◆◇ 新しい概念の世界  ◇◆

 47歳の専業主婦、西村かよ子がその手紙を見つけたのは、深夜になっても帰らない一人息子、俊一を心配して彼の部屋を訪れた時のことだった。

『お父さん、お母さんへ。
 いままで大変お世話になりました。不出来な息子で、本当にごめんなさい。
 僕は勉強が出来ないし、運動も不得意で、友達を作ることすら苦手。それどころか、学校では苛められているという駄目な人間でした。
 でも、そんな僕でも取り柄を持つことができる世界があることを知りました。
 だから僕は、そこに、新しい概念の世界へ向かうことにします。
 もう二度と会うことはありませんが、どうぞお元気で。健康に気をつけて、長生きしてください。
 さようなら。
 俊一より』

 その手紙は、不自然なほどに綺麗に片付けられた部屋の、学習机の上で白い封筒に入れられていた。
 かよ子はその手紙を読んで、真っ青になった。
 それからかれこれ三十分ばかり、青ざめた顔で震えていたかよ子だったが、玄関から聞こえてきた音で夫の帰宅を知るや否や、慌てて夫にすがりついた。
 53歳の会社役員、西村俊夫は妻の訴えを聞くとまず第一に彼女を叱責した。
 例え親子であっても、無断で自室に入ることはよろしくない。ましてや、息子俊一はすでに高校生であり、子供ではない。一晩や二晩、帰ってこないこともあるだろうと、騒ぎすぎであることをたしなめたのだ。
 俊夫は良い意味で厳格な男で、自立の精神を大切にしていた。例え親子間であっても、ルールには公平である事を望んでいる。
 しかし、かよ子は知っていた。息子の俊一には一緒に夜遊びするような友達はおらず、また最近は苛めについて悩んでいたことを。
 かよ子は息子を慰めることもできず、このところはずっと腫れ物を触るようにしか接することが出来なかった。
 そんな折に見つけた息子の手紙を、彼女はどうしても遺書としか受け取れなかったのだ。
 俊夫もまた息子の残した手紙を読み、考えた。
 自分には家出の宣言であるように読めるが、確かに遺書として読めないこともない。
 妻の取り乱しようも気にかかることだから、二日ほど待って家に戻らないようなら、警察に連絡することにしようと決めた。

 二日後、かよ子と俊夫は揃って警察署まで赴いた。
 彼らの相手をしたのは、まだ子供っぽさの残る顔つきの、去年学校を卒業したばかりだと言っても納得するほどに若い一人の刑事だった。
 刑事は二人の息子の残した手紙を読んで、あっさりとうなずいた。
「心配することはありませんよ。手紙に書いてある通りです」
「つまり、どういうことなんです?」
 かよ子は不安そうに問いかける。
「彼は新しい概念の世界に向かったんですよ」
 若い刑事は朗らかな笑みを浮かべ、極々自然な調子で答える。
「自分も近々そちらに移るつもりなんです。息子さんがいなくなってしばらくは寂しいかもしれませんが、息子さんが選んだ道なんですから、応援してあげてください」
 まるで地方から都会に出て、一人暮らしをするかのような物言いだった。
 あまりにも当然であるかのような口調で説明され、二人はまるで狐に摘ままれたような気持ちで帰宅した。
 だが、釈然としない思いはどんどんと募るばかりである。
『新しい概念の世界』へと向かったのだと言われても、それがなんなのかはさっぱり分からない。ただ彼らに分かるのは、一人息子が帰って来ないという事実のみだ。
 かよ子と俊夫が再び警察署に足を踏み入れたのは、手紙を見つけてから五日目のことだった。
 次に彼らの相談に乗ったのは、俊夫とそう年の変わらないベテランの刑事・岩瀬克己だった。
 すでに一人立ちしているものの、同じように一人息子を持つ岩瀬刑事は西村夫婦に同情し、親身になって話しを聞いた。
 そして同僚である若い刑事が、以前に彼らを煙に巻いて追い返していたということに酷く驚いた。
 岩瀬は事情を聞くために、その若い刑事を呼び寄せようとしたが、その刑事はまさに昨日、退職届を出していた。周囲は彼が『新しい概念の世界』へ行くのだと話していたことを聞いていた。
 彼の住んでいた部屋は既に引き払われており、彼の足取りを追う事はできなかった。
 彼もまた、煙のように消えていたのだ。

 それから、若者が姿を消す事件があちらこちらで頻発した。
 もしかすると、それは以前からすでに始まっていたのかもしれないが、家出やなにやらと勘違いされ、取り合われなかったのかも知れない。
 ともかく、この失踪事件が表ざたになると、それは一件や二件の話ではないことが明らかになり、大騒動になった。
 失踪者はその多くが、事前に『新しい概念の世界』という言葉を書き残したり、口にしていたため、それが事件の鍵だと誰もが気が付いていた。
 警察は、集団自殺やカルト教団によるものかと考えたが、どこかで大量の遺体を発見したり、そういったキーワードを用いる宗教団体や組織は見当たらず、事件は一層謎めいていくばかりだった。
 失踪した人間に、共通点はなかった。
 学生であったり、公務員であったり、落ち込んでいたり、人気者だったり、既婚者だったり。職業も、性格も、趣味も、行動範囲にさえも、彼らを結ぶものは見当たらなかった。
 唯一、彼らに共通していたものは、年齢だった。
 失踪したものは、そのほとんどが十代後半から二十代後半の若者だった。まれに三十代や四十代のものもいたけれど、模倣犯を疑うほどに、その数は少なかった。
 彼らは、ごく自然に姿を消していた。
 ある者は書置きを残し、ある者は職を辞して、ある者は身辺を整理して姿を消した。場合によっては、誰にも何も言わずに急に姿を消すものもいたが、そういうものは大抵、だらしがなかったり非常識だったりで、断りもなく姿を消すことを周囲に納得させるような人柄だった。
 なので、特に騒ぎになるのは失踪者が未成年だった場合で、成人の失踪者を加えれば、その数はさらに膨れ上がることだろう。
 やがて失踪者は、誰の目から見ても見過ごすことの出来ない人数へとなっていった。
 また、それは地球上のあらゆる国で起こっていることも明らかになった。
 何の痕跡も残さず、煙のように若者が消えていくことに、人々は恐怖した。何が起こっているのか、誰にも理解できなかったからだ。
 神隠しだ、宇宙人に攫われたのだと、噂だけは広まるものの、真相は一向に明らかになりはしない。
 とある国の母親、マーサ・ノウエルは、自分の可愛い子供が消えてしまうことに酷く怯えて、子供を部屋に閉じ込めた。
 だが、マーサの行き過ぎた行動は周囲からの非難を招き、反省した彼女は子供を自由にさせた。だがそれから数ヵ月後、子供が失踪したことで、マーサは深く絶望することになる。
 こうして、どこかで歯止めがかかる兆しすらなく、若者は次々と姿を消していった。
 このままではいけないと、人々は原因を究明しようとしたが、解決の糸口すら見当たらない。
 彼らが言う『新しい概念』とは何かということすら、一切分かりはしなかったのだ。
 事件を別方面から調べていた某私立大学の教授であり、名の知れた社会心理学者でもある篠原総一郎は、自分の大学の学生にアンケートを取った。

 Q1.貴方は『新しい概念』を知っていますか?

 Q2.『新しい概念』とはなにか、説明をして下さい。

 有効回答数五千人のそのアンケートを集計していくうちに、篠原教授は驚くべき事実に行き当たった。
 回答したほぼすべての生徒が、『新しい概念』を【知っている】と答えた。
 そしてその大半が『新しい概念』とは、数年前から続く若者の失踪事件のキーワードであると答え、自らの予想を書き記したりしていたのだが、何パーセントかの学生はたった一言、『説明することが出来ない、難しい』と答えたのだ。
 そしてその後の追跡調査で、そうした回答をした学生は他の学生に比べると後に失踪する確率が高いことも突き止めた。
 篠原教授は自身が退職するまで、毎年そのアンケートを実施したが、年々、その『説明が出来ない』と書く学生は増えていき、最終的には八割の学生が同様の回答をするようになっていた。

 やがて、街で若者の姿を見ることはごく稀になり、主要な先進国における平均年齢は六十歳を越えた。
 若者の数があまりにも減りすぎたのだ。
 国は総じて、出産適齢期を過ぎた女性の出産、男女の結婚を奨励し、その為の補助や援助を惜しみなく行い若年層の目減りを食い止めようとした。だが、そうして生まれた子供もまた、失踪年齢に差し掛かると姿を消してしまうため焼け石に水でしかなかった。
 世界は壮年以上の者で溢れ、老人の姿ばかりが目に付くようになった。この先、どういった状況が訪れるのか、誰しも想像がついたが、根本的な解決を見出すことはできなかった。
 『新しい概念』について、唯一核心に踏み込んだとされる逸話がある。
 それは『失踪年齢』とされる十代後半から二十代後半を大きく外れた、五十代の男性ロジャー・トムスンの言葉だった。彼は、自分は『新しい概念』についておおよそ理解できていると周囲に話していたのだ。
 ロジャー・トムスンは年齢を感じさせないほどに活動的であり、躍進的であり、何事にも挑戦的な、まるで少年のような瞳をした男性だった。
 彼は最新の電子機器を操りながら、話を聞きに来た客に対してこう答えた。

ロジャー 「自分は『新しい概念』について、完全ではないけれど、理解できていると思うよ。でも、それを説明するのは酷く難しい」
インタビュアー 「それは言葉では説明できるものではないからですか? なんらかの宗教的観点やスピリチュアルに類するものに、関係しているのでしょうか?」
ロジャー 「いやいや、そんなものではないさ。語るのは難しいし、理解するのは輪を掛けて難しいけれど、言葉を尽くせば不可能という訳ではないだろうさ。しかし、それはこの世界の、我々の知る概念によって支配されている世界の言葉では無理なんだ」
インタビュアー 「つまり、我々はそれを説明できる言葉を持たないということですか?」
ロジャー 「近いか遠いで言えば、半ばよりは近いかな。それを説明できる世界こそが、新しい概念の『世界』なんだ」
インタビュアー 「貴方もまた『新しい概念の世界』へ向かいたい気持ちはありますか?」
ロジャー 「いいや。面白そうだとは思うけどね。でも、ぼくはここが好きだし、ぼくにとってはここが自分の世界だから」

 ――某雑誌インタビュー記事より抜粋


 やがてロジャーは、日夜押しかけてくる記者や学者の質問に答えることに飽きたのか、多くを語ることを止めてしまった。
 ロジャーはそれから十三年後、病を患い病院で静かに息を引き取った。
 ロジャーが本当に『新しい概念の世界』について理解していたのかどうかは、諸説様々である。ただの騙りであるという者もいれば、唯一『新しい概念』の本質に辿り着いたとする者もいる。
 もっとも、ロジャーの説明を、本当に理解できているものは残念ながらどこにもいなかった。
 
 夏の蒸し暑い夕暮れ時である。
 西村かよ子は六十八歳、夫の俊夫は七十四歳になっていた。
 若者がいなくなり、労働人口が足りなくなったため世は終生労働の風潮へと変化していた。
 だが、その仕事は彼らが第一線で働いていた時に比べればさすがに緩やかで、それを反映するように世間もまた非常にゆったりとした空気へと変わっていた。
 誰が言い始めたか『たそがれの時代』という言葉は、非常に的を得ていると、かよ子は思った。
「おや、西村さん。旦那さんのお迎えですか」
 駅前にたたずむかよ子を目に留めて、声を掛けてきたものがいた。
 近くの派出所で勤務する岩瀬克己だった。
 彼もまた終生労働制度により警察の仕事を続けているが、あるときを境に人と直に接する仕事がしたいとの希望を出し、警官として街の派出所で働いていた。
「ええ、そうですの。パトロール、お疲れ様です。今日は本当に蒸しますのね」
「まったくです。この空模様では夕立が起きてもおかしくないですね。お帰りの際は気をつけてください」
「ええ、刑事さんも」
 懐かしい呼称に、浅黒い赤ら顔をさらに赤らめると、年に似合わぬ元気の良さで自転車を漕いで行く。
 彼の息子も、他の大勢と同じようにある日突然姿を消してしまった。その時の岩瀬の消沈振りといったらなかったと、伝え聞く。
 彼にとっては、こうして仕事に精を出すことがせめてもの生きがいになっているのだろう。
 かよ子は小さく息をついて、額に浮かんだ汗の玉をぬぐった。空は厚い灰色の雲に覆われており、蓋を閉められてしまったかのように熱気が辺りにこもっている。岩瀬の言うとおり、今にも夕立が起こってもおかしくない天気だ。
 かよ子の大切な一人息子、俊一は結局帰ってくることはなかった。生きていれば、今ではりっぱな成人男性となっているだろう。だが、かよ子の中の俊一はいまだひょろりと線の細い高校生の時のままだ。
 いったいどこにいるのだろう。元気でいるのだろうか。苦しい思いはしていないか。
 もはやひと目すら会えなくても構わない。ただせめて、生きて、幸せに暮らしていて欲しい。
 かよ子はそう強く願わずにはおられない。
 思い返せば、かよ子は自分を良い母親ではなかったと認識している。苦しんでいる息子を、助けることも、慰めることもできなかった。
 俊一は最後の手紙で、自分を不出来な息子だと称したが、それならば自分のほうがよっぽど不出来な母親だっただろうと、かよ子は胸を痛める。
 ふと、握り締めたこぶしにぽつりと水滴が当る。
 ごろごろと低い雷鳴が響き、ぴかりと空が光る。そしてそのまま激しい雨が降り出した。かよ子は慌てて屋根のある場所へと移動する。
「おやおや、降ってきてしまったか」
 背後の声に振り返ると、そこには夫の俊夫が傘を杖代わりにして立っていた。
「ええ、今ちょうど振り出してきたんです。先ほどパトロールしている岩瀬さんに会ったのだけれど、可哀想にきっと雨に濡れてしまっているわね」
「それはお気の毒に」
 俊夫は、被っていた帽子を脱いで脇に持つ。
「この様子では、傘を差していても意味はなさそうだな。どうせすぐに止むだろうから、雨宿りしているか」
「そうですわね」
 周囲の音を掻き消すほどに、雨粒が激しく駅舎の屋根を叩き、時折かみなりの落ちる激しい音に驚かされる。地面に跳ねた水しぶきが、二人の足を湿らせた。
「このところ、良く俊一のことを考える」
 ふいに、俊夫はぽつりとつぶやく。それは雨の音に掻き消されることなくかよ子の耳に届き、かよ子は驚いたように振り返った。
「あら、わたしもですよ」
「俊一は、うまくやることができたんだろうか」
 尋ねるというよりも独白に近い夫の言葉に、かよ子は首を傾げる。
「うまくやるって、何のことですか?」
「いや、俊一の手紙に書いてあっただろう。取り柄を持つことができる世界を見つけたって。じゃあ、その世界でうまくやれているのかなとね」
 二人とも、俊一の最後の手紙はもはや一文字残らず暗唱できるほどに、記憶の中に刻み付けていた。
「当時はともかく心配で不安で、良くない印象しか抱けなかったけれど、今となってみればあの手紙には俊一の希望が込められているように思えるんだ」
 新しい世界で頑張ろうと、そんな思いが隠れているのではないだろうかと。
「本当に、そうでしょうか……?」
 不安そうな、悲しげな表情を浮かべる妻を、俊一は暖かい眼差しで見る。
「私はそうであって欲しいと信じている。俊一は、どこか、ここではない世界で新しい一歩を踏み出したんだと」
「それが、新しい概念の、世界ですか?」
「ああ。だったら我々は自分の道を歩む俊一を応援してやらなければならないな」
 あの子は、きっと頑張っているはずだと。
 そう言われ、うっすらと浮かびかけた涙を、かよ子はぎゅっと唇をかみ締め堪える。
「そうですね。そうであって、欲しいですわね」
 気が付けば、篠突く雨の勢いは衰え、霧雨のような小降りになっていた。夕立もそろそろ終わりそうだ。
「もう止むな。では、行くか」
 俊夫は数歩先に進むと、振り返り手を差し出した。かよ子はめずらしいそんな夫の行動に照れ臭いような思いに駆られながらも、その手を握り返す。
 厚く空を覆っていた雨雲は流れていき、茜色の夕日が残りの雲を幻想的に染め上げている。
 かよ子は、あの鮮やかな茜空の向こうに、俊一の向かった『新しい概念の世界』があるような気がした。
(俊一、あなたは不出来でも駄目な人間でもない。だから身体に気をつけて、頑張るのよ。あなたはどこにいたって、私とお父さんの子供なんだから)
 空を見上げて心の中でそう呟くと、かよ子は俊夫と共にゆっくりと家路をたどるのだった。  


【終】


 

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