君たちは屈折矯正手術というものを知っているだろうか。
私は二十歳のときに初めてこの視力回復手術を知った。
だからこの手術の事を知ったとき、私にはそれが非常に魅力的に映った。まったくの裸眼で鮮明に物を見ることができるなんて、とっくの昔に諦めていたことだからだ。
結局あれから五年の月日を経て、私はようやくすべての可能性を考慮に入れても自分の決心がけして揺るがないことを確信した。私はついにその手術に挑むことにしたのである。 病院で手術の時間を待つ間、私の心臓は早鐘のように鳴っていた。この手術の結果に対する期待感と、万が一失敗して最悪の結末が訪れた場合の恐怖心からだ。
看護士が自分の名前を呼び、手術の準備が整った事を告げる。 もう後戻りはできない。 期待と緊張を胸に、私は自分の人生を一変させるかもしれない手術に望んだのだった。 手術は思った以上にあっさりと終わった。五年間もためらったわりに、手術にかかった時間は結局一時間もなかったというのはもはや笑い話でしかない。
手術は今の段階ではひとまず成功と言えるらしい。実際に目で見てみないと本当のところは分からないが、それでも絶望的な結果が決まったわけでは無いという事で私はほっと胸を撫ぜ下ろした。 手術後から目に巻かれていた包帯がやっととれる。
医者によって徐々に包帯が外されていく。
ああ。 私は感嘆の言葉を漏らす。
けれど、私の目に映ったのはそれだけではなかった。
私の手術をした医者の背中には、恨みがましい目をした血まみれの女がおぶさるように圧し掛かっていた。
青ざめ戦慄いている私を不審に思ったのか、医者がどうかしたものかと顔を寄せてくる。もちろんその肩におぶさった女も近付く。 「視力に何か問題でも――、」 医者のすぐ横で女の血走った目が、私を覗き込んでにやりと笑った。その瞬間、彼女の口はべりっと耳まで裂けた。
「つまり貴方は、恐ろしい幻覚が見えているということですね」 私は黙ってうなずいた。
「それは貴方がレーザーによる視力回復手術を受けた直後のことだった、と」 医者の方からカサカサと紙の擦れる音がする。たぶんカルテでも見ているのだろう。
「でしたらまず、それが本当に幻覚なのかどうか確かめてみましょう」 医者は私に包帯を外すように命じた。
私は息を呑み思わず逃げ出しかける。椅子ががたりと音をたてた。 「どうしたのですか?」 医者が優しくたずねてくる。私ははっと我に返り、多大な労力をかけてなんとか椅子に座りなおした。 「もしかすると、私の背後に何か見えるのですか」 医者の言葉に私はびくっと肩を振るわせる。やはりどうしても私の目にはここに居るはずのない人間たちの、不気味な姿がはっきりと映ってしまうのだ。 「何が見えますか」 私は答える。 「生きているようには見えない、何人かの男女が」 ある者は首に紐を巻きつけ、ある者は両腕よりだらだらと血を流し続けながら、またある者はぱっくりと割れた頭蓋をさらし、そしてある者は腹から内臓を溢れさせている。
「では貴方の目には何人の人間が映っているのか、教えてもらえますか」
私は視線を転じる。医者の背後に隠れるように、小さな子供が居た。その首には絞められた指のあとがはっきりと残っている。 「それと小さな子供の計六人」
医者はかすかに目を伏せた。 「どうやら貴方は本物のようだ」
私は自嘲気味にたずねる。しかし医者は首を振った。 「いいえ。本物の、――霊視者ということです」 たまに居るのですよ、と医者は言った。 「そこに居るはずのない、しかし幻覚でもないモノの姿を見たり感じたりしてしまう患者さんが来ることが」
私はおずおずとたずねる。医者ははっきりと保証してくれた。 「貴方の目は幻覚を映しているようには見えない。それに貴方は私の後ろにいる方々の人数も当てたではないですか」
私は期待を込めてたずねたのだが、彼は首を振った。 「私には見えません。ですが、貴方と同じ症状を訴えて来る人の中で精神病を患っているように見えない方々は皆おなじ人数を答えていかれますので」 だから貴方も精神疾患ではないのでしょう、と医者は診断の結果を下す。しかしそれは私にとっての根本的な解決には為り得なかった。 「あの、これを見えなくするにはどうすればいいのでしょう……?」 私はすがるように彼にたずねるが、医者は残念そうに首を振った。 「それは私の管轄ではないですね。どうしても見えなくなるようにしたいというのなら、それこそ霊能者の類いをたずねるしかないと思いますよ。もっともそれが解決に結びつくかどうかは定かではありませんが」 私はがっかりした。これからこんな異常な世界で生きていく自信は、私にはまったくと言っていいほどなかった。 「ですがこれまで通りの生活を送るだけなら、貴方にとってはそれほど難しいことではないと思いますよ」 私はぎょっと顔をあげる。その途端後ろの人たちを見てしまい、私は慌ててうつむき直した。内心の動揺から、反射的に目と目の間に指を押しあてる。 その途端、私はやっと思い当たった。自分がこれらの異常なものを見るようになった理由に、ようやく気がついたのだ。 「気休めですが、とりあえず精神安定剤と睡眠導入剤を処方しておきましょう。眠っている間なら何も目にすることはないでしょうからね」 表情から、医者は私が言わんとした事に気がついたと察したのだろう。カルテにさらさらと診断の結果を記入していく。もっともそれが今明らかになった事実を正確に記載しているとは限らないわけだが。 「あの、ありがとうございます、先生。お世話になりました」 後ろのものを見ないよう私は視線を逸らし気味に礼を言い、診察室を後にしようとする。
「五人とは私がこれまでに助けることができなかった患者さんの数です。そのうち一人は幼い自分の子供を道連れに、命を絶ちました」 私はとっさに後ろを振り返る。 「人はそれぞれ、色々な事情を持ち合わせています。貴方だけが特殊なのではないのです。どうかあまり気を病まないでくださいね」 六人の死者に囲まれて、医者はただ悲しそうに微笑んでいた。 ――結局あれ以来、私は日常的にコンタクトをつけて生活している。コンタクトを外している時にだって、片時も眼鏡を手放さない。 私が思っていた通り、あれらの光景は裸眼の視界にだけ映るものだったのだ。
ならば解決方法はただひとつ、極力裸眼になる機会をなくせばいいだけのこと。
だからもし私とおなじ手術を受けようと考えている人がいるのなら、私からひとつだけ忠告させてもらおう。
なにしろ人がどんな事情を持っているかなんて、他人はもちろん当の本人にだって分からないことが多いのだから――。 |