第二章 6、「永遠の夜へ続く森」(3)

 



「―――あの、あなたはどうして何も聞いてこないんですか?」

 勇気を振り絞ったジェムは、思い切って男に話しかけた。
 傍らではぱちぱちと赤い火の粉がはじけている。夜空に燃え立つ焔はくるくると、まるで異国の踊り子のように舞っていた。

 男の言葉に従っておとなしく横になると、それきりジェムと男の会話はぱったりと途切れてしまった。 男はただ黙って火のそばに座っている。
 彼としては単にいつもとなんら変わりなく振舞っているだけなのだろう。だがジェムからすればその場に満ちる静けさは、まるでそこに場違いな自分の存在を無言で責められているように感じられる。
 なにより何も訊ねられず放って置かれるという状態は、ありがたい反面なんとも落ち着かない気分だった。

「ぼくが誰に追われているのかとか…、何で追われているのかって―――、」
「聞いてほしいんですか?」

 何も聞いてこようとしない男への興味もあって、おそるおそる尋ねたジェムは静かな声音に問い返された。

「だったらいくらでも聞いてあげますよ。けれど、あなたは本当にその質問に答えられるんですか」
「―――っ」

 意表を突かれた。
 予想もしていなかった言葉ではあるものの、それはまさしく図星だった。
 仲間にさえ迷惑がかかると何も言えずにいたジェムである。まさか会って間もないこの人にそんなことを打ち明けられるわけもない。これはうかつという以上にむしろ、だいぶ間の抜けた話だった。

  どうしようもなくうつむいて、黙り込んでしまったジェムに男性は肩をすくめた。

「言いたくないのなら、そう簡単に人を試すようなことは口にするものではないですよ」
「…はい」

 弱々しくうなずく。

「うっかり言質を取られてしまうと、後から言い逃れはできなくなりますからね」
「はい、そうですよね…」

 男性のもっともな忠告をジェムはしゅくしゅくと受け止めた。大体答えられない問題を人に訊ねさせること自体趣味のいいことではない。

「それで?」
「えっ?」

 気を落としてすっかりしょげかえってしまっていたジェムは、男性の言葉にはっと目線を上げた。
 男性はけろっとした顔でジェムに訊ねる。

「他に何か聞いてもいい質問はないのですか」

 どうやら自分との会話を続けてくれる気があるのだと気付き、ジェムはぱっと顔を輝かせた。
 そしておずおずとジェムは男性に答える。

「えっと…、名前とか?」
「名前、ね。では改めて聞きますが、あなたは誰ですか?」

 そのもっとも基本でありながら、だからこそなんともとぼけた問いにジェムは思わず相好を崩した。

「ぼくはジェムです。ジェム・リヴィングストーンといいます」
「ジェム? それはなんとも覚えやすくていい名前ですね」

 妙な褒め方をして男性はうっすらと微笑んだ。

「あの、あなたは何といいますか?」
「オレ? オレですか」

 男性はう〜んと首をかしげた。すぐには答えようとせず、戸惑ったように口を開け閉めする。返事をためらうような態度から、彼には何か答えられない事情でもあるのだろうかと心配になったジェムだったが、彼の様子は困っているというよりかは不思議がっているのに近かった。

「オレは確か…、ルーチェ? そう、たぶんルーチェだったと思います」
「えっ、な、何でそんなに自信なさ気なんですか?」

 そのあまりに頼りない返答に思わず目をむく。
 男性はおかしなもので堂々と首をかしげていた。

「オレはね、どうも人間の名前を覚えるのが苦手でしてね。がんばって覚えようとしてもすぐ忘れてしまうのですよ」
「で、でも自分の名前ですよ!?」
「自分の名前なんですけどねぇ」

 ことの突飛さに反比例するように、男性は大して深刻そうでもなく肩をすくめる。そうして唇の片端をにっと吊り上げると、改めて自信たっぷりな様子でうなずいてみせた。

「でも確かにオレはこの名前で呼ばれたことがあるような気がするんで、これがオレの名前だと思いますよ」
「はあ。そ、そうですか」

 呆けた顔でジェムはうなずく。
 何ともとんでもない話だが、本人は別に不自由でもなさそうなので、ならばこれはこれでいいのだろう。

「えっと、じゃあ、ルーチェさんはいったいどこからいらしたんですか? ルーチェさんはヴェストリ(西の)大陸の方ですよね」
「ええ。まあ、血筋は確かにそっちのもんですね。ただオレは根無し草ってやつなんで故郷と呼べる所は無いんですよ。だから、そうだな。この前まで居た街は…、『樹大神殿』って知ってますか?」

 ジェムの心臓が思わず大きく跳ねた。

「樹神ユークレースが祀られている、東の大陸でもっとも大きな神殿ですね。そこの門下街です。そう、ここからだとだいたい六日ぐらい歩いたところに在るんですけれども―――、」
「知ってます…」

 ルーチェの言葉をさえぎり、ジェムはうめくように呟いた。

「その場所でしたら、ぼくは知っています…」


 そこは彼らの次の巡礼地。

 彼らが一番最初の祈りを捧げる神殿。

 その距離は、あとたったの六日間。


「ああ…、そうか。ぼくたちはもう、そんなところまで来ていたのか」

 感慨深げに呟くジェムをルーチェは不思議そうに見ている。その視線を受けてジェムは慌てて説明した。

「あ、その…ちょうど、ぼくたちもそこへ向かっていたところだったんです」
「へえ、それは奇遇だなぁ」

 ルーチェは大げさに眉を動かした。その表情はどことなくわざとらしくなくもない。

「しかし今からあそこに行くとなると、ねぇ―――」
「え? なんですか」
「いいや、こっちのことですよ」

 小さな独白の内容をジェムには告げないまま、ルーチェは猫のように目を細めて笑った。

「しかしジェムさん。あなたは結構お喋りな人ですね」
「ごっ、ごめんなさい…!!」

 ジェムははっとなって慌てて頭を下げる。さっきから喜んだりあせったりと、慌ただしい事この上ない。そんな彼の様子にルーチェは苦笑してから、そうではないのだと首を振った。

「謝って欲しいわけじゃありませんよ。ただ最初の印象ではあなたは人見知りそうに見えたのに、意外と人懐っこくて驚いただけです。オレの第一印象はほとんど外れたりはしないのでね」
「たぶんそれは…、」
「それは?」

 言いよどむ先をおもしろそうにルーチェは促した。ジェムは言いづらそうに視線をあちこちにさまよわせていたが、思い切って言葉を口に乗せた。

「…きっと、ルーチェさんの雰囲気がそうさせているのだと思います」
「ほお、それは光栄ですね」

 顔を赤らめうつむくジェムの前で、ルーチェは唇の端を片方だけ吊り上げた。

「オレは自分の性格を、そう親しみ易い方ではないと認識していたのですが」
「そっ、そんなことはないですよ」

 ジェムはとっさに否定したが、確かに本人が言うように彼はけして気安く話しかけられるようなタイプではないだろう。

 例えるならば、よく切れる氷のナイフ。
 あるいは凍てついた冬の木枯らし。

 しかしいつのまにか、そのどこか素っ気無い距離感にジェムは安心を感じるようになっていた。

「じゃあ、せっかくなんで、その親しみやすさを利用してあなたの気に病んでることを相談してみるのはどうでしょうか」
「そ、それは…」

 ルーチェはまるで食事にでも誘うような軽い調子で持ちかける。だがそれを聞くや否や、だいぶ明るくなっていたジェムの表情がみるみるうちに曇っていった。
 言葉よりも分かりやすい返答に、ルーチェは残念そうに苦笑した。

「やっぱり言えませんか」
「ご、ごめんなさい…」

 うつむくジェムの顔は酷く悲しげなものだった。
 彼は単なる親切心で言ってくれたのだ。なのに自分はその気持ちに答えることができない。そのことがなんともいたたまれなかった。自分がなにかとんでもなく情けない生き物であるようにも思えてくる。

「いえ、謝る必要はありませんよ」

 ルーチェは再びそう言うとしたり顔でうなずいた。

「この場合は言えなくても仕方ないでしょう。仲間にも言えてないことを、多少袖を摺り合っただけのオレに話せというほうが無茶でしたね」

 ジェムはぎょっとして顔を上げた。