第二章 6、「永遠の夜へ続く森」(2)

 

 
 暦の上でも、実感の上でも、春の息吹はすぐそこまで来ていた。しかしそうとはいえ、いまだ夜の寒さは執拗に身を苛む。北の大陸は離れたものの、北部地域の冷え込みはまだだいぶ厳しいのだ。
 南の大陸の、それも砂漠地帯出身のバッツにとっては当然のことながらこの寒さはかなり身に堪える。そんな彼がいまだ弱音ひとつ吐かず平気な顔をして寝られるのは、彼生来の負けん気もあるが何より彼を愛して止まない火の精霊たちが彼を凍えさせまいと冬の冷気より彼を守ってくれているからだった。

 そんな訳でどんな悪天候でも一人安眠をむさぼることのできるバッツなのだが今日はどうにも眠りが浅かった。それどころか火霊が彼の耳元でせわしなくさんざめいている。

「ったく、何だよ。お前ら、騒々しいな…」

 不機嫌そうに眉をひそめ、ごろりと寝返りを打ったバッツだがそこで周囲の異変に気づきとっさに飛び起き叫んだ。

「ちょっと待てっ、一人足りねぇぞっっ!」

 よく通るバッツの声に、歩き疲れてぐっすりと眠っていた面々ものそのそと寝ぼけ眼をこすりつつ首をもたげる。

「どうしたんだい、お小水かい? それとも一人じゃ眠れないのかい?」

 半分目を閉じながらおいでおいでと手招きするシエロをバッツが威勢よく怒鳴りつけた。

「阿呆かっ! とっとと目を覚ましやがれっ。ジェムの奴がどこにも見あたらねぇぞっ」
「それは…、それこそ自然に呼ばれたって奴じゃないのかい?」
「…違うっ、毛布が冷え切っている。居なくなってからもうだいぶ経つぞ」

 寝床に手をつっこみ、深刻な呟きをバッツが漏らしたとき焚き火を挟んだ反対側から少女の小さなあくびが聞こえた。

「何なのちょっと、煩いわよ。いったいどうしたって言うのよ」

 フィオリが眠たげに伸びをする。その横ではスティグマも目を覚ましていた。

「ジェムがいないんだ。ねえ、ゼーヴルムっ、君は何か気づかなかったかい」

 見ると、その夜の焚き火番をしていたはずのゼーヴルムが頭を抑えながら小さくうめき声をあげていた。どうやら彼も今、目を覚ましたようである。

「―――っ。すまない、突然強烈な眠気に襲われて…」
「この、クソ兵士っ! 寝ずの番が寝ちまっててどうすんだっ」
「いや、彼を責めるのはどうやら筋違いのようだよ」

 スティグマはゼーヴルムのそばに転がるカップを手に取りわずかに残った中身を舐める。そしてすぐさまそれを吐き出した。

「やはり…。寝る前に、わたしはジェム君に薬湯を処方したんだ。最近よく眠れないと言うからね。ゼーヴルム君、どうやら君は一服盛られたようだな」

 眠りに着く前、ジェムが彼にお茶を差し出していたことを思い出しスティグマは眉をひそめる。

「…では、ここを離れたのは自身の意思でということか? しかし何故…」

 うなるぜーヴルムの横でシエロがこくんと首をかしげた。

「そういえばねぇ、最近どうもジェムの様子がおかしかったんだよね。元気がないというか、妙におびえているというか…」
「ちょっと待てっ。そりゃいつのことだっ?」

 バッツが目を見開く。

「アウストリ大陸に入ってすぐ位からかな」
「どあほうっ。そういうことはもっと早くに言いやがれっ」
「え、そんなこと言われたって…。気づかなかった時点で君も同罪だろ?」
「そんな理屈が通用するかっ」
「ああ、もうっ。どっちが無茶苦茶なんだか」

 シエロが困ったように頭を抱えた。

「君たち、言い争いをしている場合でないだろう。今は、ジェム君を見つけるほうが先だ」

 スティグマがたしなめるように子供たちを見る。その身は早くも外套をまとっていた。

「確かに遊んでいる場合ではないな」

 ちっと舌打ちをしてゼーヴルム立ち上がった。そしてバッツの方に真剣な眼差しを向ける。

「シェシュバツァル・フーゴ、松明を用意するんだ。どんな暗がりでも照らすことのできる明かりだ。貴様の能力を使えば可能だろう。そうしたらその後はここで待機していろ」

 わずかな反論も許さないその言い方に、当然のことながらバッツは不平を漏らした。だが、

「ジェム・リヴィングストーンが戻って来た場合、皆に知らせることができる者が必要だ。貴様なら火霊に呼びかけて私たちに合図を送ることができるだろう」

 そう言われてしぶしぶと引き下がった。さすがのバッツも不満を言うべき時と場合を心得ているようだ。

「私たちは二手に分かれよう。私とドクターは主にこちらを。シエロ・ヴァガンス、貴様は逆のほうを頼む。どれほど離れているのかは分からないができる限りのことはしなければな」

 それぞれが仕度を整え森へ向かう中、シエロは何気ない仕草で振り返った。そしてうっすらと微笑み手招きをする。

「フィオリちゃん、君は俺とおいで。一緒にジェムを探そう」

 一人その場に立ちすくんでいたフィオリはその言葉にはっと息を呑んで俯いた。その顔は苦渋の表情に色取られている。だがしばらくの間唇を噛み締めていたものの、彼女はやがて意を決したようにシエロについていった。その足取りにもはや迷いはなかった。

 そして彼らは夜の森へと足を踏み入れた。







   ―――あの日も、闇の深い夜だった。

 十二の誕生日を迎えた夜。級友たちとはしゃぎ、何の不安も不自由もなかった、生涯でもっとも恵まれていた日。
 浮かれはしゃぐ友人たちとの交流もひと段落つき、騒ぎすぎて火照った身体を冷やすために外に出た。そして、何かに呼ばれたように夜明け前の深い闇を歩きだした。

 何故、そうしてしまったのか、
 何故、おとなしく部屋の中に閉じこもっていなかったのか
 だが仮にそうしていても、そのことに意味があったのか

 何もかもがもう分からない。

 だが、少なくとも自分はそれから


 ――――この世の地獄を見たのだ。






 ふいに意識が戻った瞬間、全身を激しい痛みが襲った。
 指先を震わせただけでも激痛が走る。神経をむき出しにしたような苦痛に、ジェムは訳も分からずうめき声を上げるしかなかった。
 しかしやがてはそんな痛みにも慣れ、どうにかまぶたを押し開くことに成功した時、ジェムは思わずぱちくりと瞬きをしてしまった。
 いかにも野宿の最中であることを物語る様々な道具類。赤々と燃える焚き火ではポットがコトコトと煮立っている。焚き火とジェムとの間には一人の人間が彼に背を向けて座っていた。
 そのあまりに長閑な光景に、何故自分がここに横たわっているのだろうかとジェムはすっかり混乱してしまった。
 だがそのとき、その人の髪が焚き火の光を透かして金色に輝いた。

「シエロさんっ!?」

 ジェムとしては思わず声を張り上げたつもりだったが、結果としてはヒューヒューと漏れる息にかすかに混じっただけだった。
 だがそれでも焚き火の前の人物はその声をしっかり聞き取ったらしくゆっくりと振り返った。

「おや、どうやらオレを誰かと勘違いしたみたいですね」

 振り向いたのは当然のことながらシエロではなかった。同じ金髪でもその人はシエロの月光のような金色とはだいぶ異なり、色褪せて白茶けた色をしている。瞳も青というよりは冴えた水色だ。ただどことなくシエロと似た雰囲気も感じるので、きっと彼もまたヴェストリ大陸の人間なのだろう。黒い服を身にまとった、おとがいの細い痩せた男だ。

「ああ、あんまり無理はしないほうがいいんじゃないですか。あんなところから落ちたんだし」

 男がしゃくって見せた先は崖と呼んでも差し障りないほどかなり急な斜面である。ジェムはようやくにして自分がそこから転がり落ちたことを思い出した。よくぞあんなところから落ちて命があったものであると、ジェムは今更ながら顔を青ざめさせた。
 しかし今まで痛みばかりに気を取られていたのだが、よく見れば全身各所にきちんと手当をされた跡がある。どうやら目の前の男性がしてくれたようだ。

「あ、ありがとうございます…」
「ありがとう、ね。それ、単なる応急手当ですからあとでちゃんとした医者に見てもらったほうがいいですよ」

 ジェムがお礼を言うと男性は肩をすくめてみせた。

「ああ、けどこれはなかなか驚きましたね。いきなり上から人が落ちてくるなんて思ってもみませんでした。もしかするとあれですか? 山賊にでも追われていたとか」

 追われる。

 その言葉に、ジェムははっと自分の立場を思い出した。
 こんな所でのんびりしている場合ではない。
 あわてて身を起こし立ち上がろうとしたのだが、膝を着いたところでジェムは無様にも地面に崩れ落ちた。

「おや。どうしましたか」

 ジェムの様子を見て男は呑気に首をかしげる。

「あなたの怪我はあの高さから落ちたにしては奇跡的に軽いものですが、受けたショックが大きいですからね。まだしばらくは動けませんよ」

 だがジェムはそれでも何とか立ち上がろうともがく。下手をすれば何の他意も無く自分を助けてくれたこの親切な人すら巻き添えにしてしまうかもしれないのだ。それだけは何としてでも避けたかった。

「なんだかよく分かりませんが、止めておいたほうが賢明じゃないですか。それとも、あなたは本当に誰かに追われているんですか」

 ジェムは動きを止めて男性を見た。
 せめて自分を置いて男性だけでも移動してもらうか。そう思ったジェムだが、彼はしたり顔でうなずいた。

「ああ、なるほどね。しかし安心していいですよ。この近辺にはオレたちの他には誰もいませんから」
「でも…」
「オレはこれでも用心深いというか気の小さい性質でしてね。そのせいか半径三百メルトルなら人が近づいてくるのが分かる、というおかしな特技を持っているんですよ。だからもしも何者かがやって来たらその時はちゃんと教えて上げますので、それまでは大人しく寝ていたらどうですか」

 淡々としたそっけない調子の声。
 その話が嘘か本当か分からないものの不思議と、ジェムは彼の言葉に逆らうことができなかった。