第二章 エピローグ「暁へ至る空」(3)

 


 たぶん本人ですらその動きは予測できなかっただろう。とっさのことに反応できたものはいなかった。

 数拍遅れてシエロは手を伸ばすが、それでもそれはあまりにも遅すぎた。

 ジェムの目にはすべてがスローモーションのように見えた。
 ゆっくりと、銀の刃が自分めがけて飛んでくる。ジェムは目をつぶることすらできなかった。
 ジェムが身を庇うように両の腕を持ち上げたその瞬間、

  ガツンッ

 何かが刃に当たり軌道がそれた。鋭い刃は殺傷力を失いジェムの足元に落ちる。その途端、世界は元のように動き出した。

 転がったのは、細い矢羽だった。

「何しているの!? さっさと隠れなさいっ」

 ジェムがはっとして顔を上げる。
 ぎりぎりまで引き絞られた弓が影に向けられていた。

「早くどっかにいっちまいなさいっ。さもなきゃ次はあなたが的になるわよ!」

 まっすぐ影に狙いを定めるとフィオリは鋭い恫喝を浴びせかける。
 それに怯んだのかどうかは分からないが、影はじわりと闇にその輪郭を滲ませると、すっと溶けるように姿を消した。
 フィオリはまだしばらく弓を構えていたが、完全に気配が消えたことを確認すると得物をおろし、ふうと大きく息を吐く。

「フィオリ、さん?」

 ジェムは恐る恐る少女に呼びかけた。だが少女はそれを無視するように無言でつがえていた矢を矢筒に納める。そうして一連の動作を終えてようやく、少女はジェムに目を向けた。

  その視線は相変わらず鋭く、痛い。

「あの、フィオリさん…。ぼくは――、」
「あたしはノルズリ大陸の国家が私の村にしたことをけして忘れはしないわ。ノルズリ大陸の人間を許すこともできない」
「――はい…」

 その声にはわずかな躊躇もない。
 ジェムは唇を噛み締めると悲しげにうつむいた。

 それはもとより分かっていたこと。
 あらためて悲しみに打ちひしがれる必要はない。

 けれどジェムの目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「あなたが恨めしくて憎らしいことにも変わりはないわ。この感情に嘘はない。…でも、それは本当にそうなのかしら?」
「えっ?」

 はっとして顔を上げたジェムが見たものは、苦しそうに眉をひそめ唇を噛み締めるフィオリの顔だった。

「きのう、シエロさんに言われて気付いたの。あたしは絶対にジェムを恨まなきゃいけない理由はないんだって」



 

  ※  ※  ※




 ――― 昨夜。

「フィオリちゃん、待って」

 宿を飛び出そうとするフィオリの腕をつかみ、シエロは呼び止めた。

「うるさいわっ。あなたには何の関係もないじゃないっ、放っておいてよ!」

 フィオリはかっとなって腕を振りほどこうとした。止めに来たのがスティグマじゃない。そのことも彼女を苛立たせる一因だった。
 フィオリは苛立ち紛れに腕を引くが、しかしシエロの力はフィオリが思っていたよりもずっと強かった。シエロはしっかりと彼女を掴んだまま、冗談めかした笑みをにっと浮かべる。

「そりゃ確かに関係ないけどさ、別にまったく知らない間柄って訳でもないんだし。ちょっと落ち着いて、話でもしようよ」
「やめてよ。あんたなんかに偉そうに説教される言われはないわっ」

 フィオリは力いっぱい拒絶するが、結局抵抗は叶わずシエロにずるずると引きずられていく。途中ずっと暴れていたため、宿の中庭に着いたときにはフィオリの息はわずかに切れていた。シエロは長椅子に座ることを勧めたが、へそを曲げたフィオリは地べたに直接腰を下ろしその隣にシエロも同じように座り込んだ。

 風が、夜の色に染められた木の葉をざわざわと揺らす。

 フィオリは強引な行為に顔をしかめるが、シエロはただ飄々と肩をすくめるだけである。

「まあ確かに俺なんかはフィオリちゃんの人生においてまったく無関係だった訳だけどさ、たまには第三者の意見を聞いて新たなる境地を開いてみるのもいいんじゃないの? まあ、悪いようにはしないからちょっと耳を傾けてよ」

 シエロは立てた片膝に頬杖をついたまま、どこか世間話でも語るような具合である。
 だが実際は前置きも何もなく、いきなりシエロは話の核心を突いた。

「君は別にジェムを恨んでいるわけじゃないんでしょ。いつまでも自分の感情を取り違えていたら幸せをつかみ損ねちゃうよ」
「なっ、恨んでいない訳ないでしょう! ジェムはあたしの村を焼いたノルズリ大陸の、しかも王族の人間なのよっ」

 フィオリはシエロにつかみかからんばかりの勢いで否定する。しかしシエロは不思議そうに首をかしげた。

「でもそれは本当の理由じゃないよね。君は単に、自分の憎しみの感情をぶつけられる相手が欲しかっただけなんじゃないの」
「そ、そんなことないわっ」
「そうかな? でも実際、君は始めて俺らと出会った時、まずゼーヴルムに突っかかったよね。それは、彼の格好が一目で軍人と分かるものだったからじゃないかい。フィオリちゃん、君は軍人は嫌いだろう?」

 ぐっと息を呑む。
 確かにそれは事実だった。戦争で家族を亡くしたフィオリにとって軍人とはもっとも忌むべき職業だ。

「次の相手はバッツだった。これは何も知らない異国人だったからかな? フィオリちゃん。前に村で君は幸せに暮らしてきた人間に同情されたくはない、とジェムに言っていたけど―――、」
「まさか盗み聞きしていたの!?」

 フィオリは眉を吊り上げシエロを睨みつける。シエロは心外そうに顔をしかめた。

「盗み聞きとは失礼な。同じ階にいればアレだけ大きな声で言い争いされたんだ。嫌でも耳に入るさ」

 まあ、話の内容まで聞き取れるのは俺ぐらいなもんだけどさ、とシエロは心の中でこっそりうそぶく。

「君が思ってたようにジェムは恵まれた生活をしてきた訳じゃなかった。王家の血を引いていてもそれは彼を不幸にしかしなかった。それでも君は、ジェムを恨み続けるの?」
「そうよっ、あたしは村も家族もみんな失くしたのよ! ジェムはまだ住む場所も家族も残っているじゃないっ。あたしの方がずっと―――、」
「人の悲しみには質も量も勝ちも負けもありはしないよ」

 フィオリははっと顔を上げる。シエロは胸に手を置きつぶやいた。

「そこにはただ、痛みと思いがあるだけだ」

 フィオリはばつが悪そうに俯く。シエロは唇の端を吊り上げるとおもしろそうに彼女に語りかけた。

「ねぇフィオリちゃん、教えてよ。何で君はそんなにも憎みたがっているんだい。君が本当に望んでいるのはそんなことなのかい」

 必ずしも恨む必要があるのか。

 そう聞かれ、フィオリの目の前がかっと赤くなる。

「あたしは――っ…」

  だって両親が。
    村が。

 しかし、そう答えるべき反論の言葉は声にはならなかった。

「あたしは…」

 ぎゅっと噛み締めた唇から血が滲む。

  そう。
   本当は分かっているのだ。

 シエロに言われなくても、スティグマに言われなくても。
 同じノルズリ大陸の人間でも、自分の村を焼いた兵士とジェムはまったく違う。

 ジェムが優しい人間であることも。
 その出自から過去に辛い思いをしていることも。
 自分の両親のことを心から悼んでくれていたことも。
 本当は言われるまでもなくちゃんと分かっている。

  だけど―――、

「でもっ、あたしは今でも覚えているのよっ。忘れられないの。あの日、あたしの村が焼かれたことを。家族を失ったことをっ」

 声を張り上げるフィオリの目に涙が滲んだ。

 ジェムが影に与えられた痛みをけして忘れられないように、フィオリにも消し去れない記憶があった。

  あの日、村からは煙が立ち上り。
  住み慣れた村はすべて煤と消し炭に姿を変えた。
  大切な人々はみなこの世からいなくなり、
  世界にたった一人取り残された孤独と恐怖感。
  その記憶はいまだ悪夢として自分を苛む。

  あの日味わった絶望感は永遠に癒えることのない心の傷だった。

「忘れろなんて言わないさ。でもさ、恨みと憎しみを抱えて生きるなんて俺は馬鹿らしいと思うよ。それぐらいなら、敵も味方もひっくるめていろんな人と笑いあって楽しく生きるほうがずっといいんじゃないかな」
「…」

 フィオリはぷつりと押し黙る。怒っているような、困惑しているような、今にも泣き出しそうなそんな顔でじっと足元を睨みつけている。シエロはそれを見てかすかに口端を持ち上げると、よいしょと声を出し立ち上がった。

「まあ最終的に判断するのは君自身だからね。忘れるなり恨み続けるなり、それは君の好きにすればいいと思うよ。別に俺もお説教しに来たわけじゃないからね」

 じゃあ何しに来たんだ。フィオリはそんな眼差しを向けるが、シエロは気楽な足取りで宿に向かっていく。その途中でああ、と思い出したように振り返った。

「迷うのは若者の特権だ。思う存分悩んでくれたまえ」

 そうして彼はウィンク一つ残して立ち去っていった。