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++ 黄昏博物館 ++

 

 閉館時刻も間際に迫る博物館。
 吹き抜けのホールはガラス張りで、日中であれば青い空を背景に明るい日差しがさんさんと降り注ぐことだろう。
 けれど今は夕暮れ時で、室内にこぼれ落ちるのは太陽の最後の光だけ。
 直接陽光が触れない配置になっているため、斜めに差し込む赤い光は、展示物の直前で足を止める。
 祝日や休日、あるいはなにか大きなイベントが開催されていれば、たとえ閉館間際であっても建物は賑わい、人の流れも途切れることはなかっただろう。
 だが平日の常設展示場は、まるで時間の流れから取り残されたように人のざわめきや靴音、それどころか生きるものの気配さえも失っていた。
 それは、いささか不自然なほどに。
 だがそんな静謐な空間の中で、ふいに誰かの話し声が聞こえてきた。
「ようするに、おじちゃんは今いくつなの?」
「ふむ、それはなかなか難しい問題であるな」
 耳を澄ませば、それは甲高い――たぶん年端も行かぬ少女の声と、しわがれた老年の男の声。
 二人分の声はなにやら奇妙な会話を繰り広げている。
 あるべき時間の流れからほんのわずかにずれてしまった、そんな不思議な空間での会話を――。
 
 
「おじちゃんはパパよりもずっと歳をとっているの?」
 自分よりもずっと大きなその影に、愛らしい少女の声は無邪気に問い掛けた。
 保護者とはぐれたらしいその声の主。
 だがそんな事など意に介せず、気が付けば傍にあった巨大な影に戯れに掛けた声に思いがけない返答があったときから、その会話は続いていた。
「ぬしの言う『パパ』とやらが誰の事を指すかにもよるが、ある意味ではそうであるな」
 古臭く芝居がかった喋りかたはどこか滑稽に響きさえする。
 それでも返ってくる声は朴訥としまた誠実であった。
「おじいちゃんと同じくらいに?」
「いやいや、もっとである」
 肯定する声に忙しく問いが重なった。
「じゃあひいおじいちゃんと同じくらいお年寄りなの?」
 飽くまで純粋なその疑問に、低い声は困ったように唸った。
「うぅむ。果たしてどう話せば正しく伝わるかのう」
 幼いこの声の主が理解できるように話すことは、普通に語るよりもずっと難しいだろう。
 例えば魚に空を飛び、鳥に地を潜ることを教えるようなものだ。
 けれども彼はおもむろに頷いた。
「極めて面倒。だが我輩のながき眠りの間に生じたうたかたの目覚めに、偶然居合わせたこの妙縁。ならば意味を成さずとも、誠意を見せるのもまた一興か」
 諦めたような面白がるような、それでいて空虚な独白。
 素直に相手の言葉を待つ幼き影と、口を閉ざして言葉を探す巨大な影。
 姿形もその身が刻んだ年月も、大きく掛け離れた両者の間にしばらく同じ沈黙が落ちた。
「そうさのう……」
 やがて、枯れた声は過ぎ去った日々をゆっくりと語り出す。
「我輩がこの世に生れ落ちたのは、おぬしが生まれるよりずっと昔だ」
 懐かしさを滲ませた声はホールにぽつりと落ち、波紋のごとく広がった。
「その時代、世界は青臭く、泥臭く、猥雑で、――そして活気と熱に溢れていた。現在の小奇麗に薄っぺらく整った世界とは比べ物にならないくらいに、力強く、豊かで魅力的な場所だった」
 そこはけして安全ではなく、弱きものは強きものに喰らわれる弱肉強食の世界。
 暴力があり、野蛮であり、危険であったけれど、それでも燃え滾るような活力が満ちていた。
 彼にとっては、懐かしい生まれ故郷だ。
「だが刻は無情にも過ぎ去り、かつての原形を留めるものはほとんど無い。冷え切った世界を前に我輩の仲間もそのほとんどが塵と消え、ほんのわずかなもののみが、ほれ。このように膨大な時間の流れに取り残されておる」
 老いた声が語るそれは、もはや神話にも残らない過去の時代のこと。今この地上に生きるものは誰も見たことがない、感じる術もない世界のこと。
 追憶にふけるようにただ淡々と零れ落ちる言葉の数々を、幼い影はどうにかすくい取ろうとしていたが、それはまだこのものには難しかったようだ。ついには諦め、簡潔な感想を吐くにとどまった。
「じゃあ――おじちゃんはとっても長生きなのね」
「この身が生きていると呼べるのならば、あるいはそうだろう」
 彼は自嘲するように、剥き出した鋭い牙に笑みをやどした。
「この牙が柔らかき肉を裂き、熱き血を啜っていたのも今となっては遠い陽炎のようなもの。とうの昔に滅び去り、ただ朽ち果つるを待つこの身には、生きるという情動はいっそ滑稽なものでしかないであろうぞ」
 幼き影は真剣に老いたその声に耳を澄ませていたが、ふいにその首がかくんと傾く。
「ねぇ。その『生きる』って、なぁに?」
 その言葉に彼はがらんどうそのものの眼を大きく見開いたが、やがてくつくつと堪えきれない笑いが感嘆のようにその口からこぼれた。
「――ああ、幼くいとけなき魂よ。種としても、また個としても若く未熟な、生まれたばかりのお主には死という概念どころか生そのものさえも理解できぬか」
 視線を足元に下ろしたまま、しかし老いた声は呟いた。
「だが、それもまた良し」
 疲れきったように枯れ果てたその声からは、どんな情動も見出せない。それはただ、うつろに響くだけだ。
「生を消費することでしか生を理解できぬこの矛盾。明日をも知れぬおぬしだが、もし運よく長い長い時を経ることがあれば――やがて知ることになるだろう」
 膨大な時間の流れに取り残され、ガラス越しの世界を孤独に眺めるようになって初めて気付く。失ってしまったものの存在と、その途方もない大切さに。
 抑えがたき思慕の念にも似た身悶えするほどの想い。
 それこそが郷愁、――追憶と呼ばれるもの。
 その意味を正確に理解することはできずとも、若く未熟な魂は目の前の巨大な影にその片鱗を感じとったのかおずおずと尋ねる。
「おじちゃんも、そうなの?」
「無論」
 声は強く、雄々しく、雄大に、そして悲しくうなずいた。
「なんと気高き孤独。人混みに呑まれ、ただ呆然立ち尽くしていても――うつろとかした胸の奥で、我輩はひっそりと夢を見るのだ」
「どんな夢?」
 幼き声はたずね、老いた声は答える。
「古い世の夢。誰も知らない空の色――青い太陽、緑の月」
 今でも頭蓋の裏に映し出されるのは、過ぎ去った時代の象徴。 すべてのものに可能性があり、時代そのものがその可能性を糧に生きていた。
 あらゆるものが希望に満ち溢れていたとき、世界はもっと青々しく力強く照り輝いていた。
 逆に言えば、可能性を食い潰すことで世界は未来へと進んでいったのだ。
「ああ、なんと憎らしきかな」
 ふいに、まるで轟きのように低い声が咆えたける。
「見よ。あの真っ赤に燃える太陽を――。あれこそが我輩たちの可能性を喰らって育った背徳の木の実。熟れすぎて朽ちかけた甘い果実よ!」
 天窓から注ぎ込む黄昏の光は、冷たい床を赤く染め変える。さながらそれは熱く滾る血の海のように。
 だが、彼の罪人を糾弾するかのごとき慟哭はとうとつにやんだ。
 空虚に響く声は疲弊と諦念を伝える。
「――されどそれすらも、今となってはすでに亡き世界の幻でしかない。ゆえにもはやこの世界に、我輩どもの生きる場所はないのであろう」
 だが、それでもまだその声は死んではいなかった。
 遙かなる未来、それこそ神話の時代を千度も繰り返すほど遠い世界に。
 また彼らが栄える時代が来るかもしれない。
 それはなんと途方もない、果てしのない宿望だろうか。
 けれど、彼は確かに知っていた。長い長い星霜の海を超えて――、彼ら原始の魂はいつの日にか確実に甦ることを。
「だから我輩はそれまで大人しく眠ろう。どれほど時が廻ろうと、それだけはけして変わらぬ闇を見ながら。そして――いつか訪れる解放の時を待つのだ」
「解放のとき?」
 太古の時代から存在し続けるいにしえの魂は微かにうなずいた。
「熟れすぎて朽ちかけた真っ赤な果実を喰らいつくす、その瞬間を――」
 時間切れを示すように、すっと太陽が地平線の下に落ちる。
 それきり、老いさばらえた声は完全に途絶えた。
「おじちゃん?」
 ただ一言、幼き声が呼びかけるが、それは彼の目覚めを誘うものでなく。
 ふいに吹く強い風が天窓の空を雲で覆い隠すとき、やがてその声もひそやかに絶えた。
 

 
   *   *   *   *


 
 ふいに光の帯が壁を薙ぐ。
 明かりを手にした博物館の夜警員は、何者かの気配を感じてそのフロアーに入っていた。
 残り香のような微かな気配の残滓。
 誰か閉館時にでも取り残されたかと思い周りを見回すが、そこには人影ひとつ残っていない。
 やはり誰もいないと改めて確認した夜警員は、かつんかつんと足音を響かせながら立ち去っていく。
 やがて空を覆っていた雲が途切れると、月の光が天窓からフロアーに注ぎ込んだ。
 不思議とどこか碧みがかった月の光が照らし出すのは、巨大な恐竜の骨格標本と、誰かが置き忘れていったのであろう少女の姿を模した小さな人形であった。

 

 

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