2万ヒットリクエスト短編
≡ 飛ぶ者と飛ばない者 ≡
時計の針は容赦なく回って約束の時間より二十分。
苛立ちとか呆れだとか。
ただ雨が降りそうだなぁとか、最近寒くなってきたよなぁとか、
「ははっ。やっほ、晶ちゃん。遅れちゃったよ」 悪びれない笑い声がして別に振り向かなくても誰だが分かってたけれど振り向いた先にいたのはやはりくだんの待ち人だった。 天使のように空から舞い降りて来た、待ち人だった。
「いやぁ、なんか時間に間に合うように飛んでたんだけどさぁ。ほら、空の上って寒いじゃない? 途中でお茶飲んで休憩してたらすっかり遅くちゃったよ」
言い訳ですらない言葉に短く答えると、けらけらと笑って首をかしげていた相手は途端に不安そうな顔をして身を乗り出す。 「晶ちゃん、もしかすると気を悪くした?」
念入りにブローされた髪からいい匂いが漂ってきた。 別に遅刻はいつものことだし。
学校を出て社会人になり。以前ほど頻繁に会うことができなくなった。
ためらいがちにそっと髪に手を伸ばしてみる。 「今日は何だかオシャレだね」
そう言うと「よっしゃ、いい事言うね」と、彼女は途端に気をよくして宙に身を浮かす。そして思い出したように地面に降り立った。 「そうだった。そういえば晶ちゃんは飛べないんだったね」 そうして困ったように肩をすくめた。 いつの頃からかは知らないけれど、ヒトは空を飛ぶ。 どうして飛ぶのかは、重力がどうとか慣性がどうだとかネフェップ=モアの法則がうんたらだとか色々あるらしいけれど、それらは全部お偉い学者の先生が知っていればいいことだ。 ともかくヒトが飛ぶことは紛れもない事実だし、
「でもさ、やっぱり不便でしょ。空飛べないと」
いつもの喫茶店でいつもの珈琲を頼む。
昔は飛ぶ者と飛ばない者の比率はちょうど半々だったが、今は飛ばない方が七分の一に少し足りないぐらいらしい。
「それに新しい法律が制定されてからは逆に得した気分だしなぁ」
ちがやは本当にくやしそうに眉間に皺を寄せる。 先日可決されたばかりの法案は飛べる人間と飛ばない人間との差を埋めるためのもので、具体的に言うと飛ばない人間は交通機関を無料で使えるようになった。
「なんか堕ち人ばっかし得をしてさ……あっ、ごめん」
ぱっと口元を押さえるが、それが本音だとしても別に今さら気にすることじゃない。 堕ち人、というのは飛ばない人間に対しての一種の差別用語だ。
「でもさ、別にうちらだっていつも気持ちよく空飛んでる訳じゃないんだよ。寒い日なんかは耳が千切れるかと思うし雨が降ったらびしょ濡れになるし」 そして今日の天気が心配なのか、眉をひそめて窓を見上げる。 飛ばない人間には理解できない感覚だが、走るよりは楽にしても飛ぶということはそれなりに疲れるらしく、あまり長距離を移動するには向いていない。 「まぁ、非浮空者はかわいそうだから仕方ないんだけどね」 それでもちがやは浮空者なら誰でも言う台詞で。
そう思ったけれども口にはしない。 飛ばない人間に空を飛ぶ気持ちが理解できないように、飛べる人間には空を飛ばない気持ちは理解できない。
「空を飛べて幸せかい、ちがや」
かわりにそうたずねると不思議そうな顔をされた。 「別に幸せだとか不幸せだとかそんなんじゃないよ。だって当たり前のことだし」
食べるのを止めて手を掴まれる。
「ねぇ、どうして飛べる人間と飛べない人間がいるんだろう」 すねるように頬を膨らませる。 なぜ飛べる者と飛ばない者がいるのか。
「……でもそれは男と女の違い程度のことでしかない」
驚いたように目を見張ってくすくす笑う。
「あっ、大変。そろそろいかなくちゃ」 ふいに時計に目をやると、ちがやは慌ててカップの中身を飲み干す。 「もう行くんだ」
そして戸惑うようにしばらく考えて、おもむろに声をおとしささやいた。 「あのね、晶ちゃんだけ先に教えてあげるね。実はあたし結婚するの」 がちゃん、と珈琲のカップが音を立てた。 「――えっ?」
左手の指輪を見せて嬉しそうに笑った。 「結婚式には晶ちゃんも呼ぶから絶対来てね。――晶ちゃん?」
掠れた声でそう答え、さりげなく伝票を取り上げた。
「じゃあここは私が払っとくから。婚約祝い」
だが急き立てる言葉とは裏腹に、
「なに、晶ちゃん?」
不思議そうな顔をする彼女の唇にそっと指先を伸ばす。 しっとりとした柔らかい感触。
「……ココア、ついてた」 そして一歩離れて笑って見せた。 「結婚、おめでとう」
「あの、お客様……?」 お代わりを注ぎに来たウェイターを片手で追い払う。
何が男と女の違い程度だ。それほど大きな違いも無い。 曇り空を背景にちがやが軽やかに飛んで行くのが窓から見えた。
長い長い付き合いだ。
彼女は笑ってこう告げた。 『花嫁のブーケは晶ちゃんに投げるね。そしたら晶ちゃんが次の花嫁だね』 幸せそうに、そう笑った。 『――大切な、あたしの親友だもの』 空を飛ぶ者と飛ばない者の違いはなんだろう。
一滴の涙が珈琲に混ざる。
【終】 |