町外れの通り。森の奥へと続く小道の傍で一人の少年が足を止めた。 時はすでに真夜中に近い。 ただでさえ人の寝静まるそんな時刻。もとより人通りの少ないその道には細い月に添えるように小さな星灯りが頼りなく瞬くばかりだ。 人の作り出した灯りも少年の持つ洋灯の他どこにも見えない。 彼は一人孤独に深夜の道端に立ち尽くす。 それは酷く心細い光景だった。 少年は辺りを見回すと小さく息を吸い込んで言葉を放った。 「どこかに、いるんでしょう?」 間髪いれずに返事が返ってくる。近いとも遠いとも、男とも女とも判別しがたいその声は、しかしかなり憮然とした響きを持っていた。 「あれから丸二日が経ちましたが、まさか自らおいでになろうとは思っても見ませんでした。今度こそ、覚悟の程はできたご様子ですね」 少年の前に『影』が現れた。 「なぜ、貴方様が逃げ出されたのかは、あえて聞かずにおきましょう。さあ、早くおいでなさい。時間はあまり残されておりませんゆえ…」 しかし少年は差し出された手を取ろうとはしなかった。影は、その目にいぶかしげな色を浮かべる。 「――ぼくは、今まで何も知りませんでした。知ろうとさえしていなかった。ノルズリ大陸がアウストリ大陸を侵略していたことも、スズリ大陸を支配していたことも。ぼくは何ひとつとして、知らなかったんです」 影が眉をひそめた。 (まさか時間稼ぎか?) しかし、今更そんなことをしていったい何になるのか。
「今でこそとても土地の痩せているノルズリ大陸ですが、かつてはそうじゃなかった。アウストリ大陸にも劣らぬほどに緑が多く、それどころか五大陸で最も実りの多い、恵まれた土地だったそうです。―――だけど今はその豊かさを失ってしまった。なぜだか、分かりますか?」 影は顔をしかめるが、ジェムは話を続ける。 「彼らは豊かな土壌を当然のものと考え、過剰なほどに大地を酷使し続けました」 どれほど恵まれた大地でも、土地を休ませることなく収穫を蓄え、際限なく木を切り続ければいつかは限界が来る。農地は地力を消耗し尽くし、乱伐され露出した地面では雨が表土を削り運び去る。 「その結果、春には決まって洪水が田畑を押し流す。雨が降ればすぐ川は氾濫し、種を蒔いても実りは少ない。ノルズリ大陸はそんな土地になってしまったんです」 ジェムは影の言葉を無視して淡々と言葉を連ねていく。 「彼らはそうして自ら大地の恵みを枯渇させたんです」 とうとう影の声が荒立った。 影は奥歯をぎりりと噛み締め、このまま問答無用で攫っていくか。あるいはこちらに従う意思はないとしてこの場で始末してしまうか真剣に考えはじめた。
「…ですがノルズリ大陸の人たち、八大王家は諦めなかった。痩せ衰えてしまったノルズリ大陸を見捨て、次の贄を探した。そしていまだ緑豊かなアウストリ大陸に目をつけたんです」 彼らはそうしてそのまま、それまでとまったく変わらぬ豊かさを搾取し続けた。 これが、東の大陸侵略の全容だ。 「こうしてノルズリ大陸は再び豊かになりました。しかし、これは本当に豊かだといえるのでしょうか?」 ジェムは影を見つめる。ひたとも視線を揺るがさず、その目はまっすぐに影を捉えている。 「ぼくは自分に与えられた豊かさをごく当たり前のものだと思っていました。でも、それは他人の犠牲の上に成り立っている仮初めの豊かさでした。それを知らなかったぼくは、とんでもなく無知でした」 他人が傷つき、悲しんでいることを知らないでいた。 (バッツさん、これがぼくの答えです) ジェムは正面から影と向かい合う。そこにはもはや、不安や怯えは欠片も残っていなかった。 「この世界にはぼくの知らないことがまだまだたくさんあります。その中には学院にいるだけではけして知り得ようもないことも多いでしょう。ぼくは、巡礼の旅を通してそんなたくさんのことを知っていきたい。知っていかなきゃいけないんです」 ジェムは大きく息を吸い込むと、はっきりと自分の望みを口にした。 「だからぼくはあなたと一緒には行けません。ぼくは巡礼使節として旅を続けます」
かつて、同じようにこの影のような使者に向かって正直に自分の気持ちを告げた。
彼はぐっとくちびるを引き結び、睨みつけるように影を見続けている。 「…そうですか」 地を這うように低い声が静かに流れた。 ゆらり。 影が陽炎のように動いて立ち位置を変える。 「それが、貴方様の出した答えですか」 半身となるようにジェムに向き直る。すうっと目が細められた。 「でしたらもう容赦はいたしません。我が主の命により、そのお命頂戴いたします。己の愚考を存分に後悔なさいませ」 影は袖口から一振りの刃を取り出す。それは図らずもあの日ジェムを切り裂いたものとまったく同じだった。 「はい、そこまでー」 背後から突然腕をつかまれた。 「驚いただろ? 気配を隠すのは俺の八つの特技のひとつなんだ」 洋灯を片手に、シエロが影の前に立ちふさがる。 「貴様…っ、いつの間に」 影が鋭い眼差しで彼を睨みつけた。シエロはにんまりと得意げに笑う。 「実は初っ端からいました。でも文句だったら聞かないよ? 気が付かなかった君が悪い」 シエロはジェムを隠すように背後に庇った。 「早々に立ち去られよ、他大陸の巡礼者。これは我が主たるディオスティエラ王家の問題。関わり無き者が口を出すことではない。もし邪魔立てするならば―――、」 影はすっと片足を引き、得物を構えた。ジェムはかすかに不安げな眼差しを彼に向けるが、シエロはそれでもまったく持って強気な態度を崩さなかった。 「ふふ。ジェムを連れて行きたきゃまずこの俺を倒してみろ、なーんて言うまでもなくそちらはやる気満々か。だがな、これを見てみろっ」 影が訝しげな色をぬばたまの瞳に浮かべる。シエロが差し出して見せたのは先ほどから手にしているランプだった。 「それが…、どうしたというのだ?」 シエロは蓋を開くと中にふっと息を吹き入れる。そのとたん、灯っていた明かりが消え周囲が一段と暗くなった。だが、ただそれだけだ。 「だからそれがどうしたというのだ」 シエロは呆れたように眉をひそめた。だが、その瞳にはどこか面白がるような色が浮かんでいる。 「あんた、ずっと俺らの後をつけていたんだろう。だったらそろそろピンと来てもいいんじゃないか? 俺たちの仲間には『火霊の愛し児』がいるんだぜ」 影ははっと目を見開いた。 |