――この学校には、寂しい幽霊がいる。
ここの高校は、少し変わった造りをしている。
外から見るとただの四角い校舎なのに、中に入るとその構造はまさに複雑怪奇。
必要以上に階段があるので、二階の廊下を歩いていたはずなのに、気付いたら三階にいたりすることなどは、ざらにある。
建物自体はそれほど歴史があるわけではないけれど、恐らく随分洒落っ気のある設計者の作なのだろう。
私のお気に入りは、三階と二階の踊り場だ。
教室のある二階とは違い、三階にあるのは生徒指導室や図書室などの特殊教室ばかりなので、放課後までは人の姿はあまり見ない。
そしてこの場所は、今の時期なら午後の2時45分。
6限目の終わる五分前になると思いがけない角度から差し込んだ光が幾重にも錯綜して、その中で細かい埃がきらきらと瞬く。
これが、私が一番好きな景色。
だから、この時間はいつもここにいる。
私はこの学校の幽霊だ。
希望に胸を膨らませた新入生が、喜び、悲しみ、恋をして、失恋をして、新しい希望を胸に卒業していき、それを涙と共に見送っていた後輩が、同じように下級生に見送られて卒業していく光景を幾度となく見てきた。
校舎をにぎやかす生徒達の顔ぶれは毎年替わっていくけれど、校舎はずっと変わらず同じようにある。
いや、正確にはあるはずだったと言うべきか。
(そして、変わらないのは私だけ、と)
午後の気だるい、あるいは郷愁的な風景をぼんやり眺めながらそう考えていると、ふいに背後から声を掛けられた。
「なんだ、またここにいたんだ」
振り返ると、そこにいたのは学生服を着た男子生徒。
髪の毛を茶色く染め、襟元をくつろげて、ちょっと遊んでいる風体だけど、不良というほど悪ぶっている感じではない。
「あら、雪村君。なぁに、まだ授業中のはずでしょ。サボりは良くないわよ」
「はははっ、お堅いこと言わないで。それを言ったらユーコさんだって」
「私はいいのよ、私は」
なにしろ、私が学生として授業に出ていたのはもう十年以上も昔の話だ。
ちなみに彼――雪村総司は、正真正銘、現役の学生であり、いったい何が楽しいのか、暇を見つけてはちょくちょく私と立ち話をしている。
昔は構って欲しくて尻尾を振って寄ってくる子犬か、あるいは弟でも持ったかのような気持ちで相手をしていたのだけれど、今は私よりも随分と背も伸び、そんなことを思っては失礼なくらいに立派な青年になっていた。
ちなみに文武両道で顔立ちもすっきり整っている彼は、随分女の子にもモテるようで、何人もの女子生徒に囲まれながら廊下を歩いているところを目撃したことは一度や二度ではない。
「そんなことを言って、卒業できなくなっても知らないわよ?」
「出席日数は足りてるし、進路もすでに確定済み。あとは卒業までふらふらできる優雅な御身分です」
「あら、まったく羨ましい限りね。でも、そうか。もう、そんな時期なのね」
私は、過去を透かし見るような気持ちで、目を細める。
入学早々から見知っていた彼が、あと一ヶ月もしないうちに卒業するのかと思うと、月日の流れの速さに目がくらみそうになる。
そしてそれ以上に、自分と彼らでは時間の流れが違うのだなぁとしみじみ思ってしまう。
「でも、残念ね。せっかく建て替えが始まるというのに、新しい校舎に通えなくって」
「そうでもないよ。その前に一年近く仮設のプレハブ校舎に通わないといけないのは面白くないから」
彼はにやりと笑って肩をすくめる。
「それに俺はこの校舎が好きだったしね。ユーコさんだってそうでしょう?」
「そうね」
躊躇うことなく、うなずく。
私は、この校舎を愛している。
毎日を眩むような眩しさの中で生きていたあの頃と、何一つ変わらないこの建物。
だからこそ、例え自分がどれだけ色褪せ擦り切れてしまっていたとしても、まだ地続きに繋がっているのだと、そう信じていることができていた。
「でも、それももうお終いね……」
古びてはいるけれど、歴史があるという程ではないこの校舎は、老朽化や耐震性の問題から、思い切って建て直しをすることが決まっている。
建物を取り崩し、一年をかけてピカピカの新しい校舎に建て直すのだ。
私にとっては非常に寂しいことだけれど、優先されるべきは今を生きる生徒達。私の感傷でそれを拒絶することはできない。
だけど――私という情報の、その大半を占めていた校舎は失われる。
昨日の延長線上だった『明日』は、もう来ないのだ。
「ねえ、ユーコさん。校舎が新しくなったら、またここに戻ってきてくれるんでしょう?」
私は思わず、ぎくりとする。
「や、やぁね。何でいきなりそんなことを言うの?」
「だってユーコさん、今にも消えてしまいそうだ」
冗談染みた口調でそう返すけれど、彼の顔はこちらがたじろぐぐらいに真剣だった。
若いからこそ可能な、奇異も衒いもなくどこまでも真っ直ぐなその瞳で見つめられては、年月ばかりを経て、煤けて落ちぶれてしまった私に抵抗などできるはずはなかった。
「……正直に言うとね、少し迷っているのよ」
あの、懐かしくも輝かしい日々の煌きを忘れることができず、その僅かな面影を求めて私はいつまでもここに居座っている。
父も母もとうに亡く、どこにも帰れる所がない私が唯一自分の居場所だと言えたのが、この場所――いや、この景色の中だった。
それすらもはや失われてしまうのならば、私がここにいる意味はもはやないのかも知れない。
「そんなこと、言わないで下さい」
しかし私の感傷は、低い呟きに掻き消される。
「あともう少しでいいんです。ここに残っていてください」
「どうして?」
私は苦笑する。身体は大きくなり、見た目は大人とそう変わらなくなった彼だけれど、その姿はまるで寄る辺をなくした幼い子供のようだ。
「君はもうすぐ卒業じゃない。後のことなんて、もう関係ないでしょう?」
だけど彼は首を振った。脱色した茶色い髪が、ふわふわと揺れる。
「迎えに行きます。だからそれまで、ここで待っていてください」
「へっ?」
私は言葉を失った。目を丸くしてまじまじと彼を見るけど、そこには冗談を言っているような雰囲気はどこにもなかった。
「ずっと貴女が好きだったんです。貴女の儚くて寂しげな表情が頭から離れなくて。触れることもできず、見ていることしかできなかったけど、いつかその顔を、俺が満面の笑顔に変えてあげようと決めていたんです」
彼はぐいぐいと私に迫ってくる。
「貴女に居場所がないというなら、俺がそれになります。貴女にとって一番安らげる景色になる。だから俺と――、」
「ちょっ、ちょちょちょっと待ちなさいっ」
私は慌てて首を振る。誰もいないと分かりきっているのに、思わずきょろきょろと人目を気にしてしまう。
「冗談はやめてよ。そんな言い方だと、まるで」
「プロポーズですが、なにか?」
雪村君は何に恥じることもないと言わんばかりに、しれっと答える。しかしこちらは、それどころではない。
「何を言ってるのよ、無理に決まってるでしょ」
「大丈夫です。俺、年齢差とか気にしない方なんで」
「そう言うことじゃなくてね」
私は頭を抱える。何と言えば、彼の勘違いを正せるのかが、さっぱり分からない。
「あのね、まだ若い君には分からないだろうけれど、高校なんてまるで箱庭のように小さくて狭い世界なの」
彼はたまたまその中で、クラスメートとは違う異質な私を見つけ、恋愛感情に似た錯覚を起こしてしまい、混乱しているだけなのだ。
「大学に進むんでしょう? きっとそこには沢山の出会いがあるわ。刺激的で、楽しいこともいっぱいある。私のことなんて、すぐに思い出す暇もなくなるわ」
そんなのは、考えるまでもなく分かりきったこと。
「君には輝かしい未来が待ってるの。こんな古びた校舎にしがみついている亡霊なんかに、執着しちゃ駄目よ」
「ユーコさんは俺のことが嫌いなんですか? もしそうならそうと、はっきり言ってください」
真っ直ぐな瞳が、私を貫いた。私はたじろぎそうになる自分を懸命に抑える。
嫌いかどうかなんて、そんなことは決まりきっている。
気が付けば、窓から差し込む光の乱舞はとっくに終わっていた。
代わりに目の前にいるのは、図書室の壁のシミのごとく、誰の目にも留まることのなかった私を見つけ、三年間ずっと声を掛け続けてくれた彼。
昨日と同じ今日を明日も明後日もと、繰り返し過ごしてきた私の日々に、初めて色を付けてくれた存在。
だからこそ、まるで彼のいるこの何でもない景色こそが、私のお気に入りの光景であると勘違いしてしまいそうになる。
(――でも、それは単なる錯覚)
彼と私とでは、そもそも生きる世界も、年代も違う。
私とは違い明るい未来が待っている彼を、引き止めてはいけないのだ。
だから、私ははっきりと告げた。
「大嫌いよ。今も、迷惑している」
「嘘ですね」
しかし彼は、どういう訳かほっとしたように微笑んだ。
「良かった。嫌われていないなら、まだ希望がある」
「待って、今言ったよね。私、嫌いだってはっきり言ったよね?」
まさかこの口が思ってもみないことを口走ってしまったのかと、不安になる。彼は嬉しげに、にんまりと笑っていた。
「三年間、ずっと一緒にいたんですよ。ユーコさんが、嘘を付くときにどんな顔をしているのかくらい、覚えてますよ」
「なっ」
そんなの思い違いだ。何の証拠にもならない。
そう言ってしまうのは簡単だけれど、すでに思いっきりたじろいでしまった今となっては、何を言っても無意味だろう。
「今すぐはさすがに無理なんで、四年経ったら、貴女を迎えに行きます」
「きっと君は私のことなんて忘れるわ」
即座に言い返すと、彼はにやりと目を細める。
「それじゃあ、賭けをしますか? 俺が約束を守ったら、大人しく俺の所に来るってことで」
「ちょっ、それって私には何の特もないじゃない!」
「いいでしょ? ユーコさんは来ないって思ってるんだから。もし、来なかったら俺の所に化けて出てきてくれていいですよ」
「だから、それに何の得が……っ」
その時、彼の顔が急に接近した。
触れるか触れないかの至近距離。吐息が唇に掛かるかというようなそんな場所に、この年頃の男の子にしてはニキビすらない綺麗な顔がある。
「……っ」
「前払いを下さい、って言ったら怒る?」
「――お、怒るに決まってるでしょっ!」
思わず怒鳴ると、彼は笑ってひょいっと下がった。
「了解。じゃあ大人しく、賭けに勝つまで我慢しておくよ」
それに、と彼は続ける。
「ゆーこさんのそんな可愛い顔が見れただけで、結構満足だしね」
「さっさと帰れ!」
楽しげに笑いながら、階段を下りて姿を消す後姿。塩があれば、盛大に撒き散らしているところだ。
「もう、いったい何なのよぉ……」
私は真っ赤になってしまった顔を覆い隠すように、その場にしゃがみ込んでしまった。
――結局、雪村総司という学生は、それから一度も私の前に姿を現すことなく学校を卒業して、三年間を過ごした学び舎から姿を消した。
そして、校舎自体もその数ヵ月後には、当初の予定通り跡形もなく取り壊されたのだった。
+ + + + +
階段の踊り場には、もう美しい光が差し込むことなく、蛍光灯の無機質な明かりが白い壁を照らしている。
しかし私は、それでも気が付くとこの場所に立ち尽くし、ぼんやりしてしまうことがある。
新しい校舎は、どこもかしこも新品でピカピカしているけれど、なんとなく疎外感を覚える。
もっとも、丸二年以上ここに居続ければ、そんな感覚にも馴染んできてしまうものだけれど。
古い校舎を、取り壊した上に出来上がった新校舎。
結局私は、ここに戻ってきてしまった。
別に彼との約束があったからじゃない。ただ、新天地を探す気力が私にはなかっただけだ。
なのにどういうわけか、あれからずっと落ち着かない気持ちを抱き続けてしまったのが、妙に悔しい。
(だけど、それも今年いっぱいまでの話よ)
一方的な約束が交わされてから、今年で早くも四年目。
でもこの先、彼が来ることは決してない。
彼は今頃、忙しくも楽しい大学生活を満喫しているはずだ。きっと彼女の一人や二人、いるに違いない。
そして私は来年になれば、大きな安堵感とほんの僅かな喪失感だけを残して、今まで変わらぬ日々に戻るのだ。
「だから、それまでの辛抱で――、」
「ユーコさん」
私はぎくっとして立ち尽くす。
背後から聞こえてきたのは懐かしい、でも記憶よりも随分と大人びた響きを帯びた声。
「貴女は相変わらず、こんな所にいるんですね」
ゆっくりと、振り返る。
穏やかに微笑みながら階段を登ってくるのは、学生服ではなくスーツを身にまとった一人の青年。
「雪村君……」
私はわなわなと唇を震わせる。
「お久しぶりです、ユーコさん。元気にしてましたか?」
スーツを着た彼は、もはや子供という侮りを寄せ付けないほど、しっかりとしている。
私は思わずくしゃりと顔を歪めた。
「元気よ。でも、どうして――、」
「ごめんね。ユーコさん。実は今日は、貴女を迎えにきたんじゃないんだ」
ツキン――と、胸が軋む。
そんなことは初めから分かっていたことだと、私は自分の胸の痛みを無視して笑う。
彼は私を忘れていなかった。それだけで、もう充分。
「それじゃあ、なおさら何でここに?」
「我慢できなくって」
彼は大人びた表情で、にこりと笑う。
「でも、いいですよね。迎えに来る日まで会いに来ちゃいけないなんて、賭けの条件にはなかったですし」
彼のしてやったりと言う顔に、私は思わず唖然としてしまった。
「え? だ、だってもう彼女だっているんでしょ?」
「やだな、そんなのいないって。俺、こう見えてかなり一途なんだよ」
彼は拗ねたような表情を浮かべてから、一歩二歩と階段を登って、私の目の前までやってくる。
「貴女は自分を学校の幽霊だと言ったけど、それなら俺だってそうだ。貴女のいる学校の光景が忘れられずに、こうして舞い戻って来ちゃうくらいにはね」
――教育実習生として来週からお世話になります、W大学教育学部の雪村総司です。
彼はそう言って懐から取り出した一枚の名刺を差し出す、――振りをして、そのまま私を抱きしめた。
「は、はぁっ!?」
思いがけないこの事態に、私は声を張り上げる。
「確かに大学に入って色んな出会いがあったけど、それでもユーコさんのことは忘れられなかった。むしろ俺に出会いがある分だけ、ユーコさんにも同じくらい近付く異性がいるんじゃないかって気が気でなかった」
彼は私を抱きしめたまま、ほうっと息をつく。
「なんかもう、賭けが成立するまで待ってられないや。あの時はまだ生徒だったから触れることもできなかったけど、もういいよね」
「今だってまだ学生じゃない!」
教育実習生ということは、まだ大学に在学中であるということだ。
「え、じゃあ卒業したらいいってこと?」
「そうは言ってないし!」
彼は私の頭のてっ辺に顎を乗せて、くつくつと笑う。大学に入ってさらに背が伸びたらしい。
「大学を卒業して無事に教員免許を取れたら迎えに来るつもりだったんだ。だって、そしたら後の問題は年の差だけで――、」
俺は年齢気にしないし、と耳元で大人びた低い声が囁く。
私は頭の先から爪先まで真っ赤になってしまって、彼を思わず突き放す。
「いいから離れて!」
「はいはい」
彼は笑って手を上げ、数歩下がる。茶目っ気たっぷり笑うその様子は、ここに通っていたときの面影を充分に残していた。
「この学校に入って、階段の踊り場で貴女を見かけたときからずっと好きだった。あの頃は手が届かなかったけど後もう少しで、貴女と同じ場所に立てる」
幸村君は右手を差し出して、『先生』と私に笑いかけた。
「――図書館司書のユーコ先生、俺を新しい図書室まで案内してくれますか」
実習生らしい生真面目な口調に騙されて、しぶしぶと私はその手を取った。――次の瞬間。
ぐいっと再びその胸の中に引き寄せられる。
「これだけ待ったんだから、あと少しぐらいは我慢できるよ。でも――、迎えにいったその後は、覚悟しておいてね。ユーコさん」
甘く、容赦のないその言葉に、大人気なく胸が高鳴る。
私の顔は真っ赤になり、そして――古い校舎に佇む、一人ぼっちの幽霊はもうどこにもいなかった。
【終】
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