第一章 エピローグ「運命の歯車は回る」(2)

 

「こんな事は前代未聞です」
 始まりの神殿に仕える神官は、今にも倒れそうな顔色でえぐえぐと涙をぬぐった。
 ここ二週間の心労に加え、三日三晩続いた会議のおかげでかなり寝不足なのだろう。目の下には黒々とした立派なクマが出来ている。
 彼はまるで魂が抜けてしまったのかと思うほど、気の抜けた弱々しい声で決定事項を告げた。
「けれどもうし仕方がありません。時間もあまりないことですし、アウストリ(東の)大陸の代表の方がまだいらしておりませんがこのまま皆さんには出発していただきます」
 結局、どんなに待っても巡礼の最後のひとりは現れはなかった。
 一日、二日と日が過ぎるにつれて神官達の焦りも徐々に増してきた。東の神殿に事の次第を訊ねたくとも、相手は遠い隣の大陸だ。早馬をとばしても丸一ヶ月はかかる。
 話はいろいろとこじれにこじれたようだが、結局神官たちの深夜に及ぶ連日の会議の結果、とりあえずは四人は先に出発することに決まったのだった。
「一人足りなくとも問題はないのでしょうか」
 その決定を受け入れた上で尋ねるゼーヴルムに、もはや白茶けた顔色の神官がふらふらと頭を振る。
「何とも言えませんが今回ばかりは仕方がありませんでしょう。これで良しといたします。その代わりといったら何ですが、あなた方にはまず東の神殿を最初の巡礼先として向かっていただかなくてはいけません」
 本来でしたら巡礼の順序はあなた方が自由に決めるべきものですが、と神官は端から見ているといっそ痛々しいぐらい平身低頭に詫びを入れる。
 それにはもちろん誰一人として異論を唱える者はいなかった。むしろ哀れすぎて仮に反論したくともできなかったというのが本当だ。
 それでも神官は全員からの一応の了承を得ると、ぐぐっと背筋を伸ばし涙をぬぐって彼らに向かって高らかに宣言した。
「では、巡礼を始める為の儀式を行いますので、皆様こちらにおいでください」



 案内されたのはがらんとした聖堂だった。薄暗く蝋燭の灯りだけがゆらゆらと燈るそこは、ぴんと張りつめたような、あるいは厳かな空気が満ちあふれていた。
 本来ならば、聖像や御神体が収められている台座は空っぽで、今は小さな箱がぽつんとひとつ置かれているだけだった。
「この神殿は実は、神を奉る為に建てられたものではありません。太古の昔、この巡礼の仕組みが始まった当初、その出発地点として建てられたのがそもそもの始まりなのです」
 神官はその箱を手に取り戻ってくる。そしてジェムたちの前でふたを開いた。
 その中に在ったのは、透明な石をあしらった五つのペンダント。氷のように無色透明なその石は、しかし光を浴びるときらきらと七色の輝きを放つ。
「まさかデヴァイン・ブレス!?」
「すごい! エターナル・グローリーだ」
 シエロとバッツは同時にそう言い、互いに顔を見合わせた。神官はうんうんと振り子のようにうなずく。
「そうです。これは『神々の祝福(デヴァイン・ブレス)』とも『永遠の慈悲(エターナル・グローリー)』とも呼ばれる秘石です」
「それは聖域である至福の島(イ・ブラゼル)でしか採れないんだろう」
 目を見張ったバッツが食い入るように石を見ている。
 バッツの出身地であるスズリ(南の)大陸はありとあらゆる石が揃う宝石の名産地だが、それでもこのデヴァイン・ブレスだけは手に入れることはできない。それだけ得がたい神秘の石なのだ。
「そうです。これを今から皆さんに授けますが、このペンダントは巡礼使節の象徴であり証でもありますので、けしてその身から離さないで下さい」
 神官が思わず不安そうな顔をしてしまうのは、まあ仕方ないことだろう。
 何せデヴァイン・ブレスという石は、装飾品としての美しさもさることながら並々ならぬ力を秘めた聖石として珍重されている。そのため市場に出れば天井知らずの値が出ると言われているのだ。ふつうならこんな高価な宝石を子どもに預けるなんて、それこそ信じられない話だ。
 だが神官はジェムたちを並ばせひざまずかせると、聖水に浸したそれを一人ひとりの首に掛けていく。
 情けないという言葉をそのまま形にしたような男だが、さすがにこの時ばかりはなんだか立派に見えるから不思議だ。
 それゆえに巡礼の使徒たちはそれぞれ彼に対する認識を改めさせられたのだが、うっかり強面のゼーヴルムとバッツの首にペンダントを掛けるときの神官の指が微かに震えていたのを目撃してしまったジェムは、あえてそれを見てないこととし生涯口をつぐむことを胸に決めた。
 神官は立ち上がった四人をそれぞれ見て順番に呼んでいく。
「では、ギュミル諸島代表、ゼーヴルム・D・ラグーン殿」
「はっ」
 ゼーヴルムはその呼びかけにピシッと姿勢を正す。
「ヴェストリ(西の)大陸代表、シエロ・ヴァガンス殿」
「はいよっ」
 シエロがまるで花のようににっこりと微笑んだ。
「スズリ(南の)大陸代表、シェシュバツァル・フーゴ殿」
「おう」
 バッツはなぜかふて腐れて答える。
「そして、ノルズリ(北の)大陸代表、ジェム・リヴィングストーン殿」
「は、はいっ」
 ジェムは慌てて返事をした。
 神官は今までの喋り方とは全く違う、よくとおるはっきりした声で宣言する。
「五大神殿の名に於いて、あなたがたを第250代目の巡礼者として承認します。この巡礼の旅は重大かつ名誉ある役目です。途中、苦しいことも辛いことも多々あると存じます。ですが皆、それぞれ己に課せられた役割をよく理解し、全力を尽くしてそれに努めなさい。――あなた方に神々のご加護があらんことを」
 神官は胸の前で両手を組み目を伏せると、最後の祈りを奉げた。
 こうして『始まりの儀式』はつつがなく終わった。
 意外なほどに短く、あまりにあっけない儀式。
 けれどそれは同時に、彼らにとって長い長い旅の始まりだった。