第二章 エピローグ「暁へ至る空」(2)

 


「わかんねぇ…」

 ジェムが足を止めた場所からほんの少し離れた森の茂みの中で、なんともつまらなさそうな声がぼそりとした。

「おれ、やっぱり理解できねぇよ。どうして王様の子供なのに、ジェムがあんな目に合わされなきゃいけなかったんだ?」

 うずくまるように茂みに身を隠しながらバッツは仏頂面でつぶやく。その足元ではランプの小さな炎が揺らめいていた。

「お前はまだそんなことを言っているのか」

 すぐ隣から渋い低音のささやき声がする。そこにいるのは同様に姿を隠しているゼーヴルムだ。狭い茂みの隙間に身を押し込める彼の姿はなんとも窮屈そうである。

 ちなみにスティグマはいざという時の為に、医療の用意を整えて宿で待っている。そして彼の庇護者であるところのフィオリは、昨晩からずっと姿を見せていない。
 最後に彼女と話したはずのシエロに訊ねても、彼は「さてね?」と肩をすくめるだけ。何とも無責任極まりないが、シエロの「たぶん心配は要らないよ」という言葉を信じて彼らは今に至る。

「そんなことって、かなり重要なことだろう?」
「まあ、確かにそうではあるな」

 むっと顔をしかめるバッツにゼーヴルムは淡々と応える。バッツはうーんとうなって首をひねった。

「ジェムは確かにぽやんぽやんとした天然ボケではあるが、三年前までは頭もかなり良かった訳だし性格にしたって悪くない。なのにどうして―――、」
「たぶん、それが原因だ」
「?」

 バッツが不思議そうな眼差しを向ける。

「ジェムは稀有なまでに優秀だった。現王はきっとジェムに王位を奪われることを恐れたのだろう」
「はぁ? でも親子なんだぜ」
「親子だろうとなんであろうと関係はない」

 人の欲には限りがない。貴族の中では血の繋がった親戚同士で謀略を張り巡らせることはざらだ。家族でさえ信用できないといえばそれまでのことである。
 さらにジェム本人にはその気はないとしても、周囲に担ぎ出される可能性は十分にあっただろう。当面の不安を取り除くためには、ジェムを殺すか王位を継ぐ意思を徹底的に削ぐ以外に方法はない。
 ジェムにはとってなんとも皮肉な話になるが、たぶんジェムがあそこまで熱心に勉学に励み、北の学院に入るような事にならなければ三年前のようなことは起きなかっただろう。

「つまり用心深いのか、他に何か理由があるのかは分からないが、不安材料を排除するために王はジェムに釘を刺したのだ」
「でも優秀な王様のほうが民は喜ぶだろうに」
「そうだな。確かに民は喜ぶだろう。しかし優秀であることだけが、必ずしも王に必要な条件であるとはいえない。詳しく聞いたわけではないので確かなことは言えないが、ジェムは王族の中でも正当な血筋の人間だが正しい血統の持ち主ではないのではないか?」

 バッツが首をかしげる。

「? つまりどういうことだ?」
「ジェムの御母堂が誰なのか私は知らないが、もしその人が庶民ならばジェムは決して王にはなれないということだ」

 上流階級の人間は平民には不可解に思えるほど『血』に対するこだわりが強い。もしも片親がどこの馬の骨とも分からない人間であれば、王族の一員に加えるかさえも多くの波紋を呼ぶだろう。また実を言えば、その問題は貴族だけに限った話ではない。

 出自も何も怪しい者が王ともなれば、仕える側もまず納得はするまい。なぜなら王は普通の人間であってはならない。それが畏怖であろうと崇敬であろうと、なんらかの幻想に支えられていなければ一人の人間に巨大な王国を支配することは不可能なのだ。その幻想をもっとも分かりやすい形で示しているのが血筋なのである。

「なるほどな。…一応分かった」

 しかし分かったと言いながらもその顔はまだ不満そうだ。

「でもやっぱりそれっておかしいよな。それだと王様が偉いのか血筋が偉いのかさっぱり分からない。より良い血統同士を掛け合わせるなんて、ほとんど家畜の交配と代わらないぞ?」
「気持ちは分かるがあまり滅多なことを言うな」

 ゼーヴルムは眉をひそめると、頭痛を堪えるようにこめかみに触れた。

「聞くものが聞いたら不敬罪で首を刎ねられるぞ。…他の理由としてはノルズリ大陸では他の大陸より貞操観念が強いことも挙げられるだろう。不義者は家を滅ぼすという言葉があるほどに、あそこでは不義密通に対する忌避感が強い。それだけに、あの大陸では関わるものすべてに罪があるとし、その子供にいたっては悪徳の象徴とされる」

 そのためにジェムはその出生から隠され続けることとなったのだろう。

「そうか、事情は分かった。分かったけど、やっぱり納得はいかない」

 バッツは唇を尖らせた。

「そうだな。これは大陸ごとの意識の違いだから、一概にいい悪いとも言えるものではないからな」

 ゼーヴルムも同意を示す。バッツは不満げな顔で首を傾げていたがふいにぱっと顔を上げた。

「そうだっ。おれ、良い事を考え付いたぞ。ジェムはおれの大陸に来ればいいんだ」

 目を丸くするゼーヴルムをよそに名案だと言わんばかりにうんうんとうなづく。

「そうすれば、そんな血筋だ何だとくだらない事を言う奴はいなくなる。ジェムだってずっと暮らしやすいはずだ」

 その単純明快な考えにゼーヴルムは思わず苦笑を浮かべた。そしてバッツに気付かれないよう口元を覆い隠し、もっともらしくうなずいて見せた。

「そうだな。悪くない考えだ。もしジェムが気にしているようなら打診してみるといい」
「そうだよな。よしっ、そうと決まったら早速ジェムに―――、」

 その時、バッツの足元のランプの火がひと際大きく揺らめいたかと思うと、ふっと消えた。
 すぐさま、二人の目に真剣な色が浮かぶ。

「今のが――、」
「向こうからの合図だ。どうやらようやく出番が来たようだぜ」

 しかしながらずいぶん待たせてくれたものだ。
 そう感じながら二人は茂みから抜け出ると、己の得物をしかと掴み駆け出した。







「今ので他の仲間に合図を送った。あんたを誘き寄せるために離れたところで待機していたが、すぐにやってくるだろう。いくらあんたが強気でいてもあの二人を倒すのは並大抵の腕じゃ無理だぜ?」

 シエロはピンと立てた指をくるりと回すと、悪戯を仕掛けた子供のように笑った。

「…っならば」

 影はきっとシエロに殺気をぶつける。しかしシエロは涼しげな顔で指を振った。

「ならば二人が来る前に俺を始末するって? 悪いがそれもお勧めできないな。いくら俺が虫一匹殺せないような平和主義者であってもあんた一人くらいならあの二人が来るまで持ちこたえられる自信はあるぜ?」

 シエロはにやりと笑うと指を立てて敵を招いた。

「それでもいいならかかっておいでよ。見事、返り討ちにしてあげるからさ」

 影はグゥとのどを鳴らす。シエロの実力に薄々感づいているのだろう。挑発に乗るか否か戸惑っているようである。

「あの、いいですか?」
「ジェムっ、下がっていて」

 身を乗り出すジェムをシエロは慌ててたしなめるが、少年はゆっくりと首を振る。

「大丈夫です。それよりも、聞いてください。ぼくは巡礼を辞めるつもりはありません。しかし、あなた達にはむかうつもりはまったくないんです」

 ジェムは影の前に完全に身をさらす。それどころか影と向かい合う位置にまで移動してきた。

「ぼくはあなた方に逆らいたいとは思っていません。だから、この巡礼の使命を果たしたらちゃんと北の学院へ戻るつもりです。それでもまだ不安なようなら、あなた方の手によってどこかに幽閉されることになってもぼくはいっこうに構わないんです」
「ジェムっ!?」

 シエロはその言葉に慌てるがジェムは淡々とした態度を崩さない。

「でもぼくはかつての名前…、ジオ・ジュエル・ディオスティエラ=ノルズリとしての過去を完全に捨て去ります。もう二度と、この名前を名乗ることはないでしょう。あの家との縁も完全に断ち切ります」

 ジェムは胸に手を当てると影をまっすぐ見て言った。

「どうかあの人に伝えてください。ぼくの名前はジェム・リヴィングストーンです。ジェムはあなた達にあだ成すつもりも迷惑をかけるつもりもまったくありません。しかしこの巡礼の旅だけは絶対に邪魔はさせません。これはぼくに与えられた大切な使命なんですから」

 ジェムは瞬きすらせずに影を見続けている。
 二人の間に不穏な緊張感が張り詰めた。
 ざわり、と樹木が枝葉を揺らす。

 切るように冷たい影の眼差しと挑むようなジェムの視線。

 一歩も引かない両者のうち、先に目をそらしたのは影のほうだった。
 影は苦渋に顔をしかめると憤懣やる方ないといった様子でしぶしぶ承諾の言葉を口にした。

「…分かりました。我が主への言伝、確かに承りましょう。けれど、これですべてが終わったとは思わないことです」
「ええ。これで問題が片付いたとは思っていません。でも、今はそれで構いません」

 緊張感がわずかに薄れ、ジェムはふっと微笑を浮かべた。
 安堵と呼ぶにはあまりにも哀しい、諦めにも近い表情。しかしそこにあるのはけして絶望を象徴するものではなかった。

 影は歯軋りをすると彼らに背を向けた。自分の思いはひとまず捨て置き、とりあえずは主のもとへ急ぎ取って返そうとした。

 だがその時、ふいに、その動きが止まった。

 なぜだかは分からない。
 理由などに意味はない。

 だがその耳には、誰よりも愛おしい女性の声がはっきりとよみがえった。

(―――どうか…、どうか苦しまぬよう一瞬であれの命を絶ってくりゃれ。目を瞑るように、悪い夢から覚めるように…)

 反射的に振り返った影は、それまでずっと手に握り締めていた刃をジェムに向かって投げつけた。