≡ 執事録シリーズ 2 ≡

二人の執事と十二支事件 (1)  ‐‐‐

 

 
 彼女は切ないまでに揺れる眼差しで、従僕の袖をそっと掴んだ。
「ねぇ……、お願い斎藤。あたし、我慢できないの」
「いけません。お嬢様」
「そんな意地悪言わないで。どうしても、欲しくて堪らないのよ」
 か細く震える声に、けれど彼女の従僕はすげなく首を振った。
「それは無理な注文です。どうかわたくしを困らせないで下さい」
「ううん。斎藤さえお父様に言わないでくれたら――きっと大丈夫。だから、ねぇ。……せて、頂戴?」
「駄目だと申しております。そう聞き分けのないことを仰るものではありません」
 たしなめると言うにはあまりに素っ気無いその態度。
 取り付く島もないとばかりに、情に欠いた無慈悲な返答。
 錦織家の女主人――十三歳の少女、錦織莉緒は涙で潤んだ瞳でとうとう己の執事を睨みつけた。
「なによなによ、斎藤の分からず屋! どうして許してくれないのっ!?」
 上目遣いの眼差しが、困惑と苛立ちで震えている。

「子犬くらい、飼わせてくれたっていいじゃないっ!」

 どうおねだりしても頷いてくれない強情な執事にとうとう見切りを付け、彼女は斎藤に背を向け駆け出した。そして扉の前でくるりと振り返ると、彼に向かってその小さな三角の舌を突き出す。
「斎藤なんて、もう大っ嫌い!」
 ぱたぱたと遠ざかっていく足音に耳を傾けながら、残された執事はおもむろに視線を落とした。整った柳眉は悩ましげに顰められ、ほんの僅かな悔恨がその漆黒の瞳には浮かんでいる。
 彼はそっと口元を手で押さえながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「今の言葉、ぜひとも録音すべきでした……」
 そして先程の幼い主人の言葉を反芻し、彼は能面のような無表情のまま非常に満ち足りた吐息を漏らした。

 
 沈着冷静、有能怜悧、完璧無比。
 三拍子揃った錦織家の第一執事は、その本性を知るごくごく一部の人間からはこう呼び習わされていたりもする。
 曰く、『変態』と――。


 
 + + + +


 
 断続的に続く水音に、陶器同士が触れ合う音が響く。
 時折ひそやかに、けれど楽しげに上がる声の間を縫うように鋭く研がれた包丁がリズミカルにまな板を叩く音がした。
 昼食の時間も無事に過ぎ、その後片付けと夕飯の準備に余念のないここは錦織家の厨房である。
 現在この屋敷で暮らしているのが現当主夫妻の一人娘、莉緒お嬢様一人だけということもあり、常駐しているスタッフは少ない。それでも十名近い人間がこの厨房では賑やかに仕事をしていた。
 しかし今日は通常よりも、さらに若干人数が増えている。その数、およそ二名ばかり。
 カチャカチャと、泡だて器が金属のボールと触れ合う音がする。傍らのオーブンは微かな作動音を立てながら、内部の熱を定められた温度まで上げていた。せわしく手が動くたびに、ふんわりと漂ってくるのはバニラエッセンスの香りだろうか。
「――そんな理由で、お前はこんな所で菓子作りになんて励んでるってわけか」
 やれやれとどこか呆れたような呟きが、それ以上にはっきりと面白がる響きでもって漏らされる。
「まったくお前って奴は、なんとも面倒臭い性格をしているよな」
 けらけらと笑いながら、銀のスプーンを磨いているのは金髪碧眼の背の高い青年。その隣では沈黙を守ったまま一重瞼が涼しげな眼差しの青年がクリームを泡立てていた。
 言うまでもなくこの黒髪の青年こそが、錦織家の第一執事たる斎藤。そしてその隣で馬鹿笑いをしている男は錦織家の第二執事であるセバスチャンであった。

 斎藤とセバスチャン――二人は共に、『錦織』と言う名の知れた一族に仕える執事である。
 現在錦織家の当主夫妻は仕事の関係で二人揃って海外に長期滞在中である。そのため日本の本宅には、彼らの愛娘であるまだ13歳の少女、錦織莉緒だけが残されることになった。

 執事の仕事とは本来、家務の一切を管理し多くの使用人を監督すること。
 だが保護者も持たずたった独り屋敷の切り盛りを任されたお嬢様を見るに見かねて、第一執事たる斎藤と、第二執事たるセバスチャンは、彼女を守り支えることこそを目下の勤めとしているのである。

 
 ――――表向きは。


 
 全身全霊を込めたおねだりをあっさりと無下にされて、錦織家のお嬢様はすっかりむくれて部屋に閉じこもってしまった。彼女のご機嫌を治すため、斎藤は現在厨房の一画を借りてお菓子作りに励んでいると言う次第である。
「しかしずいぶんと器用だよな」
 セバスチャンはなんとも物珍しげな目つきで斎藤の手元を覗き込む。彼が現在製作中なのは、お嬢様の一番の好物であるエクレア。
 沈着冷静、有能怜悧、完璧無比と、三拍子揃って呼び称される錦織家の第一執事は何をやらせてもたいていのことは卒なくこなすが、まさか菓子作りの技術まで持ち合わせていようとは予想外と言おうか、予想通りと言おうか。
 もっともお嬢様命を放言してはばからないこの男である。お嬢様の好物であるからこそ完璧なまでに習得したと言う可能性も無きにしも非ず。いや、むしろそれ以外に考えられない。
 摘み食い目当てなのか冷やかし目的なのか、斎藤の傍で銀食器を磨いていたセバスチャンはふと首を傾げた。
「しかしよ、後からこうやってフォローを入れるくらいなら、ペットの一匹や二匹、快く飼わせてやればよかったじゃないか」
 当主夫妻がともに長期に渡って留守であろうと、ここは飽くまで錦織家の総本山、本家である。敷地面積は充分に広く、庭もうっかりすると迷子になりそうなほどに広大だ。子犬どころか、像やキリンだって楽勝で飼える。しかし斎藤は首を振った。
「とんでもありません。犬ならすでにリチャードやフェリックスたちがいるじゃないですか」
「ありゃ番犬だし、どちらかと言えば旦那様のものだろう」
 リチャードもフェリックスも、ともに屋敷の警備のために飼われている番犬だ。錦織家では防犯のために夜間には庭で十数匹の犬が放し飼いにされている。
 専属の係員がしっかりと躾けているため屋敷の者には大人しいし、特に主一家には絶対服従なのだが、軍用犬としても使われている犬種だけに少々いかつい外見をしている。少なくとも女の子があまり愛玩動物として愛でたがるような見た目では無い。
「大体お嬢がいきなりこんなことを言い出したのは、あれが理由だろ?」
 先日莉緒お嬢様は友達の家に遊びにいった際、生まれたばかりの子犬を見せてもらったのだ。
 無垢でいとけない可愛らしい小動物を目にして、もともと動物全般が好きな優しい性格をしている彼女はすっかりペット願望に火がついてしまったらしい。
「ようするに、お嬢は自分だけのお友達が欲しいんだ。それを屋敷の番犬で我慢しろというのは、少々酷だろうよ」
 呆れたようにセバスチャンは言うが、斎藤は相変わらずの無表情でかぶりを振った。
「ならば尚更ですよ」
 セバスチャンは首を傾げる。
「友とするならば余計、せがんで買い与えられるものであってはいけません。しかも相手は生物なのですから、おもちゃ感覚に欲しがるのも納得できません」
 手つきだけは鮮やかに菓子作りに励みながらも、斎藤は淡々と語る。
「だいたい誕生日やクリスマスでもないのに、ねだる物を何でも簡単に差し上げてしまっては、将来ろくな人間にならなくなりますよ」
 毅然として並べ立てられるその理屈に、セバスチャンはすっかり感心した。執事としてはいささかどうかと思うところもあるが、彼らが当主直々にお嬢様の教育係も任されていることも考えれば斎藤の言葉は確かにひとつも間違っていない。
「……お前も、決めるときはしっかり決めるんだな」
「当たり前でしょう。恐れ多くもお嬢様の事を誰よりも案じているのは、他ならぬわたくしですよ」
 斎藤はつんと澄ました顔でうそぶいた。もっともそれだけならば良かったものの、さらにぼそりと付け加えられる。
「――それにです。犬といえば古来より人間の忠実な下僕じゃありませんか。畜生と言えど、お嬢様が他の下僕をわたくしよりも気に掛けるようになったら、ちょっと自分が正気でいられる自信がありませんね」
「しれっととんでもないこと口にすんなぁぁ!!」
 腹の底から搾り出されたセバスチャンの怒声に、ぎょっとして一人の新入り皿洗いが振り返る。もっとも他の面々はすっかり慣れたもので、淡々と日常の業務をこなしていた。日常的に罵声が響き渡るお屋敷というのも、それはそれでなかなか凄いものがあるが。
「おや。そう言えば、そこの彼はこれまで見たことのない顔ですね」
「ああ、あいつな」
 ぜいぜいと息を切らしながらも、セバスチャンは律儀に斎藤の指し示した皿洗いに目を向ける。
「二週間ほど前に、厨房の補佐スタッフとしてオレが採用した」
 斎藤はわずかに眉を顰め、不満げな顔をする。
「わたくしに断りもなく、勝手に雇ったのですか?」
「面接日にお前がいきなり休みやがったんだろ!!」
「……ああ」
 ようやく思い至ったらしく、斎藤はぽんと手を叩く。
「そう言えばあの日は朝から、枕から頭が上がらないほどの体調不良でしたね」
「嘘をつけ」
 間髪をいれず、ジトーとした目でセバスチャンは断言する。
「あの日はお嬢の遠足があった。お前はお嬢のあとをつけたんだろう!」
「とんでもない。なぜわたくしが?」
 きょとんと斎藤は首を傾げる。
 お嬢様の通う学校は身分のある子女が集まる由緒ある学び舎だが、同時に生徒の自立を促すため遠足や修学旅行などの行事にはメイドや召使の同行を禁止しているのだ。
「わたくしが、わざわざお嬢様に禁を破らせようとしたと言うのですか」
 斎藤は意味が分からないとばかりに首を振る。
「あの日は本当に体調が悪かったのですよ。……鼻血が出るほどに」
「何で鼻血が出るんだよっ!!」
『斎藤にいってきますって言いたかったな……』
 そう言って寂しそうに遠足に出発したお嬢様の姿を思い返すに、セバスチャンは不憫になる。
 いっそ周囲に奴の本性を暴露してやろうとも思うが、斎藤はお嬢様からも他の召使たちからも絶大なる信頼を勝ち取っている。セバスチャンがそんな事を言っても、せいぜい苦笑され肩をすくめられるのがオチだろう。
 世の中不公平だ……。セバスチャンは心の底からそんな事を思った。
「だいたいあの新入りは熱心な奴だよ。聞けば朝は誰よりも早く厨房に来て、夜は最後まで残ってるって話だ。厨房長からの評判もいいし――、」
 それよりも、とセバスチャンはずいっと手を差し出した。
「出せ」
「エクレアの摘み食いは許しませんよ」
「誰がエクレア食いたいって言った! 写真だよっ。どうせお前のことだから、遠足でお嬢の写真大量に隠し撮りしたんだろ。全部渡せ。お前に持たせてると何に使われるか分からん!」
 しかし斎藤はふふんと鼻で笑う。
「おやおや。面白い事をおっしゃりますね。存在しない物を、どうやって渡せと言うのですか?」
「ならお前の家に行って漁り出すだけだ」
 ほぼ100%の確率で、セバスチャンは斎藤の家にはお嬢様の隠し撮りフォトアルバムが大量に保管されていると睨んでいる。
「馬鹿らしい」
 しかし斎藤はそれにも怯むことなく、さらに不敵な笑みを浮かべた。
「仮にわたくしがアルバムを作っていたとして、まさか貴方如きに見つかるような場所にわざわざ置いておくと思いますか?」
「誇るんじゃない、このど変態がぁっっ!!」
「きゃあっ」
 セバスチャンの声に重なるように、悲鳴が聞こえた。斎藤は咎めるような目でセバスチャンを見る。
「ほら、貴方が馬鹿みたいな大声を出すから」
「……あきらかにオレの所為じゃないだろ。ほら、いくぞ」
 セバスチャンが斎藤を引っ張り二人で向かった先では、すでに人間が集まっていた。厨房の壁一面を占めるような、広い窓の傍。泣きそうな顔をしたキッチンメイドが同僚らしき女性に慰められている。
「また、どうしてこんなっ……」
「どうしたんだ?」
 セバスチャンが声を掛けると、彼らはあからさまにほっとした様子を見せた。
「ああ、斎藤さん……」
「手前にいるオレはスルーかよっ」
「あとセバスチャン」
「同情された!」
 地味にショックを受けるセバスチャンを脇に置き、斎藤は彼らに尋ねる。
「何があったのですか?」
「斎藤さん、見てくださいよ」
 若いコックに促され覗き込むと、厨房の外側の窓枠にはネズミの死体が置かれていた。まだ乾ききっていない血が付着するそれに、セバスチャンは顔をしかめる。斎藤もわずかに眉を顰めた。
「どなたか、またと言っていましたね。以前にもあった事なのですか?」
 彼らは気まずそうに口ごもっていたが、そのうち貧乏くじを引かされたらしい一人のコックが前に押し出されてきた。
「一昨日にも……同じことがあったんです。その時には雀の死体が置かれていて、その前には蛇の死体が――、」
「おいおい、どうしてその時点で報告しなかったんだよ」
「すいやせん。おれがこいつらに言ったんですよ。つまらない事であんまり騒ぐなって」
 呆れたようにぼやくセバスチャンの声に答えて、厨房の奥からだみ声が響いた。
「ただのつまらねぇ悪戯かと思いやしてね」
 騒ぎには加わらず、黙々と夕飯の下ごしらえをしていた料理長が言った。
 ちなみにこの料理長、どう見ても和食専門の板前に見えるがその実ヨーロッパの三ツ星レストランで修行した一流シェフだったりする。間違ってもすし屋の親父さんではない。
 よくよく見れば、料理長の他にも黙々と仕事をこなしている剛の者が数人ながらいた。
「まぁ、確かに悪戯には違いないんだろうけどなぁ」
「だが、ただの悪ふざけにしては悪質だな」
 斎藤は窓を開けると、何処からか調達してきた新聞紙で器用に鼠を包む。そしてそれをそのまま窓の下に降ろした。
「これはあとで処理いたしましょう。そうですね。悪戯だとしても、あまり声高に騒ぎ立てることは無いでしょう。ただし、もしまた同じことが起こったときには、すぐにわたくしたちに知らせてください」
「もう起きないに越したことはないんだけどな……」
 しかしセバスチャンの嘆息を余所に、その事件は繰り返し起きてしまうのだった。


 

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