◆□◆ グッバイ、スウィートハート ◇■◇


 見上げれば雲ひとつなく、見事に晴れ渡った心浮き立つような青空だった。
 だけど今日ぼくは、愛しのハニーに別れを告げなければならない。
 それは身を引き裂かれるほどに辛いことだけど、そうするのがなにより最良の選択なのだ。


「と、言うことでマイハニー。悪いけれど、ぼくは君と添い遂げることができなくなってしまったんだ。許しておくれよ、キューティーエンジェル」
 ぼくのスウィートハートこと三千院麗華さんは、心の底からうんざりしたと言わんばかりのクールな眼差しでぼくを見つめている。
「それで、今度はどんなくだらないことを思いついたわけ?」
「くだらなくなんてないよ! ぼくはいつだって真剣さ」
 そう。確かにぼくは脊髄反射で物を喋ることがあるけれど、別にそれを冗談で言っているわけじゃない。
 南の海で野生のイルカの背中に乗ってみたいと言った時も、ペンギンコロニーの中でブリザードを体験してみたいと言った時も、南米のジャングルでマフラーみたいに巨大蛇を首に巻いてみたいと言った時も、大真面目にそれを実行しにいった。
 もっとも、それが成功したかどうかはまた別の問題であるけれど。
 だから今回もまたぼくは心の底から本気だったし、何より今度ばかりは時間をかけてじっくり考えたことだった。
「ぼくは海外に、金を掘りに行こうと思うんだ」
 カリフォルニア、コロラド、ビクトリア、トランスバール、クロンダイク。
 世界のあちこちに眠る黄金の輝き。
 いまだ人の目に触れていないそれらは、ぼくに掘り出されるのを今か今かと待ちわびているのだ。
 それをどうして見過ごすことができようか!
 胸躍らせるぼくを、麗華さんは呆れ果てたような冷めたい目で睥睨する。
「なんであなたに金なんて掘る必要があるのよ」
「必要があるかどうかが問題なんじゃないんだ。大切なのはそこにロマンがあるかなんだよ!」
 19世紀半ばのゴールドラッシュから人々はずっと黄金の夢を追いかけ続けている。
 古今東西、黄金探しほど人の心を掻き立てるロマンもないだろう。
「馬鹿馬鹿しい」
 だけどスウィートハートはあっさりと一言のもと切り捨てた。
「金なんて掘らなくても、あなたは充分お金持ちじゃない」
 うん、それは否定しない。
 ぼくと言う人間をしっかり理解してくれている彼女の言葉に、ぼくは嬉しくなってこくこくとうなずく。
 確かにぼくはお金持ちだ。
 父は世界で500番内に入るぐらいの資産家で会社をいくつも経営しているし、ぼく自身もそこの大株主。将来は会社を継ぐようにと口をすっぱくして言われている。
 だけど残念ながらぼくはそういった即物的な価値よりも、目に見えないロマンや夢や愛などといったものを大切にする人間なのだ。
「つまりね、マイスウィートハート。重要なのは、金を手に入れることじゃない。金を探し出すと言う行為自体に意味があるんだよ」
「世の困窮した人が聞いたら袋叩きに合いそうなご高説ね」
 所詮は金持ちの道楽だと麗華さんはつまらなそうに吐き捨てる。
 そしてうんざりしきった態度を崩さないまま、「それで?」とたずねてきた。
「それでって、どういうことかな?」
「いったいいつまでその馬鹿げた遊びをするつもりなのかっていうこと」
 首を傾げるぼくにぞんざいな口調で答える。
 そこにはぼくの突拍子もない言動には慣れきり、多少のことではもはや動揺もしないという愛情に満ち溢れた態度が見て取れる。
 だからぼくは顔中を笑顔にして答えた。
「少なくとも十年間」
 麗華さんは途端に顔をしかめ、眉間に皺を寄せ怪訝そうな表情を浮かべた。
「……はぁ?」
 そんな表情も愛おしくってぼくはニコニコしていたけれど、麗華さんは理解できないとばかりにぐしゃりと髪に指を突っ込んだ。
「なに馬鹿なことを言ってるのよ。そんなこと無理に決まってるわ」
「やってやれないことはないよ。この世の中、夢とやる気と金と時間さえあれば、大抵のことはなしとげられるんだよ!」
「……まぁ、それは確かにそうでしょうけど」
 麗華さんは餅を食べたら紙粘土だったと言うような顔でうなずくけれど、再び首を横に振った。
「だけどやっぱり無理よ。あなた、お父様の会社はどうするつもりなのよ」
「ぼくが会社の経営に向いていないのは、誰よりも麗華さんが一番分かってるじゃないか」
 満面の笑顔のまま、ぼくは肩をすくめ両手を広げる。
「ぼくがパパの跡を継がなくたって、ぼくよりもよっぽど経営者に向いている人はいっぱいいるよ。その人がきっともっと会社を大きくしてくれるはずだよ」
 むしろぼんくら息子が相続を放棄することで大喜びする人間の方がずっと多いだろうと、ぼくは口には出さずに考える。
 麗華さんは眉を顰めたままぼくをじいっと見ていたけれど、やがてぽつりと言った。
「……あなた、本当に本気なのね?」
「ぼくはいつだって本気だよ。スウィートハート」
 ぼくははっきりとうなずく。
 麗華さんはそれでもまだぼくを真っ直ぐに見ていたけれど、やがて小さくため息をついた。
「あなた……何だかんだ言って、やると言ったことはいつも必ず実行してきたのよね」
 そしてもう一度大きくため息をつく。そこには諦めきったと言わんばかりの表情がありありと浮かんでいた。
「悪いけど、あたしはあなたの道楽に10年間も付き合うことはできないわよ」
「うん。それは分かっているよ。だからパパには、ぼくの方から婚約を解消する旨を伝えておくよ」
 そして、次こそが何よりも重要な部分。
「これはぼくの一方的なわがままだから、現在継続中の取引についても将来の融資の約束についても打ち切ったりしないようにしっかりと頼んでおくから」
 ぼくの言葉に、麗華さんはほんの僅かにほっとしたような様子を見せた。ぼくはにこにこと笑みを浮かべる。
「ああっ! ごめんよ、マイスウィートハート。君との愛よりも自分の夢を選んでしまった愚かなぼくをどうか許しておくれ」
「はいはい、どうでもいいわよ」
 彼女の前に膝を着いて両手を広げるぼくに向かって、彼女はおざなりに手を払う。
 ぼくの熱意溢れる謝罪の言葉をうんざりとした顔で聞き流していた彼女だったけれど、最後の最後にぼくに視線を向けた。
 そこに浮かぶのは蔑むような馬鹿にするようなうんざりしたようないつもの冷笑ではなく、苦笑いにも似たどこか優しい笑みだった。
「あなたは本当に馬鹿よね。だけど、あたしはあなたの金持ちの癖に嫌味じゃない馬鹿っぽさが嫌いじゃなかったわよ」
「ぼくも麗華さんの歯に衣着せぬ容赦ない言動が大好きだったよ!」
 彼女は本当に心底呆れ返った顔をすると早々に踵をめぐらす。ぼくはその背中に向けて大声で叫んだ。
「グッバイ、スウィートハート! ぼくのことは忘れて、どうか幸せになってちょうだいね!」
 麗華さんは背を向けたまま一度だけ手を振ると、そのまま振り返ることもなく去って行く。
 そしてぼくはその後姿をいつまでもいつまでも、視界から消えてなくなるまで見送った。











「Good-bye, sweetheart...」

 やがて、ぼくはぽつりと呟く。
 そう、これで良かったんだ。
 ぼくは今にも張り裂けそうな胸の痛みを堪えてうなずいた。
 親同士が決めた婚約者だった麗華さん。
 技術が欲しかった父の会社と経営難に陥っていた彼女の家の会社。金勘定のためという即物的な目的だけで取り交わされた政略結婚の相手。
 だけどぼくはひと目で彼女に恋に落ちた。
 凛とした眼差しが綺麗で、口は悪くても、絶対に嘘はつかない麗華さん。
 ぼくがどんなに突拍子もないことを思いついても、彼女はそれを無理にやめさせようとはしなかった。呆れ果ててもけして途中で見放したりはしなかった。
 だからぼくはますます彼女が好きになった。
 責任感の強い彼女はこの婚約をやめたがったりはしなかった。けれど彼女が本心ではぼくとの結婚を望んでいないことは分かっていた。
 何より彼女には別に愛する人がいたなんてこと、ずっと彼女だけを見てきたぼくにはお見通しだった。
 だからぼくは彼女に別れを告げることに決めた。
 誰よりも愛しい彼女のために。
 ぼくの胸は引き裂かれるように痛むけど、だけど何よりもこれが一番良い選択だったんだ。
「それにぼくには黄金が待っている!」
 カリフォルニア、コロラド、ビクトリア、トランスバール、クロンダイク。
 まだ見ぬ麗しき黄金の輝きが、今か今かとぼくを待ちわびているのだ。
 だからさよなら、愛しい君よ。
 僕は君に出会えて本当に幸せだった。
 果たして十年でこの恋を忘れられるかは分からないけれど、ぼくは自分がけして後悔なんてしないことを知っていた。

「Good-bye, sweetheart !」

 黄金の地に繋がるこの青い空を見つめて、ぼくはもう一度にっこりと笑みを浮かべた。
 


【終】

 

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