第二章 プロローグ、「名も無き者」(2)

 

  それが参上したのは奥まった部屋の一室だった。

 広く豪奢なつくりのそこは、居住区域よりかなり離れた場所にあり、近づく者はめったになく、それゆえとても静かで閑散としていた。

 その部屋の主はひとりの女。

 高価なドレスを着て、値の張る装飾品を身にまといながらも、だがその女は揺り椅子に身を沈め古ぼけた人形を抱きしめどこかうつろな目をしている。

 女はふっと視線を上げた。

「そこに居るのかえ」

(是…)

 それは女の前に膝をついた。だが顔は伏せない。顔を伏せることはずいぶん前に止めるよう命令を受けた。最初はずいぶん戸惑った命令だったが、いつのまにか慣れてしまった。女の、何かを映すことに飽いてしまったようなその目が、それから躊躇いというものをろ過していったのかも知れない。

「また、あれのことで呼ばれたのかえ。…良い、答える必要はあらぬ。そちは、あれのこと以外で呼ばれることはなかろうからな」

 女は痛ましげな瞳で薄汚れた人形の髪を撫ぜる。人形は痛み、くたびれ、部屋の様子や女の格好とは酷く釣合わない。だが女はそれを自分の命よりも大切なものであるかのようにしっかりとその胸に抱きかかえていた。

「不憫じゃな…。実に不憫じゃ。だがわらわには何もできぬ。あのお方の御心はわらわにとっても絶対じゃ。あのお方がそちにどのような命令を下そうと、わらわにそれを覆させることはできぬ」

 それは紛れもない真実だった。

 女もまたそれに対して命令を下せる立場にあったが、女よりも主人の方が命令の優先順位は絶対的に上だった。

 女は実際の年齢よりもだいぶ若く見える少女のような顔に、生きることに疲れ果てた老婆のような表情を宿してそれに言った。

「だからこそ、わらわはそちに頼みたい。これは命令ではなく頼みじゃ。そちにはこれを叶える義務はあらぬ。じゃが、それを承知で聞いてくりゃれ」

(……)

 女はそれの主同様、それを名前で呼んだことは一度もなかった。

だが女は単に、それにも名前があるのだということを知らないだけなのかもしれない。女はそれを納得させるだけの経歴を有していたし、何よりも主は無関心であるかのように見せてもその目には確かに蔑みの色がうかがえた反面、女の目にはそれはなかった。

 それは、透明度の高い泉のように酷く透き通った女の視線が好きだった。いや、その思いは好意とは呼べないのかもしれない。

 感情を持つことを許されないそれの心理に発生した微弱なノイズ。

 しかしそれは、そのノイズを確かに好意として認識していた。

(…是)

 だからそれはうなづいた。

 女はどこか安堵したような顔つきでそれを見る。

「もし、そちがあれの命を刈り取らなくてはならぬ事になったらその時は、お願いじゃ。どうか…、どうか苦しまぬよう一瞬であれの命を絶ってくりゃれ。
 
   ―――目を瞑るように、悪い夢から覚めるように…」


 

 すがるような女の目の中には、怯えと悔恨と哀しみが溶け合い混ぜんとなって存在していた。

 女のその複雑な感情は、澄みきった瞳の中の澱みのようで、それは酷く落ち着かない気分にさせられた。
 感情を持たず、それゆえ感情を理解することのできないそれはある考えに達する。


  ―――もしその願いをかなえたら、女の瞳はまた元のように澄み渡るのだろうか。


 それの中でひとつの回路が動き出した。その回路は本来ならばそれの中で凍結され、けして作動することはないはずのものだった。

 純粋で、そして人間なら誰しも当たり前に持っているもの。時に美しく、時に醜いその回路。

 その回路はゆっくりと、しかし確実に、精密機械のように無機質で精巧だったそれの思考を狂わせ始める。  だがその弊害が表に現れるのはまだ先のこと。



   その回路の名を、『欲望』と言う…。