覆面企画参加作品
≡ 桜咲く季節にまた ≡
「へ? なにさ、やっぱり言わないって」 あたしが正直にそう言うと、彼は当惑したように眉をひそめた。
「い〜の。また今度に言うことにする」
すねたような顔をする彼の額をあたしは指先で弾く。 「そんなの、あんたが滅多にこっち帰ってこないのが悪いんじゃない」
耳タコの言い訳をそうやってなじると、彼は逆に晴れ晴れとした顔で胸を張った。 「おうよ、俺はそっちの方が好みだね。ぱっと咲いてぱっと散る」
笹倉 武士(ささくら たけし)が彼の名前だ。 「あんたは桜じゃなくて笹でしょ」 それはもちろんパンダの主食。なんて健康的なんだ。 「違うっ。そこは漢字じゃなくて音で捉えるんだ。サ・『サクラ』と」
そんな訳の分からないことで風情だの何だのと言われたくなかったから、あたしはふんと鼻を鳴らした。 「古典の成績が学年史上最悪だったあんたがなに言ってるのよ」
けらけらと笑う彼のコートにあたしは怒って足型をつける。 「まったく、そんなんじゃ次に戻って来た時に相手してやんないからね。あたしだって転校した幼馴染にいつまでも付き合ってやれるほど暇じゃないんだから」 会社勤めの父を持つ彼は今年の三月、家族全員で隣の県に引っ越した。
「あ、そのことなんだけどな」 彼はちょっと視線をそむけて頬をぽりぽりと掻いた。 「実は親父の転勤が終わったんで、またこの町に戻ってくることになったんだ」
つうか俺が戻っちゃ迷惑か、と珍しく真面目くさった顔で尋ねられ、あたしは慌てて視線をそむけた。たぶん顔が赤いのは寒さでかじかんだせいだ。 「べ、別にっ。いいわよ、そんだったら盛大に出戻りおめでとうって祝ってあげるわ」
ぷはっと吹き出すと彼はあたしのマフラーのボンボンを掴んだ。 「ってなことでさ、おまえの話は俺が戻ったときにな。これ約束」 そして指きりでもするように楽しそうにそれを振り回す。
「そうだ、そう言えば小学生の頃の秘密の場所って覚えてるか?」
彼は窓際の席を陣取ると、身を乗り出してあたしに言った。 「それじゃあ桜咲く頃にまたな」 見送るあたしに手を振って、彼の姿は遠ざかって行った。
町外れの河原の一角。
春はすぐそこまで来ているはずなのに、日差しはちっとも暖かくならない。
この桜並木の堤防は近隣で一番のお花見スポットで、春になると花見客が押し寄せて足の踏み場も無い。
「桜の花散るように潔く、か…」 あたしは最後に会ったときの武士の言葉を思い出し、ぽつりと呟いた。
「こんな所にいるのでしょうか?」
不満そうな声がはっきりと耳に届く。
桜が咲く頃に帰って来ると言っていた彼。
だからこれは武士ではない。
十一月のあの日、武士は死んだ。
実を言うと、その時のことをあたしはあまり覚えていない。それはあまりにも唐突で、あたしはひどく混乱していた。 悲しくなかったはずはない。けれど気がつけば年は明け、世間は春に向かっていた。
「あんたがこうしてあたしの前に現れちゃうんだからなぁ」 まったく決心も何も台無しだ。あたしはふうとため息をつく。 世の中は信じられないことがたびたび起こる。
「未練があんだからしょうがないだろ。それとも何だよ。俺が戻ってきちゃ迷惑か」 すねたように言うその口調も相変わらずで、それは二人でした最後の会話をあたしに思い出させた。 馬鹿らしい。
あたしは何だか泣きたい気持ちになって、あの時と同じようにそっぽを向いた。 「別にっ。出戻り祝いでもして欲しいの?」
くすっとこぼれる苦笑いは、まるで鋭い棘のようにあたしの胸を刺した。 「じゃあ……何で死んじゃったのよっ」 風船がパンと弾けるように、あたしの中で閉じ込めておいたはずの何かが破裂した。
「いったいあの時あたしがどんな気持ちでいたと思ってるのよ!」 何も言わず。
これまで生きていて、こんなにも腹が立ったことはなかった。
「それはこっちの―――、いや…」 武士は言いかけた台詞を途中で止めた。
「ごめんな…」
あたしは顔を覆って首を振る。
武士は唇を噛みしめ悲しげな顔で俯いている。
それは何だか、―――双方ともにやるせの無い話だ。
あたしがふと顔を上げたとき武士の視線は堤防の桜並木に向けられていた。つられてあたしもそちらを見る。
「そう言えば、覚えているか」
あたしは目を丸くする。そんなのまったく覚えていない。
「小学生の頃だったかな。言ってただろう、桜はすぐ散ってしまうから嫌いだって」 桜の花散る無常観を詠った歌人は少なくない。
そう思っているのに気付いたのか、彼はむっと唇を尖らせた。 「だけどおまえが言ったんだぜ。どんなに嫌ったって桜は毎年咲くんだって。それなら毎年毎年嫌な気分になるよりそれを楽しみにした方がずっといいって。自分は俺と一緒に花見できるのが嬉しいって」
あんまりにも率直な過去の自分に真っ赤になるあたしを武士はけらけらと笑い飛ばす。それから肩をすくめてふうと息を吐いた。 「今年もおまえと花見がしたかったな」
あたしはぎょっとして武士に詰め寄る。 「ほら、あと何日かで桜は咲くわ。それまで待って一緒にお花見しようよ。あたしは武士が幽霊でもぜんぜん構わないからっ」
武士は苦笑した。 「俺がここに来たのは、約束があったから」
あたしは唇を引き結んで下を向く。 果たせなかった最後の約束。
「それを言ったら、武士は成仏しちゃうんでしょ」
武士はまるで他人のことのようにそう言う。
「なぁ。俺の好きだった言葉、覚えているか?」 もちろんうなずく。
「―――花は桜木、人は武士…」
あたしは答えられなかった。
だけど、
「武士、…死んじゃったじゃない!」 あたしはぎゅっと唇を噛む。堪えきれずに溢れた涙がぽろぽろと頬をつたった。 「死んじゃったのにこんなこと言ったってしょうがないよっ」
思いがけない大きな声にあたしはぎょっとした。
「花は毎年咲くって言ったのはおまえだろう。今年咲く桜は来年もまた咲くだろうよ。だけど散っていく今年の桜を見ることはけして無駄じゃない。俺はおまえの言葉が無意味だなんて考えない」 武士はあたしをまっすぐ見すえて言った。 「俺はおまえの言葉が聞きたいんだ」 痛いくらい真剣な言葉があたしの胸に突き刺さる。
「…本当に聞きたいの? もう、何の意味もないのに?」 彼はちょっと苦笑する。 「去年俺と花見したことをお前は無駄だと思うのか?」 あたしは小さく首を振った。
本当は、けしてこんな風に言うはずじゃなかった言葉。 この分じゃ武士はあたしが何を言いたいのか知っているのだろう。
「あたしは、あなたが好き。幼馴染みとしてじゃなく、笹倉武士が好きなの」 もう間に合わないこの言葉。
だけど武士は、それはそれは嬉しそうに笑った。 「俺もだ」 その言葉にあたしはほっと胸を撫ぜ下ろす。何だか胸のつかえが取れたような気がする。
「そう言えば、昔ふたりでここに桜を植えたね」 今更になって懐かしい思い出がふと脳裏をかすめた。
「あの木はいったいどうなったんだろう…」 そうか、もうお別れの時間なんだ。あたしにははっきりそれが解った。 さよなら、武士。最後に話せて楽しかったよ。 あたしはゆっくりと目を閉じる。
そんな思いを最後にあたしの意識は真っ白になった。
※ ※ ※
目の前には、もう誰もいなかった。 「…まったく。本当にまぬけだよなぁ」 深々とため息をついて俺はその場に座り込む。 俺の前に立っているのは幼馴染みの少女ではない。
それは大昔、ふたり花見にあぶれた事に腹を立てて、自分たち専用の桜を作ろうとこずかいを出し合って植えた苗木である。
あまりに早く、あっけないその別れを俺はなかなか受け入れられなかったが、それでも事実は違えようがない。
―――もっとも、 「死んだのが俺だと思ってたんだから、おっちょこちょいにも程があるよな」 しっかりしているように見えてどこか抜けていたあいつだ。
「でも、これでようやく成仏できたんだよな」 俺は再び息をつく。
「…それじゃあ、まぬけは俺もおんなじか」 なんでもっと早く告げなかったのだろうかと、今となっては後悔ばかりが胸を締め付ける。だけど―――、 「思いを確かめられただけ俺は幸運なのかもしれないな」 俺は小さく微笑み、散り落ちたビロードのような手触りの花びらにそっと指を這わす。 柔らかなこの花びらはきっと今年も盛大に散るだろう。
俺は桜の花が咲くたびにきっと毎年ここに来る。
少なくとも、―――俺はそれを知っている。
<fin.> |