第三章 1、「東の神殿」(4)

 


 ずずーっと音を立ててスープがすすられる。くちゃくちゃとものを咀嚼し飲み込む音もした。それはもちろん誰かがものを食べている音だ。同時にかちゃかちゃと陶器に金属が触れ合う音もする。

 どれもこれもマナーに煩い所ならば無作法と咎められかねないような音だが、ここにはそんなやかましいことを言う人間は誰もいない。それに何より卓の上では、そんなかすかな音など掻き消すほどに賑やかな、そして同じくらい物騒な会話が交わされていた。

「大体だ。百歩譲ってあれが死霊の匂いだとしても、大神官が血を流して死んだとは限らないだろ。病死かもしれないし」

 むっつりと、どこか不満げな声が咀嚼音に混じって聞こえる。

「ええ〜、病気でも血を吐いて死んだのかもしれないじゃん」

 対する声はどこか軽薄なからかうような声だった。

「だからっ、死霊でも匂いだけじゃ誰の死霊だかわかりゃしないって話だろうがっ」

 どんっ、とテーブルに拳が叩き付けられる。がちゃんっとひときわ激しく陶器が鳴った。

「死因が分かればその可能性は出てくるにしてもだ。それになんで血の匂いがすると死霊って話になんだよ。他にもたくさんもっともらしい可能性があるだろうが」
「そうそう。神殿の中に屠殺場があるのかもしれないしねぇ」
「お・ま・えが言い出したことだろうがっ!」

 ばんっ、と今度は手のひらが打ち付けられた。再び陶器が音を立てる。

「あ、あのぉ〜」

 おずおずと、白熱する議論の間に弱々しい第三者の声が割り込んだ。その声色は、なんだかちょっと泣きそうである。

「食事中にやめませんか。そういう話……」

 へっ? と最初の二種の声。バッツとシエロがジェムのほうを見た。

「「何でさ?」」
「いえ、ですからね……」

 見事協和したその声と、きょとんとしたその顔にジェムはがっくりと肩を落とした。
 これは、異文化間の相互理解がどれほど困難であるかを示す一つの例であるのだろうかと思いながら。




 巡礼使節の彼らは、街の中でもちょうど真ん中くらいのランクの宿屋をとった。今はその宿の階下にある食堂で遅めの夕飯の最中である。

 一応、五大神殿の一つを有するこのヴィリディスの街には巡礼者用に格安で泊まれる施設もあるのだが、どうも現在この街は参拝ができるようになるのを待って居座り続けている一般巡礼者で溢れかえっているらしく、神殿関係の施設はどれも満室だった。そのため彼らは一般の宿屋に泊まらざるを得なかったわけである。

 だがこのままの状態が続けば、いずれは街中の宿が人で溢れかえるのは間違いなさそうだ。

「ははぁ、お客さんたち賑やかですねぇ」

 ジェムとシエロが引き続き物騒な会話を続ける中、まだ年若い店員が笑いながら追加の料理を持ってきた。

 ジェムなどは同じ卓上で交わされる話題のせいでかなり食欲が失せてしまっていたが、話している本人たちはそんなことはまったくないようだ。バッツはがつがつと食事を頬張っているし、普通の食事が摂れないシエロはチーズを何種類かと果物を口にして、あとはお茶を飲むばかり。ゼーヴルムは会話に参加せず、ただ黙々と食事を続けている。

 目を細め美味しそうに香草茶をすすっていたシエロは、ふいに顔を上げるとちょいちょいと店員を手招きした。

「あのさ、おにいさん。あなた樹大神殿の大神官さまの死因なんてご存じない?」

 内緒話をするようにこっそりとささやきかける。
 突然たずねられるにはなかなかショッキングな内容の質問ではあるが、店員は訳知り顔でにやりと笑うと、ああ、なるほどとうなずいた。

「お客さんたちも神殿待ちの類ですか。こんな時期に来ちゃうなんてついてないですねぇ」

 どうやら笑い上戸らしく何が楽しいのか、けらけらと笑う。

「大神官様の死因ですか? とりあえず公式には『病死』と発表されてましたよ」
「ほれみろっ」

 バッツがにやりと笑ってシエロをひじで突く。だがシエロは耳聡かった。

「公式には、ね……。ということは、裏があるってことだね」
「お客さん、鋭いねぇ」

 店員は嬉しそうに笑って、これ、内緒ですよと声をひそめる。

「神殿側はね『病死』と言ってるんですが、これがまたどうも疑わしいんですよ。もしかすると大神官様は何者かに『暗殺』されたのかもしれないと巷ではもっぱらの噂なんです」
「へえ、それはまた」

 シエロはわずかに目を見張った。
 なんとも物騒な噂である。店員は腕を組むと重々しい調子でうなずいた。

「何せ大神官様はそりゃあだいぶお年でしたが、今まで病気らしい病気をしたことがないというのが自慢の元気な方でしたし」
「ふむふむ」
「それに偉い人の葬儀の時は、まずご遺体を広場に安置して街の人間の献花を募るのに今回はそれもなかった。誰もあの方のご遺体を見てはいないのです」
「なるほどなるほど」

 もっともらしく相槌を打ちながら、しかしシエロのその口の端はぴくぴくと痙攣するように動いていた。聞いておきながらなんなのだが、この店員なかなか想像力豊かなことである。

 確かに神殿の態度は不審かもしれないが、たかだかそれだけのことでこんな突拍子もないことを思いつくのもまたすごい。 しかもこの話も、内緒と言いながらいったい何人の客に話したことやら。
 もともと話好きの性質なのか、勢いをつけてあれやこれやと憶測を述べていた彼だったが、きわめつけにピンと指を立てるとこう言った。

「だいたい医療の神であるユークレース様の神殿の長が病死なんて、本当だったら世も末ですよ」
「あははははっ、そりゃもっともだっ」

 シエロはとうとう吹き出すと膝をばんばんと叩いて笑い出した。どうやらつぼにはまったらしい。
 バッツは呆れた顔で店員を見た。

「お前ら皆それを信じてんのか?」
「本気で疑ってる奴も何人かいるかな? だけどまあ、ようするによくある街の噂話って奴ですよ」

 そう言って肩をすくめる。つまるところ、どうやら彼も本気でそう思っているわけではないようだった。

 話が一段落したのを見計らったように、店の奥から野太い声が届いた。

「おい、こらっ。てめぇ、サボってんじゃねえぞっ。給料減らすぞ」
「おっと、いけねっ」

 荒っぽい口調の店主に怒鳴られ、店員は慌てて厨房に戻っていく。だが彼はその途中で足を止めると、おもむろに戻って来てこう言い足した。

「あのさ、お客さん。もし暇してんだったら南のカルム湖にでも行ったらいいですよ。あそこは樹大神殿に次ぐ観光名所だし、古い樹神殿の遺跡もあるそうですよ。ちょうど行って戻ってきた頃には神殿も入れるようになってるでしょうし」

 そして厨房に入った次の瞬間、皿が割れるかと思うようなすさまじい怒鳴り声が彼らの席まで聞こえた。

「あらら」

 シエロが厨房に向かって神妙に合掌する。たぶんノリの良かった彼の冥福でも祈っているのだろう。

「ええっと、あの……」

 ジェムが恐る恐る二人に問いかけた。

「今の話って、本当でしょうかね……?」
「どうせ噂話だろ。くだらない流言飛語のひとつに過ぎない」
「まあ、仮に本当だとしても、ただの巡礼者の俺らにできることは無いかな」
「は、はあ。そうですか」

 二人はあっさりとその話を切り捨てた。あれだけ死霊がどうだ死因がどうの言っていたくせに、実際のところは別にどうでもいいらしい。ジェムはがっくり肩を落とした。

「じゃあ、明日から神殿に入れるようになるまでどうしてましょうか」
「ん〜、別にやることもないし、他の神殿に今から行くのもなんだから、助言に従ってそのカルム湖とやらに行ってみようか。それでいいかい、ゼーヴルム?」
「別に異論は無い」

 この時になって初めて、今まで一言も口を利いていなかったゼーヴルムが言葉を発した。どうやらやっと食事を終えたらしい。

 別に彼が食事中会話に参加しないのはいつものことなのだが、今回ばかりはやけに静かだった。ジェムは不思議に思って彼のほうに目をやったのだが、一目見てその理由を悟ってしまった。
 恐る恐る彼に向けられた視線は何だか人外魔境を見るように、怯えている。

「な、何といいましょうか……、今日はすごい良く食べられましたね」
「ここの食事はなかなか美味いな」

 ゼーヴルムはすました表情のままナプキンで口元をぬぐった。
 別にバッツのように威勢よくがつがつ食べるわけではないので気付かれ難いのだが、彼はけして小食というわけではない。野営の時は携帯食に限りがあるので自制しているが、そういう心配が無い時は遠慮なく食べる。むしろ怒涛のごとく食べる。どうやら軍人たるもの食えるときに食えるだけ食っておくというのが彼のポリシーであるらしい。
 だが、今回に限って言えば、

「つうか食べすぎだろうよ」

 バッツがあきれたように山と詰まれた空皿を見る。ここまでくるともはや何人前なんて言うどころの量ではない。取り立てて大柄とも言えない彼の身体によくぞ収まったものである。
 彼の腹具合の心配をするよりも以前に一行の懐具合を、ようするに食費を含めた旅費がすべて神殿もちであることに、ジェムは心から安堵せずにいられないのであった。






  ※ ※ ※





 目を開けると光が差していた。
 日頃明るさというものに慣れていないため、その眩しさで眼球がしみるように痛む。
 自分がいったいどこに、どのような状態でいるのかすら判断不能だったため、すぐさま確認を試みるが光で視界が焼きつきうまくいかない。
 完全に視界が利くようになるまでしばし時間がかかるだろう。だからそれ≠ヘ代わりに耳を澄ました。

 聞こえるのは、犬の吠え声。
 それもただの犬ではなく、訓練され統制された猟犬の声だ。

 ぎくりと身体が緊張したのは、意識してというよりは反射的な反応だった。
 犬は人間が思っているよりもずっと賢く、やっかいだ。
 風下に回られれば、身を隠していても臭いで居場所を悟られる。
 暗闇で何より警戒しなければならないのは、人よりも動物の方だった。

 早急に、一度身を引くなり隠すなりしなければならない。
 ようやく利き始めた視界で周囲の様子を探ろうとしたとき、それ≠ヘすぐそばに人の姿を確認した。

 とっさに身構える。

 己の身を守れるよう。
 そして、確実に相手を殺せるよう。

 だが、交戦の端緒が開かれる気配はなく、代わりにどこか哀れむような苦笑がその人影から放たれた。

「馬鹿だね。そう怯えなくても、別にとって食いやしませんよ。それどころかこっちは命の恩人なんですよ。助けがいのない人ですね」

 その人物は、神官の礼服を身にまとっていた。幾筋かの白髪の混じる黄みの強い茶髪を手ぐしでかきあげる。

「いったいどこの回し者かは知りませんが、あまりに無謀極まりない。今まで誰からも聞いたことなかったのですか。ここ、樹大神殿に忍び込むのは、命懸けの行為だってね」

 ようやくはっきりとしてきたそれ≠フ視界の中で、樹大神殿の司祭は笑う。
 ひそやかなその笑みは、あきらかに嘲笑の気配が混じるものだった。