校にやって来た俺は、プール開きの前にまた転校になってしまった。風の又三郎もかくやといった感じだ。当時、仲良くなった同級生たちと25メートルプールで競争する約束をしていたものの、結局果たせずじまいだったのも今となっては懐かしい思い出だ。
 むしろ、在学一年未満で転校していった十五年近く前の生徒のことをよく島田先生は覚えていたものである。実際にそのことを当人に尋ねると、「あの年は色々あったからなぁ」と遠い目をされた。俺は、そんなに問題児だった覚えはないぞ。
 ともかく、そんな悔しい思い出の残るプールサイドに俺は十五年越しで立っていた。
 フェンスに巻き付くしぼんだ朝顔のつるや、その外に整列する黄色いひまわりなどが、そこはかとなく郷愁を掻き立てる。いっそ水浴びの一つでもしてはしゃぎたいところだが、いまはバイトに集中だ。先ほどはうっかり気を抜いてしまったが、遊び半分の気持ちで仕事をするのは、俺の矜持が許さない。
「大まかなことはさっき島田先生と一緒に聞いたと思うけど、今回のバイト内容について、もう一度説明するよ」
 早乙女がのん気な声で、俺に声を掛ける。
 ちなみに早乙女は海パンにアロハシャツ、麦藁帽子、ビーチサンダルという真面目さの欠片もない格好だ。プールに入ることになるのかと尋ねたら、単に気分の問題と答えた早乙女の返事を俺は聞かなかったことにした。
 ちなみに俺はTシャツ、ハーフパンツに裸足である。焼けたプールサイドが熱いので、ビーチサンダルだけはちょっぴり羨ましい。
「ことの発端は、肝試しのために校舎に忍び込んだ生徒が、プールの水面に浮かぶ人魂を見たという事件だ」
 早乙女は声を潜めると、おどろおどろしく発端となった出来事を語り始めた。

 きっかけは、うだるような夏の最中に開催された肝試し。
 開放感に浮かれ枷の外れた子供たちは、大人には内緒で、半ば度胸試しと静まり返った真夜中の校舎へ忍び込んだ。
 長らく人の出入りのない校舎は、昼間の熱気がいつまでも篭り、埃臭さとともに夏休み前は感じなかったような異質な気配を漂わせていたという。
 本来は馴染みのあるはずの校舎内は、まるで怪しい異空間のように余所余所しくなり、そこに通っていた生徒達までも、異物として排除せんばかりであった。
 懐中電灯で足元を照らしながら、恐る恐る廊下を進む子供達の胸には早くも後悔の感情が湧き上がる。それでも彼らは、なけなしの意地と、ここで帰還を告げたら今後友達から仲間外れにされるかもという恐怖心で、一心に足を進めていった。
 だが、彼らはそこで目にしてしまったのだ。

 ――ゆぅらり……

 いや、違う。気付いた者はもはや視線を逸らすことも出来ず、ただ恐怖に凍りつく羽目になった。

 ――ゆらぁり……

 それは、彼らの目に映った、現実には有り得ない、あまりに奇怪な光景。

 ――ゆぅらりゆらぁりゆらりゆぁらりゆらりゆぅらりゆらぁり……――、

 廊下の窓から見下ろしたグラウンド。その隅に設置されているプールの水面に、信じがたいほど大量の鬼火がゆらゆらと、闇夜を禍々しく蠢いていたのだ――。

「ちなみにこれが、そのとき彼らが撮った携帯のムービー画像な」
「余裕ありまくりじゃねえか!」
 思わず俺は裏拳で突っ込む。
「しかも『エレクトリカルパ霊ド』というタイトルで、投稿サイトで大人気」
「駄洒落かよっ」
 しかもまったく面白くないじゃねえか!
 だが、早乙女の携帯を覗き込むと、確かに鬼火は水面で規則正しく点滅し、幾何学模様等を描いて動いている。こいつらも何で水上でイルミネーションしてるんだよ! そしてそのネズミは版権的に危険だ!
「もっとも、これだけだったらまだ良かったんだけど、他にも色んな怪現象があってさ」
 やがて、夜中に見回っていた警備員がプールの水面を歩く影を見たり、夏休み中の水泳教室のためやってきた生徒が水面にいるはずのない人の姿が映っているのを発見したりなどと、怪現象が頻発するようになる。
「先日なんて、水泳教室の真っ最中に突如プールが赤く染まってね。水はすぐに元通りになったんだけど、子供たちがパニックを起こしちゃったらしくてさぁ。しばらくは水泳教室は中止になったんだ」
「はぁ、まぁそうだろうな」
「ちなみに味はトマト風味だったらしいぞ」
「誰が飲んだんだっ!?」
 随分チャレンジ精神に溢れる生徒もいたものである。つうか、プールの水を飲むな。
 それはともかく、自分が子供の頃にそんな怪事件が起きたら、確かにトラウマもの思い出になってしまうだろう。
「じゃあ、そのプールで起こる怪現象をどうにかするのが、今回のバイト内容か」
「うんっ。健介、良く分かったな」
 驚いたような顔をされ、俺は肩を落とす。
「ここまできて分からなかったら、よっぽどの阿呆だろうが。んで、この怪現象は悪霊かなんかの仕業なのか?」
 コースロープが外され、やけに広々と見えるプールの静かな水面を眺めながら、俺は尋ねる。それだけ子供たちを阿鼻叫喚の渦に叩き込んでおきながら、今のプールはむしろ物悲しいような寂しげな気配すら感じられる。
「いや、このプールには騒ぎを起こすような悪霊はいないよ」
「えっ、そうなのか?」
 俺は意外な思いで聞き返す。早乙女はあっさりうなずいた。
「ただ、プールの水のサンプルを事前に送ってもらって調べたところ、むしろここには雑多な低級霊が大量に集まっちゃっていることが分かったんだ」
「水質検査かよっ」
 俺は思わず突っ込む。そもそも、水を調べて霊の有無が分かるものなのか?
「学校って、毎日毎日生徒がやってきて泣いたり笑ったりするところだろう? 煩雑なエネルギーが溜まりやすいんだよ。さらに、プールとかの水場って元来霊が集まりやすいから、そういったものが全部まとめてここにやってきちゃったんだろうね」
「でも、俺は子供のときにそんな事件は聞いたことはないぞ」
 いくら短期間しか通っていなかったからといって、毎年そんな事件が起こっていたらさすがに噂が耳に届いていたはずだ。
「たぶん、アレのせいかな」
 早乙女が、俺にとっても見覚えのない新しい校舎を指差す。
「校舎を新しくした時に、地脈を乱したか、霊道を塞ぐかしちゃったんだろうな。もっとも、詳しくは調べてみないと分からないけど」
「そんなもんか」
 俺にはそんな超常現象の理屈など理解できるはずもないので、適当にうなずく。まぁ、俺の在学中に起きたことじゃなかったからよしとしよう。
「雑多な低級霊が一杯集まってると、他の悪霊なんかも引き寄せられることがあるから結構危険なんだぜ。それに子供たちがいつまでもプールに入れなかったら可哀想だ。そろそろ作業を開始しようか」
 早乙女はにっこり笑ってそう言った。


 今回も、荷物は全部俺が運んでくることになった。
 水着姿の早乙女は意外と筋肉質なことが判明したのでちょっとくらいは手伝ってくれてもいいじゃないかとも思ったが、まぁ、このバイトでは俺は雑用くらいしかやれることがないので黙って仕事をこなす。
 プールサイドまで運び込む荷物はそれほど多くはなかったけれど、一つやたらと重たいダンボールの梱包があったので、すべてを移動させたときには俺のTシャツは汗でぐしょぐしょだった。
 思わずプールに飛び込みたい気持ちが湧き上がるが、現在のこのプールは幽霊汁らしいのでぐっと我慢する。
 それにしても相変わらず、お札だとか数珠だとか、こてこての除霊道具は一切見当たらないな。
「お疲れ様、健介。じゃあさっそく、駆除を始めようか」
 そう言って手渡されたのは、謎のビニール袋。というか、明らかに45Lサイズのゴミ袋だ。中にはこれまた謎の粉みたいなのが目一杯詰まっていて、結構重たい。
「てか今回は、仕掛けを使って霊を釣り上げたりしたいのか?」
 俺はお盆の時期に行った、海での大量駆除を思い出して尋ねるが、早乙女は笑って首を振る。
「今回はそれほど大規模じゃないし、範囲も限られているからこれで充分だ。袋の中身をなるべく均一になるようにプールの中に撒いてくれ」
 俺と早乙女は手分けして、ゴミ袋の中の粉をプールに大量に撒いていく。
「なぁ、早乙女。こりゃいったいなんだ?」
「これは聖灰、ようするに清めの灰だね」
 そう言われて、俺は納得する。言われてみれば、この細かい粒子は灰だ。聞きなれない言葉だが、恐らくは清めの塩の灰バージョンなんだろう。
 大量に灰を投入されたプールの水は濁るが、さらに櫂のような棒で混ぜていくと、やがてその表面に白い塊が浮んできた。
「おおっ、なんだありゃっ!?」
 驚く俺に、早乙女は得意げに笑って見せる。
「この灰は、とある神域で役目を終えた、御神木の倒木を燃やして作った聖灰なんだ」
 なるほど、霊験あらたかなのかと納得する俺に、早乙女は続ける。
「この灰を大量にプールに溶かすことで、水がアルカリ性になる。すると水中の油脂汚れや雑多な霊と反応して、乳化――すなわち石鹸状になって浮かび上がってくるんだ」
「御神木関係ねえじゃんっ!」
 つうか、いったいどこの手作り石鹸教室だ。
「しかもこうしてできあがった石鹸は、落ちにくい悪霊汚れを洗い流すのにも効果があるんだよ」
「油汚れかよっ!」
「とりあえず、水と灰がもっと良く混ざるように機械を使って攪拌していこうか」
 プールサイドに膝を着く俺の苦悩を軽やかに無視し、早乙女は件の重いダンボールを指し示す。
 中には業務用と思わしき無骨な機械と、それに取り付けるらしい大きなスクリューがあった。
 俺と早乙女はえっちらおっちらとその機械を水際まで運び、スクリューを取り付けるとスイッチを入れる。駆動音を響かせて、機械は水をかき混ぜ始めた。
「これでよしっ。攪拌が終わるまで、しばらくこのまま置いておいておこう。それまで、お茶でも飲んで休憩していようか」
「いつも思うんだが、ホントこのバイトは情緒の欠片もないよな」
「嫌だなぁ、健介。幽霊駆除にロマンを期待しちゃいけないよ――おっと」
 ふいに携帯の着信メロディが鳴り響く。
 俺の携帯は、味も素っ気もないアラーム音なので、必然的に早乙女の携帯の音なのだろう。……というか、このメロディはおばけなんていないと強がっている子供の童謡じゃなかったか?
「ごめん、ちょっと電話に出てくる。すぐ戻るから、待ってて」
 そう言って、早乙女は更衣室のほうに向かっていく。
「って、まさかそのままの格好で外に出るんじゃないだろうな」
 捕まるぞ、などと思いつつ、俺は誰も居なくなったプールサイドに所在無く立ち尽くす。
 午後もだいぶ回り、校庭を通って吹き込む風が少しだけ肌寒く感じ始める。プールはもちろん、校舎にも校庭にも人の姿はなく、機械の駆動音だけがやたらと大きく響いていた。
 俺はそんな中、なんとなく落ち着かない気持ちで早乙女を待っていたのだが、ふいにスクリューの音が止まる。
「あれ? どうしたんだ?」
 故障でもしたのだろうか。不思議に思った俺は、機械のそばまで寄り、プールの中を覗き込む。その次の瞬間。
「うげぇっ!」
 ぐいっと尋常ではない力に引っ張られた俺は、プールに向かってバランスを崩した。近付いていく水面には、俺ではない何者かの顔が映りこみ、歪んだ笑いをにやりと浮かべる。そして何事もなかったかのように再び動き出すスクリュー。
 だが、体勢を立て直せない俺は、そのまま水中のスクリューに向かって落ちていく。
(やべぇっ、巻き込まれるっ)
 俺は反射的に頭をかばって、身体を硬くする。しかし――、

「危ないっ!」

 ぐいっと強く肘を引かれ、俺は逆側――プールサイド側に倒れこんだ。
 滑り止めの施された荒い床で擦った皮膚からは血が滲んだが、そんな痛みなど一切感じないほど、俺の心臓は激しく脈打っている。
「こ、恐ええ……っ!」
 俺はばくばくと高鳴る心臓を抱え込むように座り込み、深呼吸を繰り返す。
 今のは本当に危機一髪だった。いくら真っ昼間に胡散臭い方法で行っている幽霊退治とは言え、気を抜いてはいけなかったようだ。
 俺は自分が助かったことに深く安堵して、助けてくれた早乙女に礼を言おうと振り返る。
「マジ助かった。ありがと――、」
「健介、悪いっ!」
 はっと顔を上げると、プールを挟んだ反対側、更衣室のほうから慌てた顔の早乙女が走ってくる。
 プールサイドは走ってはいけません――、すでに馴染みになったそんな注意事項を口にする余裕すらなく、俺はぎょっとして背後を振り返るがそこには誰もいない。
「オレのいない間は、何があってもプールには近付くなって言うのをすっかり忘れてた。低級霊たちの最後の悪あがきだ。たぶん、こんなことはもうないから」
「……なぁ、今のって――、」
「健介が無事で、本当に良かったよ」
 気が抜けたように深々とため息を漏らす早乙女の様子に、俺は尋ねかけていた言葉を飲み込んだ。
 その後、確かに何の障害もなく攪拌は終わった。早乙女はプールの水を試験管に掬い取ると、試薬っぽい謎の液体を入れ、もはや低級霊がいないことを確かめる。
 そして駆除が無事に成功したことを報告し、俺たちは片付けをして学校を後にした。
 帰り際、賑やかな蝉の鳴き声が、思い出したように学校の敷地内から溢れ出したのがやけに耳に残った。



 ――そして、それから一週間後の今日。どうにもすっきりしない俺は、再びこの小学校に足を運んでいた。
 仕事としてではないので、一人きりだ。俺は事前に電話でアポを取っていた、島田教頭を尋ねる。
 あれから幽霊騒ぎはすっかり収まったと礼を述べる教頭に、自分はただのバイトだからと首を振った。
 一年にも満たない在学期間の思い出話はすぐに尽き、いくつか当たり障りのない世間話を口にした後、俺はおもむろに本題を切り出した。
「島田先生、以前こちらにうかがった時、俺の転校した年には色々あったっておっしゃってましたよね」
 にこやかな表情を浮かべていた教頭の顔が、にわかに曇る。自分の予想がそう外れていないことを確信しつつ、俺はさらに核心を突いた。
「俺が転校した後に、なにがあったんですか――?」


 島田教頭に別れを告げて、校門へ向かう。その途中、俺はふと思いついて携帯を取り出した。
 ひとつの番号を呼び出してコールすると、相手はすぐに出て、のん気な声で俺の名前を呼んだ。
「なぁ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどよ。先週のバイトの時に、プールには騒ぎを起こすような悪霊はいないって言ったよな。じゃあ――、」
(悪霊じゃない、普通の幽霊は……?)
 そう尋ねようとした俺だったが、思い直して首を振った。
「いや、なんでもない。悪かったな」
 俺はそう言って、通話を切る。
 電話の向こうの相手はまだ何やら喋り足りなそうだったが、正直、下手に付き合うととんでもない長話になるのは経験上良く知っているので、気にしない。
 どうせこいつとはまた次のバイトの時にでも、会うことになるだろう。

 校門のすぐそばまで来ると、視界の端に先日足を踏み入れたプールが見えた。たっぷり灰を流し込んだ水はすでに洗い流され、もう今週から水泳教室が再開されるらしい。
 しかし、今はまだ人の姿はなく、静かに水が揺らいでいるだけだ。
 俺は島田先生から聞いた生徒の名前を思い出してみたが、どうにもぴんと来ない。しかし、当時の記憶を掘り下げて行くうちに、ふいに当時仲の良かった一人のクラスメイトのあだ名と重なった。
(まぁ、なんだ。その……ありがとな)
 俺は心の中で小さく呟くと、プールに背を向けて校門をくぐる。
 眩しい日差しが降り注ぐ中、どこからからぴちゃんと水の跳ねる音が聞こえたような気がした。
 


【終】

 

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