結局は一種の事故だった。
それはまさに交戦の最中の出来事だったが、男の直接の死因となったのは戦ではなく崖から転落したことだった。
戦争と言いきってしまうほどには大きくなく、せいぜい集落同士の縄張り争いとでも評するべきその戦い。それでも紛れもなく戦地と呼べるそこに身を置いていた男は、一方でけして争いが好きなわけではなかった。
これまでも仕方なしに戦いに参加したことは幾度かあったが、積極的に人を傷つけたことは一度もない。周囲から役立たずと呼ばれようとも、男はいつだって大人しく逃げ回ってばかりいた。
だがその時ばかりは、そうした行為が裏目に出た。
狭い足場を逃げ回っているうちに、うっかり足を滑らせてしまったのだ。しかも運の悪いことに、その手には無理やり持たされていた槍を握ったまま。だから崖を転げている間に、男は槍の穂先を自分の腹に深々と突き刺してしまった。
やばい、と瞬間的にそんなようなことを男は思った。これでは確実に死んでしまう、と。
その判断には実に妥当なものであり、仮にすぐに仲間に助けられたとしても、もはや男の傷は彼らの知識では手の施しようがないものだった。
そういった訳で、崖を転げ落ちながら男が自らの意識を手放したのも、ごく自然の成り行きだった。
+ + + + +
――そして現在。
おもむろに着ていた服の裾を捲り上げ、男は自分の腹を撫ぜ擦った。けれど槍が刺さった跡どころか、崖を落ちた際に負ったはずの傷さえもどこにも見当たらなかった。
(おかしい。なんだかまだ――死んでいないみたいだぞ……?)
そんな事を考え、男は首を傾げた。しかも着ている物だっていつの間にか変わっている。
まとっているのは生まれて始めて触れるような真っ白で柔らかい衣だし、それどころか今いる所だってまったく知らない場所だった。周囲の壁は見たこともない滑らかな材質でできているし、天井からはまるで真昼の太陽のように暖かい光がふんわりと降り注いでいる。
(ここはどこなのだろうか)
男は呆然と思った。
ここは自分の理解を大きく超えている。それなのに喚いたり慌てたりもせずに、すっかり落ち着き払ってしまっている自分がいっそう不可解だ。
男がただひたすらに困惑していると、何の前触れもなく壁の一方にぽっかりと穴が開いた。
ぎょっとする男の目の前で、穿たれた壁の穴から一人の女性が現れる。ここに来て初めて出会った人間だ。しかし彼はただの一言だって、声をかけることはできなかった。
それはあまりに不思議な女性だった。
顔の造作は彼が馴染んだ仲間のそれとはだいぶ雰囲気が違っていたし、きらきらと光を弾く太陽のような色の髪や深い空色の目、そして身にまとった裾の長い白い服などがなんとも美しく印象的だった。
「気付かれたようですね」
男に目を止め、そうやって尋ねてくる声もまたたいそう奇妙なものに男には感じられた。
言葉はまったく聞きとれないのに、その意味が自然と思い浮かぶ。それはまるで頭の中に直接会話を注ぎ込まれているようだった。
いったい何が起こるのだろうか。ビクビクと怯える男に女性は穏やかに微笑み、告げた。
「ようこそ、天の国へ。私は天の使いです」
彼はぱちくりと目を瞬かせる。
その単語自体は理解できた。しかしそれが何を示しているものなのかはさっぱり理解できない。
きょとんとした顔をする男に、天の使いは首を傾げる。
「もしかすると天国が、お分かりになりませんのですか?」
不思議そうにたずねる使いの言葉に、彼は正直にうなずいた。
使いはわずかに怪訝そうな様子を見せたが、それでも丁寧な態度を崩さずに男に対して説明を口にした。
「天国はとても素晴らしいところです。美味しい食べ物も薫り高い酒もいくらでもあります。働く必要はなく、誰もが楽しく自由に暮らせます」
天の使いの口から滑らかに発せられた言葉に、彼は驚きを隠し切れずもう一度眼をぱちくりと瞬かせた。
あまりに突然のことに、何が何だか分からない。
何故か傷はなくなってしまっているが、この腹に槍が深々と刺さったのを確かに自分は覚えている。だから自分はすでに、死んでしまっているはずではないだろうか。
そう考えを廻らせる男の気持ちを察したのだろう。使いは穏やかに頷いた。
「ええ、その通りです。あなたは確かに一度亡くなっております。けれどあなたの魂はとても善良で清らかだったので、天の国で新しい人生を送れるよう、特別に取り計らわれたのです」
あなたはこれまでに誰ひとり殺したことはありませんでしたでしょう。そう問われ、彼はおずおずとうなずいた。
むしろ戦争ではまったくと言っていいほど役立たずだったため、仲間たちからはたいそう呆れられてもいたものだ。そうやって考えた時、彼ははっと思い至って慌てて使いにたずねた。
「な、仲間も――、」
そんな素晴らしい所ならぜひとも戻って仲間たちを連れて来たい。彼はそう思ったのだ。
しかし、天の使いはそれを聞くや沈痛な面持ちで首を振った。
「残念ながらそれは叶いません。一度この国に来た者は、けしてもと居た場所に戻ることはできないのです」
じゃあせめて、妻子に自分は元気でここに居る事を伝えたい。男はそうも考えたが、やはり使いは首を振った。
今まで生きていた世界とは二度と関われない。それが天国の覆せない摂理なのだと言う。
それゆえ、自分はもう二度と妻子にも仲間にも会うことはできない。
それが分かってうなだれる男に、天の使いは慰めの言葉を掛けた。
「もちろんその人たちがこの先慎ましく善良に生きていれば、ここに呼び寄せられる事もあるかもしれません」
もっともそれは男の耳にもあきらかな気休めの響きを帯びていた。
天の使いは困ったように男を見ていたが、やがて小さく息をついた。
「これからどのようにこの国で生きていくか、後ほどまたご相談いたしましょう。今はどうぞゆっくりと休んでください」
天の使いはそう彼に言い残して、静かに部屋を立ち去っていった。
すっかり消沈した男はその後姿をじっと目で追っていたが、さして間も置かぬうちに、何かを決意したように立ち上がった。
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