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        ≡≡ 呼ぶ声 ≡≡

 


 誰かに呼ばれた気がして振り返った。
 黄昏時のオフィス街はどこまでも静かで、自分以外は誰の姿も見えない。まるで世界にただ独り取り残されてしまったかのような、奇妙な錯覚がふいに過ぎる。
 定時のラッシュが過ぎ去り、実際にはちょうど人の出入りも落ち着いた時間帯であるというだけのこととは分かっているのだが。
 彼は周囲を見回し、改めて誰もいないことを確認すると、不思議そうに首を傾げた。もしかすると疲れが溜まっているのかも知れないと、そんな自戒めいた思いもふいに過ぎる。
 一時期は津波のような勢いで押し寄せていた仕事の山も、今ではずいぶんと落ち着いた。
 だから今日のように、仕事と仕事の隙間を縫ってまだ日が落ちきる前に帰れる日を作ることもできる。暇でやることもないというほどではないが、それでも時折ふっとぼんやりしている自分に気付くのは、これまで忙しかった反動からなのかも知れない。
 今日は家に帰ってゆっくりしよう。彼はそう決めた。


(――誠一さん)
 急にはっきりした声が耳を打ち、彼はぎょっとして顔を上げた。きょろきょろとあたりに視線をめぐらせていると、妻のふみえが茶を注いで持ってくるところだった。
 自分とは二つちがいで今年三十九歳になるふみえとは、かれこれすでに二十年近くも連れ添っている。
「どうかなさいましたか?」
 手にした盆から湯飲みをテーブルの上に並べ、ふみえは首を傾げる。
「今、……呼んだりしたかい?」
「いいえ? お声を掛けてはおりませんけど……」
 ふみえはきょとんとした顔で誠一の前に湯飲みを置く。
「そうか」
 やはり空耳か……。どうにも調子がよくないと誠一はため息をつく。一度や二度の幻聴ならまだ可愛いものだが、これが頻繁に続くようでは、医者にでもかかったほうがいいだろう。ついには幻覚まで見るようになってしまっては洒落にならない。しかしそうは思うが、どうにも誠一は気が進まなかった。
「これまでずっと働き詰めでしたでしょう。一度お休みを取ってみてもいいじゃありません? ほら、この間なんて階段で転びかけましたでしょう」
 深刻ぶった顔につられてか、やはり心配そうな顔でふみえはそう声をかける。誠一は思わず苦笑した。
「あの時のことは言うなって。ちょっとよろめいただけじゃないか」
 仕事が最も忙しかったちょうどその最中の頃、それこそ疲労による不注意で誠一は階段で転びかけた。その時はさすがにヒヤリとしたが、それがきっかけになったのかのようにその頃から仕事もだんだんと落ち着いていった。
 確かに少しまとまった休みをとってもいいかもしれない。
 誠一は若干ぬるまった茶を飲みながら考える。しかしそうは思いながらも、誠一がそれを実際に行動に移すことはなかった。


 それからいくばくかの月日が経過したが、幻聴はその間も変わらずに誠一の耳に響いていた。頻繁にと言うほどではない。むしろ前回聞こえたのがいつか思い出せない程度の間を開け、幻聴は彼に呼びかける。

(誠一さん……)
(せいいち――、)

 そんないく通りもの呼び声。
 それは仕事中のちょっとした合間、あるいは入浴時、あるいは食事の直後など、まるで気を抜いた所を見計らったかのようなタイミングで彼の耳に響く。
 日常生活に支障をきたすほどのことではないものの、その声は心の間隙を突くかのように彼の胸を揺さぶる。
 またそれは彼を落ち着かない気持ちにさせた。
 揺すぶられるのはその声があきらかに、無視することのできない懐かしさと親しさを感じさせるものだからなのかもしれない。
 不快ではない。しかし誠一はそのたびにびくりの身を震わせ、不安な思いで身じろぎをする。
 まるで何か途方もなく大切なことを、どこかに置き忘れてきてしまったかのような、そんな思いが胸に去来するのだ。
 それはまるで宿題を忘れ叱られることに怯えている小さな子供の頃に戻ってしまったような、そんな感覚にも似ていた。
 時折、急に驚いたように顔をあげ周囲に目を向ける夫の不審な様子に、ふみえも気付いているのだろうと誠一は思う。しかし、そのことをふみえが指摘してくることはなかった。
 それが誠一にとってはありがたかった。


 その夜、就寝の為に布団に入った誠一の耳に、その声はまたしても響いた。
 寝入り端の不意を突くように聞こえたその声の所為か、なかなか寝付くことができず、誠一はもぞもぞと身じろぎをする。
 しかしどうやっても眠れないと腹を括った誠一は小さくため息をつくと、隣で寝ているふみえを起こさないようにそっと布団を抜け出した。
 寝巻きの上に薄手のコートを羽織った誠一は、そのままぶらりと外へと歩き出した。
 月の綺麗な夜だ。住宅街は火が消えたようにシンと静まり返っているのに、月と街灯の両方に照らされた街並みはやけに明るい。
 誠一はそのまま導かれるような足取りで近所の公園におもむくと、街灯に照らされるブランコに腰掛けた。そしてぼんやりと空を見上げる。
 空の一端にかかる雲は遠くの繁華街の明かりに照らされているようで、その白さが夜空の深い紺色とやけに対照的に見える。そしてその中で負けじと輝く月。
「良い、月夜ですね……」
 背後から突如かけられた声に、呆けた表情で空を眺めていた誠一は慌てて振り返った。これは幻聴ではない。
 振り返った先には、寝巻きの上にカーディガンを羽織ったふみえが苦笑を浮かべながら立っていた。
「そんなに思いつめた表情で月を見上げられているなんて、あなたは天の住民で月からのお迎えを待っているのかしら」
「ふみえ……」
 呆然のする誠一を余所に、ふみえはさっさと隣のブランコに腰掛ける。そして戯れのように小さく足元を蹴った。
「すまない。起こしてしまったんだな……」
「いいえ、わたしも眠れませんでしたから」
 申し訳ない思いでうつむく誠一の言葉を、ふみえは柔らかく首を振って否定する。そして少し躊躇いがちに視線を向けた。
「あなた、最近どうにもお悩みでいらっしゃるように見えますけど、わたしじゃ相談に乗れませんかしら」
 ああ、やはり気付かれていたんだなと誠一は思った。これまでは追求されないことに安堵を感じていたが、こうやって直接気に掛けて尋ねてもらえることには素直に嬉しさを覚えた。そして、ここにきてようやく決心がついた。
 静かに耳を傾けるふみえに、誠一はこれまで自分の聞いていた幻聴について、ぽつりぽつりと語っていった。
 いつの頃からか聞こえるようになった自分を呼ぶ声。
 胸を締め付けられるような懐かしさと、切ないまでの親密さ。
 その、なんとも言えない焦りと衝動を沸き起こらせる、不思議な感覚。
「――別に、その声が嫌だとか、困るとか、そう言うことは無いんだ。ただ……」
「ただ?」
 ふみえは首を傾げ、誠一に先を促す。
 誠一は途端にいたたまれない思いで視線を逸らし、口ごもった。
「その声を聞くと、行かなくちゃ、と思うんだ……」
 奇しくもその思いは、先ほどふみえが戯れに口にした『迎え』という言葉で明確な形となった。
 自分を急きたて、落ち着かない思いにさせる呼びかけ。そうした感情はその声に上手く応えられないもどかしさから来るものだ。
 親しみを感じさせる声は、自分はここにいるべきではないと、早く帰らなければならないと強く訴えかける。
 しかしその一方で誠一は、そう感じる自分に後ろめたさを覚えていた。
 仕事は充実し、自分を思いやってくれるできた妻がいて、現状には一切の不満はないにも拘らず、それを良しとしない自分がいる。
 そのことが誠一に罪悪感を覚えさせていた。
 誠一はじっと空を見上げる。それは確かに老夫婦に可愛がられていながら、月への思いを断ち切れなかったかぐや姫にも似ているかもしれない。
「それに気付けて、良かったじゃありませんか」
 誠一ははっとして隣を見る。後ろめたさを覚えた何よりもの相手であるはずのふみえは、穏やかな表情で自分を見ていた。
「行かなくてはと思うんでしたら、行けばよろしいんですよ。あなたの思うままにしていいんです」
「だが……」
「あなたが行くとおっしゃるんでしたら、わたしはついていきますよ。もしそこがわたしにはいけない場所でしても、わたしはきちんと待っておりますから」
 その言葉は誠一の胸に、堪える事のできない喜びの感情をこみ上げさせた。
「……そうだな」
 行けと何かが命じるのならば行けばいい。
 自分の中の感情が帰りたいと叫ぶのならば帰ればいい。
 どれだけの時間が掛かろうと、自分には待っていてくれる人がいる。
 そう気付いたことで誠一は、自分の臨むべき方向が定まったように感じられた。そして何よりも、安堵を覚えた。
「ありがとう、ふみえ……」
「いいえ、ようございましたわ。それではそろそろ帰りましょうか。さすがに冷えてまいりましたものね」
 ふみえはブランコから立ち上がる。誠一も立ち上がり、その後ろをついていくように歩き出した。
(誠一さん……)
 どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえる。
 誠一は振り返り、そのまま空に浮かぶ月を見上げた。
 自分はいつかその声の元に帰るだろう。
 それがいつかは分からないが、帰る――帰れるのだと思うと、胸に暖かい気持ちが溢れてくるようだった。
「待っていて、くれよ……」
 月を見つめ、誠一は誰かに向かってつぶやいた。
 


  ※    ※    ※


 カーテンを揺らし、病室には気持ちの良い風が吹き込んでいた。
 窓の外には眩しい日差しがさんさんと降り注いでいる。
 しかしそんな外の陽気とは裏腹に、室内にはどこか涼しささえ感じさせるような静けさがあった。
「――どうですかな、ご容態は」
「先生……」
 黙って椅子に座っていた女性は、その声にぱっと顔を上げる。
 医者が歩みよる先の、傍らの白いベッドには四十歳前後の男性が様々な計器に繋がれて目を閉じていた。
「ええ、おかげさまで今日は顔色も良くて」
「それは良かった」
 医者は穏やかにうなずいた。女性――ふみえはどこか寂しげな笑みを浮かべ、眠り続ける夫を見おろす。
 三ヶ月前、夫の誠一は階段から落ちて強く頭を打ち、昏睡状態となった。それまでの仕事の忙しさから来る過労も、あるいは影響しているのかもしれない。
 以来、誠一は眠り続けたまま目を開ける気配はなかった。生きていてくれているだけ幸いだとはいえ、ふみえの悲嘆は言葉では言い尽くせないほどであった。しかし――、
「ねぇ、先生。最近は少しずつですが呼びかけに答えてくれるようになったんですよ」
 ふみえはそう言って、眠る誠一の手をしっかりと握り、声をかける。
「あなた……誠一さん、誠一さん」
 ぴくりと一瞬だけ握る手にわずかな力がこもる。ふみえの顔に喜びの色がともった。
「いつかは、目を覚ましてくれますよね……」
 振り返り、希望にすがるような眼差しを向けるふみえに医者は静かにうなずいた。
 ふみえは微笑み、そして再び呼びかける。
「誠一さん……、わたし、待っていますからね」
 いつまででも。
 それが叶うまでにどれだけの時間が掛かろうとも。
 妻の声に応えるように、誠一のまぶたがわずかに震えたように見えた。
 


【終】

 

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