第二章 プロローグ、「名も無き者」(1)

 

 それに名はなかった。

 それら全体を示す名や個を通称する名はあるが、個体を識別するための名はそれには存在しなかった。

 必要なかった、と言い換えてしまってもいい。

 それやそれと同種の存在を個別に認識する必要がある者はごく限られており、またそれら自身にも自我という意識は存在しなかった。

 それは個としての生物というよりかは、あるいは郡体に近いのかもしれない。

 しかしそれらの存在意義は、生き残るために優れた知恵を働かせた原初の生き物たち同様、群全体を生存させることではなかった。

 その反対だ。

 それはただ主人に仕え、その命令を果たすためだけの存在。

 すなわちそれは道具。
 ただの〈モノ〉に名前を付ける者はいない。

 つまりはそういうことだった。






「 ―――結局アレは、大陸を出たと言うのだな」

(是…)

 それは答えた。

 薄暗い部屋の中、それは低く頭を下げたまま主の問いかけに真実の言葉を返す。

 視線を上げ、主人の顔を見ることは許されていなかった。本来なら直接言葉を交わすことさえも恐れ多い。

(あのまま何の問題もなく進んでいると仮定したならば、今頃はアウストリ大陸に足を踏み入れたところであると推測されます…)

 なかば闇と同化するように、それの姿は実に見えにくかった。ささやくようなその声もけして聞きづらいわけではないが、いったいどこから響いているのか、近いのか遠いのかさえいっこうに判別がつかない。

(ご命令どおり、手出しは一切行なわず静観のまま待機しております …)

「それでよい」

 ふう、と小さな吐息が主の口からこぼれた。

 どこか冷めたいため息は、薄暗い空間に波紋のように広がっていく。

 主人は呆れたような哀れむような眼差しでそっと自分のこめかみに触れた。それはまるで舞台役者のように、見られることを常とした者のある意味意識過剰な動作だったが、その姿は実に様になっていた。

「あれも愚かだな…」

 返答はせず、それは無言で主の言葉の続きを待つ。

「大人しく鳥篭の中に収まっておれば、仮初めなれど平穏な人生を送れたものの…。それをあえて、自ら寿命を縮めるようなまねをするとはな。いったい何を考えておるのやら」

 主人はすっとそれに視線を落とした。

「命ずる。これまで同様に、あれに己の身の程を知らしめよ。自分がいかなる存在であるのか、その身に直に思い出させるのだ」

 拒絶を許さない、さながら魂を直接踏みつけるような強い口調は命令することに慣れた者のそれだ。

「そしてその上で問え。再び鳥篭に戻るか否かを。前者ならそれで良い。寛大な心をもって、すべてを不問に処そう。余は不要な暴力は好きではない。だが、もしあれが拒否したならばそのときは―――、」

 感情を伴わない冷酷な瞳がそれに向けて注がれる。

「高貴な血を流すことを許可する。アレを殺せ。アレの存在が周囲に知られることがないように、可能な限り確実に殺し尽くせ。それが第一の命令だ」

(御意…)

 主人はこれまでに一度として、それに名を持って呼びかけたことはなかった。独立した個としての名はもちろん、集団の中のひとつとしての名はおろか集団としての名さえ呼んだことはなかった。

 下等な存在であるそれの名を呼ぶことを汚らわしいと思っているのか、不吉な存在として知られているその名を呼ぶことが自らにも不幸を招くと思っているのか、あるいは道具でしかないそれに名を呼ぶ価値すら感じていないのか。

 結局主人がどんなつもりでそれの名を呼ばないにしても、たとえそこに意味がなかったとしても、それは何の感情も覚えなかった。主の思惑がなんであれ、それはただただ機械的に命令を遂行するのみ。

 それは主人から二つの命令を拝命した。ただちに目的の場所へと移動しようとしていたその時、それは自分を召喚する思念波を感知した。

 現在この世に自分を呼ぶことができるものは三人だけ。

 属する集団の長、自分の主。そしてもうひとり。

 長が自分を召喚するのは、集団の存亡に関わるようなよっぽどの緊急事態のみ。主にいたってはつい今さっき対面を済ませたばかりだ。

 だが、そんな事実なくしてもそれには己を呼ぶ者が誰だか知っていた。