第三章 @パスマ 〜邂逅〜 〈1〉

 


 それ≠ヘ用心深く、その男を観察した。

 その男の立ち振る舞いは、身なりの通り単なる神職者のそれでしかない。
 だが眼鏡の奥にあるその目は油断無く光り、神に祈りを捧げる役目につく者にしてはいささか剣呑とも言えるだろう。

 男はにっこりと唇を吊り上げた。もちろん、その目の光さえなければじゅうぶん優しげなと表現できる笑い方である。

「さて、それでいずこかの間者殿は命の恩人に対しての感謝の言葉を存じておられますかな」

 その男は丁寧に、と言うよりかはあからさまに慇懃無礼な口調で寝台の上のそれ≠ノたずねた。
 しかしそれ≠ヘその質問を完全に無視し、身じろぎ一つせぬまま、まず己の武具の有無を確かめる。体のあちこちに隠した武器が一つも損なわれていないことを確認し、気は抜かぬもののそこでようやく警戒を解いた。そしておもむろに男に問い質す。

「ここはどこだ。何故、自分はここにいる。自分の身に何が起こった」
「……本当に助けがいのない奴ですね」

 ようやく口を利いたかと思えば、ひどく簡潔で無愛想な台詞である。男はため息をつくと椅子を引きだし寝台のそばに腰を降ろした。

「ここは樹大神殿の敷地内部にある僕の部屋です。一応独立した建物ですから他の人間が来る事はないですよ。あなたは神殿の茂みに倒れているのを僕が見つけて連れて来たんです」

 そしてわざとらしく目を細めると息を吐いた。

「結構大変だったんですよ。僧兵たちの目を盗んであなたをここまで運ぶのは」
「何故、自分は倒れたのだ……?」

 しかしそんな振る舞いにまったく頓着せずそれ≠フ詰問は続く。
 闇色にも似た黒い眼がぎろりと神官をにらみつけた。その問い掛けは意図せず責め立てるような厳しさを含んでいる。

 これまでに多種多様な任務をこなしてきたそれ≠ノとって、このような失態はまったくの想定外だった。今後のことを考えるとそれ≠ノとっては無視できない疑念である。

「ここに忍び込むのは命懸けと言ったな。それはいったいどう言う意味だ」

 別段体調に不備があったわけでもない。だったら原因は外的要因にある。
 それさえ分かればもはや後のことはどうだっていい。

 あからさまにそう言わんばかりの態度に神官はつまらなそうに息を吐いた。そして鼻筋にかかった小さな眼鏡を指先でついっと持ち上げる。

「あなたは本当に何も知らないようですね。もしかしてこの手の任務は初めてですか」

 それはまるで嘲けるかのような口調だった。神官の半眼の目がどこか得意げに それ≠見る。

「いいでしょう。でしたら教えてさしあげますよ。あなたが倒れたのはね、樹大神殿の呪いを受けたからなのです」
「……!?」

 それ≠ヘ思わず目を見張った。

 外見上は仮面のような無表情にほとんど変化は無かったが、続く沈黙がその驚愕を如実に表している。神官はくくっとのどを鳴らした。

「どうやらだいぶ驚いているようですね。樹大神殿に呪いと言う組み合わせがそんなに意外でしたか」

 声には出していないが、それは明らかに図星だった。
 神殿と言うのは聖なる空間だ。そこには邪悪なものは一切入れないということになっている。特に大神殿と言えば、世界に五つしかない紛れもない聖域だ。

 けれど神官はさも当然のような顔で肩をすくめた。

「なぁに、一部では結構有名な話ですよ。神殿に限らず重要な施設と言うのは普通、精霊魔法による結界で守られていますよね。しかしこの樹大神殿だけは『呪い』の力で守られているのです」
「だがここは、『神の家』ではないのか」

 神殿の古い別称が思わず口をつい出る。神官にはそれが意外だったらしく、目をすがめ面白そうにくつくつと笑った。

「そう。『神の家』です。現にこの樹大神殿にも神の力は満ち溢れていますよ。ですが、神の物であろうと何であろうと力は力でしかなく、そこには聖も邪もない。……いえ、聖と邪の両方を兼ねそろえていると言った方が正しいかな」

 神官は胸元に輝く樹木をかたどった徽章をもてあそぶように触れる。それは調和と友愛の象徴である樹神殿の紋章だ。

「樹神ユークレースは治癒と繁栄のシンボルです。それゆえ、樹神の支配下にある木霊を使った治癒魔法が、他の精霊の力を使った魔法より効果が高いのはご存知ですね。ですが、神は一般に知られているのとはまったく反対の性質も、同時に司っているのです」

 もっともそれはすべての神に共通して言えることですが。そう言って神官はいくつか例を挙げる。

 例えば空神セレスティンは自由の象徴であり夢想と英知のシンボルであるが、同時に束縛や堕落という負の性質も司っている。しかしそう考えれば、自由を歌う空神の管理下にある風霊魔法が結界や封印生成に秀でているという事実に矛盾が生じない。
 また堅剛を旨とする海神は変化という性質も持ち合わせているし、安定を司る地神は狂気もまた支配する。

「そして我らがユークレース神の場合は、同時に憎悪と不信という性質をも司っているのです。そのため木霊魔法は治癒以外にも呪などの負の要素が強い術に対しても強い効果を発揮するというわけです」

 さらに付け加えるなら、「年」は「念」に通じることから、内に年輪をつくる樹木は呪の源となる「念」を溜め込みやすいという理由もある。

 神官は片目をすがめるとにんまりと笑った。

「木霊の呪いは強烈ですよ。あれは徐々に内蔵を腐らせていったりしますからね」

 それ≠ヘぎょっとして自らの腹部を押さえるが、神官はけらけらと声を立てて笑った。

「安心なさい。言ったでしょう、僕は命の恩人だって。あなたにかかっていた呪いは僕がきれいに解除しました。問題はないです」

 神官は何気ない仕種で立ち上がると、寝台に身を起こしたそれ≠フ枕元に移動した。それ≠ヘぎくりと体の向きを変え神官に正面を向ける。

 神官の背後には窓があった。差し込む光にそれ≠ヘ思わず目を細める。

「だけど、僕がなんの理由も無くあなたを助けたと思いますか」

 神官の指先がそれ≠ノ向けられる。筋張った指はそれの黒い眼球ぎりぎりに差し出され、そこからゆっくりと頭部に向かっていく。



  ぞくりと。


 背筋に怖気が走った。

 それ≠ヘ反射的にその手を薙ぎ払うと、素早い動作で寝台から飛び退さる。そして袖口から取り出した暗器を神官に向けた。

「……冗談ですよ」

 その過敏すぎる反応に神官は呆れたように眉をひそめた。

「悪かったですね。別に何もしやしませんから、その物騒なものを仕舞ってください。あなたにはちょっとやって頂きたい事があります」

 頼みごとをするのにその態度もどうかと思えるが、そう言うや否や、神官はおもむろに背を向けカーテンを閉めた。その背があまりにも無防備であったためそれ≠ヘためらいながらも武器を下ろす。

「……神職者と言うのは無償で人を助けるものじゃないのか」
「樹神ユークレースは友愛の象徴ですよ。助け合いの精神が大事だと思いませんか」

 むっつりと非難してみるが、笑ってそう返される。
 光度の落ちた室内で神官は寝台に腰を下ろした。もはや相手がそこに横たわるつもりが無いのを見て取ってのことだ。一応神官は椅子を勧めるが結局それ≠ヘ動こうとはしなかった。

「この樹大神殿に忍び込もうとするからには何か目的があるのでしょう。何が欲しいのか、あるいは何を知りたいのかは存じませんが、できる範囲内でなら協力して差し上げましょう。その代わり、……取引です」

 薄暗い部屋の中で、神官の目が不敵に光る。

「あなたには僕の代わりに、この僕を落としいれようとしている愚か者の尻尾を掴んで頂きます」

 


 
  

 
 
 

 自分の手足となって働け。
 そう言う神官をそれ≠ヘじっと見た。

 神官の表情はそのふざけた口調に反してかなり真剣である。たぶん伊達や酔狂での申し出ではないのだろう。しかし――、

「断る」

 それ≠ヘあっさりと拒絶の言葉を口にした。

 それ≠ノは申し出を受ける理由がどこにも無かった。
 確かに一度目の侵入は失敗したが、原因さえ判明すれば対処法を考えることは不可能ではない。それが分かっていてわざわざ余計な面倒を引き受ける理由はなかった。
 それ≠ヘそう判断したが、神官はゆっくりと首を振る。

「駄目ですよ。あなたには断る権利はない」
「自分は助けてくれと頼んだわけではない。お前が勝手にしたことだ。その行為を理由に取引を強要することはできない」

 有無を言わさぬ神官の言葉にそう吐き捨てる。しかし神官はにやりと口元をゆがめた。

「そういう事じゃあない」

 神官は小声で何かを呟きはじめたが、その行為には目もくれずそれ≠ヘ背を向け部屋を出ていこうとする。
 けれど、数歩も歩かぬうちに床に膝を着いた。

 自分の意思でしたことではない。
 強烈な眩暈が突然それ≠襲ったのだ。

 



 

 ひどい吐き気が胸元に込み上げ、脳髄の奥で白い光が危険な点滅を繰り返す。
        視界が回る。
   足元が揺らぎ、どちらが床でどちらが天井なのかも定かではない。

 
    無様に倒れないのが不思議なほどだ。
 

 目眩と呼ぶにはあまりに強い異変。

 けれどこの感覚には覚えがあった。
 そう、これは樹大神殿に侵入した時の――、

 



 

「――っ!」

 眩暈は起こったときと同じくらい唐突に収まった。

 それ≠ヘはっとして神官を振り返る。神官は寝台に座ったままの体勢でにやりとほくそ笑んだ。

「忘れてましたか。あなたの呪いを解除したのは僕ですよ。だったら、再び掛けるのも容易いとは思いませんか」

 そういけしゃあしゃあと言ってのける。
 当然のことながら、それ≠ヘ自ら呪いを解くすべを持っていない。即効性があるわけではないにしろ、それは命を握られているのと同様のことだった。

 それ≠ヘぎりりと歯を食いしばる。それこそ呪い殺しでもしそうな目で睨みつけられ、神官は困ったように肩をすくめた。

「別にそれほど損な取引じゃないはずですよ。僕はこの神殿では司祭……、ようするに結構高い位にいるから色々な面であなたに融通を利かせられるし、あなたも呪いの問題さえ解決すれば楽に行動することができるはずだ。お互いにとって良いことばかりじゃないですか」

 そう言われそれ≠ヘむっつりと黙り込む。確かにそのことは否定できないだろう。
 ――しかし、もはやこれは頼みではなく、命令だ。

「さあ来て下さい、協力者どの。契約を交わす代わりに、互いの名でも交換しましょう。僕の名前はアルシェ・エヴァグリーン。樹大神殿の高位神官です。あなたの名前はなんと言いますか」

 神官は笑って手招きした。
 その笑みは聖職者のそれと言うより、魔の誘惑にほど近い。

 苦々しげに顔をひそめていたもののそれ≠ヘとうとう観念した。不服そうに眉根を寄せ、乱暴に、しかし物音一つ立てず椅子に腰掛ける。

「……自分には名前と言うものは存在しない」

 だから名も無き影≠ヘこう言った。

「ゆえに自分のことはこう呼ぶがいい。『パスマ』……。イルズィオーンのパスマが、自分たちを示す記号だ」