埃一つ落ちていない、鏡のように磨き上げられた廊下を彼はひた歩く。
床も壁も染み一つなく、眩しいくらいにどこまでも白い。
継ぎ目のない固い床は普通に歩けばコツコツと足音が響き渡りそうなものだが、今履いているのは布靴であるから、足音は自然と消えていた。これは入院患者が着る検査衣のような服とともに先方から渡されたものだ。
靴も服も紙のようにかさかさとした肌触りの悪い薄っぺらな生地でできており、入室前に浴びせられたシャワーで油気を失った彼の肌を絶え間無く刺激している。
こうした神経質なまでの念の入れようは、病院どころか細心の注意のもとに管理された細菌研究所を思わせ、この建物がどこまでも衛生に気を遣っていることがうかがえた。
「あのスープは、本当にこの先で作られているのか?」
彼は耐え切れず自分を先導する男の背中に向けて尋ねる。
「ええ、そうですよ」
男はちらりとこちらを見て答えた。男が身に纏っているのは廊下と同じくらい白いコックコートだったが、見ようによっては研究者が着るような白衣にも見えた。それはやはりこの建物の雰囲気に影響されているのかもしれない。
コックコートを着た男に先導される彼の名を真壁一郎といった。今は検査着に似た服のみを身に纏っているが、彼もまたコックである。いや、彼こそが一流の料理人であるといって過言ではないだろう。
「あなたのような食を極めた方をこの場にお呼び出来ることは、我々にとっても喜ばしいことです」
「そうか」
世辞とは思えない褒め言葉にも、彼は愛想無くうなずく。それは彼の心が現在別のことで占められているからに他ならなかった。
数週間前、真壁のもとに小包が届けられた。
一流の料理人である真壁は食材にも一方ならぬこだわりを持っており、真壁のもとには世界中から数多くの食材が届けられる。真壁はそれを自ら吟味していたが、さすがにすべてを確認できる訳ではない。しかしその時の真壁はなにかに引き寄せられるように、その小包を手にとっていた。
そこに入っていたのはほんの一口分しかないスープだった。
試食の依頼にしてはあまりにも量が少ない。訝しんだ真壁だったが、厳重に密閉された容器を開けた瞬間言葉を失った。
そこから立ち上るあまりにも芳醇な薫りに圧倒されたのだ。
何者かに操られているかのように、真壁は堪えがたい衝動に付き動かされそのスープに口をつける。そして頭を強く殴られたかのような衝撃を受けた。
それはあまりにも素晴らしい味だった。当代随一の料理人として世界各国の美食を食べてきた真壁が、人生のうちで口にしたすべての料理と比べても比較にならないと感じるほど突き抜けて美味いスープだった。
もっと飲みたいと真壁は本能的に望んだが、その甘露はあっという間に喉を通り越した。もう一口だけでも味わいたい、その味の秘密を吟味したいという欲求は虚しく真壁の胃を蠕動させるだけだった。
満たされない欲求は真壁を絶望の淵に突き落とした。ショックのあまりしばらく料理に手がつかず、食事も喉を通らないほどだった。
だがそれから数日後、げっそりとやつれた真壁のもとに今度は一通の手紙が届いた。
それはいくつかの条件と引き換えに、好きなだけあのスープを飲ませてもいいという願ってもいない申し出だった。
「あのスープを作った人間は、料理を食する姿勢にも随分とこだわりを持っているようだな」
あのスープの味を、香りを思い浮かべるだけでいてもたってもいられなくなる。そうした焦躁をどうにか落ち着かせようと、真壁は案内役の男に話しかけた。
「ええ、我々は最高の状態であのスープを飲んで頂きたいと思っておりますから」
今度は振り返ることもせず、男は淡々と答える。
真壁がスープにありつくために課せられた条件の一つが、数週間にも及ぶ食事制限だった。味の濃いもの、肉料理は最小限に抑え、アルコールと煙草は厳禁。もっとも真壁は大の嫌煙家だったため禁煙はまったく問題がなかったが。
こうした食事制限の徹底は、身体のコンディションを最上に保つことで繊細な味のすべてを正確に感じ取れるようにするためだろうと真壁は予想していたが、それはおおよそ当たっていたようだ。
「それはあなたも同じだと聞き及んでおりますよ。真壁様」
うやうやしく男に尋ねられ、真壁はうなずく。
真壁も同じように、食と健康は切っても切り離せないものだと考えていた。 医食同源という言葉もあるが、体調が万全でない時には真の美味は味わえない。同時に美味を食し続けていれば自然と体調は良好になると言うのが彼の持論だった。
それを自ら証明するように彼は生まれてこの方、大病どころか風邪すらも患ったことがない。
「そんなあなただからこそ、我々はあなたを選んだのです」
わずかに振り返ってそう話しかける男の声はどこか浮足立っている。それは真壁を見出だした自分自身を称賛しているようにも聞こえた。
廊下はどこまでも果てがないように感じられた。真壁は男の背中越しに廊下の奥に目をこらす。
歩きはじめてどれだけたっただろう。窓も装飾もない単調な廊下だから時間の経過が計りづらいが、もしかするとまだ数分しかたっていないのかもしれない。しかし真壁は男を押しのけて廊下の奥に、あのスープの元へ駆けて行きたい衝動と戦っていた。それを堪えていられるのは、ひとえに自分が世界最高峰の料理人であるという自負が彼を支えていたからに外ならない。
「あのスープはいったいどういったものなのだ?」
真壁は男に問い質す。
真壁には己こそが最高の料理人であるという自信がある。自分の作る料理が一番美味いという自覚こそが、一流の料理人である証だと考えていた。
そんな自分が、他人の作ったスープにあそこまで心を奪われるのは不徳の致すところ。かくなるうえは、あれを上回る最高のスープを作りあげ、自分の舌にやはり最高の美食とは自分の料理であると教えこまなければ。
真壁はそのためにも料理人としてのプライドに賭けてあの神秘のスープの謎を説き明かすつもりだった。
「いったいどんな材料を用いれば、あのような味を生み出すことができるんだ」
真壁は再度男に尋ねた。まるで聞こえていないように口を閉ざしていた男だったが、しばらく経ったあと、ふいにぽつりと言葉を返した。
「材料についてはお答えできません」
試しに尋ねてはみたものの、回答が得られないのは当然だろうと真壁は頷く。世の中には秘伝のレシピというものがやまとある。同じ材料を用いれば寸分の違いもなく同じ料理が出来上がるわけではないが、似た味のものが広まればその料理の希少性が薄れるのは否めない。だからレシピを得られないことは納得した真壁だったが、スープの再現まで諦めたわけではなかった。
真壁には世界の美食を味わってきた敏感な舌がある。たった一口では材料を読み解くことはできなかったが、あともうひと口ふた口、望むままにスープを口にすることが叶えば必ずやあのスープの材料を判別できると信じていた。
「スープの材料はお伝えできませんが、食材に対する姿勢でしたらお話しましょう」
男は歩きながら真壁に話しかける。
「あのスープは材料に非常にこだわっております」
真壁は真剣な顔で男の言葉に耳を澄ました。
「食材は常に新鮮なもののみを用いているのはもちろんのこと、食材がこれまで育ってきた環境、摂取してきた物質にまでこだわっております」
「摂取してきた物質?」
「薬品を与えられていないか、良い餌を食べてきたかということです」
真壁はうなずいた。
彼もまた料理に使う野菜は無農薬栽培にこだわっているし、肉に関しても懇意にしている牧場で、最高の餌を与えられてきた家畜に厳選している。
だがそれはある程度こだわりを持った料理人ならば当たり前にしていることだ。だからそれだけであれほどまで凄まじいスープができるとは思えない。真壁の疑問は深まるばかりだった。
「あれは進化するスープです」
男はぽつりと呟いた。真壁は顔を上げ、先を行く男の背中を見る。
「いったいいつからあのスープが存在するのか、私は知りません。だけれどあのスープは材料を足すごとにどんどん味に深みを増して行く。どんどん美味くなっていくのです」
ほう、と男はうっとりと陶酔するようにため息をこぼす。この男もまたあのスープに魅せられた一人なのかも知れなかった。
男の言葉からすると、ある種の調味料などと同じように代々材料を継ぎ足しながら受け継がれるベースのようなものが、あのスープにはあるのかもしれないと真壁は考えた。そうすると自分ひとりであのスープを再現するのは難しいだろうと真壁は悩む。
だがそうした思いを抱く彼に光明を与えるかのように、男は真壁に告げた。
「良ければ、真壁様もあのスープをより美味しくするため協力してはくださいませんでしょうか」
「もちろんだっ」
真壁は即答する。それこそ真壁にとって望むべくもない申し出だった。
「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」
気付けば真壁たちは廊下の最深部までたどり着いていた。男は突き当たりにある厳重に閉ざされた扉を開ける。
その途端、夢にまで見たあの芳しい香りが真壁の鼻を直撃した。たまらずに真壁は部屋の中に飛び込む。
そこにあったのは部屋一つ占領するほどに巨大な鍋だった。その鍋にはあのスープが満たされている。真壁は吸い寄せられるようにその鍋に近付いていった。側によるとその鍋はますます巨大で、真壁の背丈より大きかった。中を覗き込もうと思ったら、その傍らにある鍋と同じ高さに作られた台に登る必要があるだろう。
「どうぞ、お好きなだけお飲み下さい」
男は真壁に器を差し出す。真壁はそれを受け取り、ふらふらと鍋の傍らの台に登った。台にしゃがみ込み上からスープを覗き込む。僅かに濁りのあるそのスープは黄金色に輝き、えもいわれぬ香りを放っている。
真壁の胃がスープを求めて律動する。口内には溢れんばかりの唾液が分泌された。目はもはやスープ以外のものを捕らえることを拒否していた。
真壁は器にスープをすくって口に運ぶ。舌がスープに触れた瞬間、真壁の全身の細胞が歓喜の咆哮をあげた。
もはやこらえ切れず、真壁は次から次へとスープをすくっては口に運ぶ。その動きは自分でも止められなかった。
スープの材料をつきとめる。これ以上に美味い最高のスープを作り上げる。
そんな決心すら真壁の頭から吹き飛び、ただただスープに没頭する。決意も誇りも、自我さえも溶け落ちる。それは紛れも無く、世界にただ一つの最高のスープだった。
こんな小さな器では足りないと、真壁はついに鍋に直接頭を突っ込みスープを飲みはじめた。その行為は真壁に途方もない喜びをもたらした。
もっと飲みたい。まだ足りない。全身でスープを味わいたい。
それは抑えきれない渇望であり、真壁はもはや我慢できなかった。
真壁はとうとう己の食欲中枢が求めるままに、頭からスープ鍋の中に飛び込んだ。
口から、鼻から、耳から、全身の毛穴から、スープが流れ込む。己のすべてがスープで満たされる。スープと渾然一体となる。
真壁は目も眩むような恍惚の中、スープ鍋に沈んでいった。
三日三晩、スープはくつくつと煮込まれた。
男は慎重に鍋を掻き混ぜ、網でそれをすくいあげる。そこには不要な水分と様々な不純物を取り込みぶよぶよに膨れ上がった灰汁取り紙−−検査衣と靴があった。
「ああ、これでスープにさらに深みが増した」
男はうっとりと夢見るような口調で、芳醇な香りを放つ黄金色のスープの匂いを嗅ぐ。
そのスープがいつからあるのか知らないと、真壁に言った男の言葉は偽りではない。スープはたぶん男が産まれるより前から存在していたのは確かだろう。そして味わいを増すよう進化し続けているのも間違いない。
このスープは生きているのだと男は考えていた。
虫を引き寄せる花のように、堪え難いまでの香りと味で生き物をおびき寄せるスープ。まんまとおびき寄せられた生き物は、煮込まれ溶かされこの至高のスープの一部となるのだ。
だが、それもいっそ幸福に違いない。男はそう考える。
最上の美味をその全身で、生命そのもので味わうことができるのだから。
だからこそ、誰もが自ら望んでスープに身を投げる。自分のように己の意志でスープの進化に手を貸す人間も現れる。これまでと同じように、これから先も代々変わることなく。
「もっともっと美味しくなって下さい。そして限りなく美味しくなった時、私もまた身を捧げスープの一部となりましょう」
この世で最高の美食に身を投じる夢を見ながら、スープに魅せられたその男は、うっとりと類い稀な香りに意識をゆだねるのだった。
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