たぶん本人ですらその動きは予測できなかっただろう。とっさのことに反応できたものはいなかった。 数拍遅れてシエロは手を伸ばすが、それでもそれはあまりにも遅すぎた。 ジェムの目にはすべてがスローモーションのように見えた。 ガツンッ 何かが刃に当たり軌道がそれた。鋭い刃は殺傷力を失いジェムの足元に落ちる。その途端、世界は元のように動き出した。 転がったのは、細い矢羽だった。 「何しているの!? さっさと隠れなさいっ」 ジェムがはっとして顔を上げる。 「早くどっかにいっちまいなさいっ。さもなきゃ次はあなたが的になるわよ!」 まっすぐ影に狙いを定めるとフィオリは鋭い恫喝を浴びせかける。 「フィオリ、さん?」 ジェムは恐る恐る少女に呼びかけた。だが少女はそれを無視するように無言でつがえていた矢を矢筒に納める。そうして一連の動作を終えてようやく、少女はジェムに目を向けた。 その視線は相変わらず鋭く、痛い。 「あの、フィオリさん…。ぼくは――、」 その声にはわずかな躊躇もない。 それはもとより分かっていたこと。 けれどジェムの目にはうっすらと涙が滲んでいた。 「あなたが恨めしくて憎らしいことにも変わりはないわ。この感情に嘘はない。…でも、それは本当にそうなのかしら?」 はっとして顔を上げたジェムが見たものは、苦しそうに眉をひそめ唇を噛み締めるフィオリの顔だった。 「きのう、シエロさんに言われて気付いたの。あたしは絶対にジェムを恨まなきゃいけない理由はないんだって」 ※ ※ ※
「フィオリちゃん、待って」 宿を飛び出そうとするフィオリの腕をつかみ、シエロは呼び止めた。 「うるさいわっ。あなたには何の関係もないじゃないっ、放っておいてよ!」 フィオリはかっとなって腕を振りほどこうとした。止めに来たのがスティグマじゃない。そのことも彼女を苛立たせる一因だった。 「そりゃ確かに関係ないけどさ、別にまったく知らない間柄って訳でもないんだし。ちょっと落ち着いて、話でもしようよ」 フィオリは力いっぱい拒絶するが、結局抵抗は叶わずシエロにずるずると引きずられていく。途中ずっと暴れていたため、宿の中庭に着いたときにはフィオリの息はわずかに切れていた。シエロは長椅子に座ることを勧めたが、へそを曲げたフィオリは地べたに直接腰を下ろしその隣にシエロも同じように座り込んだ。 風が、夜の色に染められた木の葉をざわざわと揺らす。 フィオリは強引な行為に顔をしかめるが、シエロはただ飄々と肩をすくめるだけである。 「まあ確かに俺なんかはフィオリちゃんの人生においてまったく無関係だった訳だけどさ、たまには第三者の意見を聞いて新たなる境地を開いてみるのもいいんじゃないの? まあ、悪いようにはしないからちょっと耳を傾けてよ」 シエロは立てた片膝に頬杖をついたまま、どこか世間話でも語るような具合である。 「君は別にジェムを恨んでいるわけじゃないんでしょ。いつまでも自分の感情を取り違えていたら幸せをつかみ損ねちゃうよ」
フィオリはシエロにつかみかからんばかりの勢いで否定する。しかしシエロは不思議そうに首をかしげた。 「でもそれは本当の理由じゃないよね。君は単に、自分の憎しみの感情をぶつけられる相手が欲しかっただけなんじゃないの」
ぐっと息を呑む。 「次の相手はバッツだった。これは何も知らない異国人だったからかな? フィオリちゃん。前に村で君は幸せに暮らしてきた人間に同情されたくはない、とジェムに言っていたけど―――、」 フィオリは眉を吊り上げシエロを睨みつける。シエロは心外そうに顔をしかめた。 「盗み聞きとは失礼な。同じ階にいればアレだけ大きな声で言い争いされたんだ。嫌でも耳に入るさ」 まあ、話の内容まで聞き取れるのは俺ぐらいなもんだけどさ、とシエロは心の中でこっそりうそぶく。 「君が思ってたようにジェムは恵まれた生活をしてきた訳じゃなかった。王家の血を引いていてもそれは彼を不幸にしかしなかった。それでも君は、ジェムを恨み続けるの?」 フィオリははっと顔を上げる。シエロは胸に手を置きつぶやいた。 「そこにはただ、痛みと思いがあるだけだ」 フィオリはばつが悪そうに俯く。シエロは唇の端を吊り上げるとおもしろそうに彼女に語りかけた。 「ねぇフィオリちゃん、教えてよ。何で君はそんなにも憎みたがっているんだい。君が本当に望んでいるのはそんなことなのかい」 必ずしも恨む必要があるのか。 そう聞かれ、フィオリの目の前がかっと赤くなる。 「あたしは――っ…」 だって両親が。 しかし、そう答えるべき反論の言葉は声にはならなかった。 「あたしは…」 ぎゅっと噛み締めた唇から血が滲む。 そう。 シエロに言われなくても、スティグマに言われなくても。 ジェムが優しい人間であることも。 だけど―――、 「でもっ、あたしは今でも覚えているのよっ。忘れられないの。あの日、あたしの村が焼かれたことを。家族を失ったことをっ」 声を張り上げるフィオリの目に涙が滲んだ。 ジェムが影に与えられた痛みをけして忘れられないように、フィオリにも消し去れない記憶があった。 あの日、村からは煙が立ち上り。 あの日味わった絶望感は永遠に癒えることのない心の傷だった。 「忘れろなんて言わないさ。でもさ、恨みと憎しみを抱えて生きるなんて俺は馬鹿らしいと思うよ。それぐらいなら、敵も味方もひっくるめていろんな人と笑いあって楽しく生きるほうがずっといいんじゃないかな」 フィオリはぷつりと押し黙る。怒っているような、困惑しているような、今にも泣き出しそうなそんな顔でじっと足元を睨みつけている。シエロはそれを見てかすかに口端を持ち上げると、よいしょと声を出し立ち上がった。 「まあ最終的に判断するのは君自身だからね。忘れるなり恨み続けるなり、それは君の好きにすればいいと思うよ。別に俺もお説教しに来たわけじゃないからね」 じゃあ何しに来たんだ。フィオリはそんな眼差しを向けるが、シエロは気楽な足取りで宿に向かっていく。その途中でああ、と思い出したように振り返った。 「迷うのは若者の特権だ。思う存分悩んでくれたまえ」 そうして彼はウィンク一つ残して立ち去っていった。 |