第三章 2、「罠はひそかに」(4)

 


 巻き上げられた砂礫がジェムたちの身体を容赦なく打つ。
 凄まじい烈風が草原を荒れ狂い、その風になすすべもなく翻弄される妖鳥をジェムたちは呆然として見ていた。

 どのような術を用いたのかは分からないが、これほどまで絶大な効果を示す魔法はそうそう見ることはできないだろう。ぽかんと口をあけて上空を見ている彼らをシエロは急かす。

「だから逃げるぞって言ってるだろっ。これ効果はそんなに長くないんだから、悠長に見学している暇はないの!」

 彼らははっと我に返って走り出す。シエロの言葉を証明するかのように、一時は目を開けることもままならなかった風の勢いは徐々に弱まりつつあった。

 彼らは必死になって森を目指す。
 背後からはけたたましい鳥の声。どうやら早くも追いついてきたらしい。

「これは徒競走、これは徒競走……」

 シエロが何かを口の中でぶつぶつと唱えている。体力の所為かもって生まれた運動神経の所為か、人一倍遅れがちなジェムの手をバッツが引いて走っていた。

「よし、もう少しで森だ! 皆急げっ」

 先頭を切っていたゼーヴルムが歩調を緩めて大きく手を振るう。
  と、その時。

「シエロさんっ、そこに人が!!」

 ジェムが悲鳴のように声を張り上げた。
 森のすぐ手前に小さな人影が一つ呆然と立ち尽くしている。何が起きているのかいまいち把握できていないようで、逃げようともしていない。

 シエロはちらりと背後を振り返り舌打ちした。妖鳥はもうすぐそこまで来ている。このままではあの人物も巻き込まれる可能性が高い。
 シエロはそのままその人物のそばまで走ると、掻っ攫うようにしてその腕を掴み森に駆け込んだ。

 それに続くように、彼らは雪崩れのように森の中に逃げ込んだのであった。







「よ、よし……、ここまで来ればひとまずは安心かな」

 森の奥深くまで逃げ込み、ジェムたちはようやく足を止めた。
  頭上には木々の枝葉が密に茂り、空から発見され襲われるということはないだろう。それでもシエロは念とためと言って精霊魔法の防御壁を展開する。

「つうか、普通に戦った方が疲れなかったかも知れん……」

 腐葉土の上に両手両足を広げて寝転がり、バッツは荒く息を吐く。長距離間の全力疾走のため、誰もが息も絶え絶えな様子で地面に座り込んでいた。

「しかし、シエロ・ヴァガンス。いつの間にか一人増えているそいつはいったい誰だ」

 ゼーヴルムは何の違和感なく巡礼者たちに混じって呼吸を整えているその人物に訝しげな眼差しを向けた。シエロは今ようやく思い出したと言わんばかりにぽんと手を打つ。

「ああ、その人は俺らの進行方向に居たもんだからさ、巻き添え食わしちゃ悪いと思って連れて来ちゃった」
「連れて来ちゃったじゃないだろう……」

 可愛らしく笑って見せるシエロに、ゼーヴルムは深々とため息をついた。
 むしろこれ以上ないというぐらいに巻き添えを食らわせてしまっていると思うのはジェムの気のせいだろうか。

 非常に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらその気の毒な人物に目をやったジェムは、そこでぽかんと口を開けた。そこに居たのはジェムにとってすごく見覚えのある人物だったのだ。
 その人もまた、驚いたように大きく目を見開いた。

「あ、あなたはっ……!」

 そして柔らかそうな白い髪を揺らして、シエロに飛びついた。

「セルバはっ、貴女みたいに綺麗な人を見たのは初めてですっ」
「へっ!?」

 ジェムは呆気に取られる。

「その髪は最高級の絹糸を月の光で染め付けたようだし、瞳の色なんて未明の空を映した湖面の煌めきそのものだ! ど、どうかセルバと結婚を前提にお付き合いしてもらえませんかっ」

 翠色に瞬く右目は熱心にシエロを見つめている。
 シエロはその様子をまじまじと見ていたが、ぶほっと吹き出すと堰を切ったように大笑いし始めた。

「ねえねえねえっ、今の聞いたかい? 俺こんなに情熱的に口説かれたの生まれて初めてだよっ。相手が男でなきゃ、俺この申し出受けたかもっ」

 そして苦しそうに地面にうずくまり、またけたけたと笑い出す。
 なんだか訳が分からない様子でシエロを見ている彼がさすがに気の毒になり、ジェムはその少年の肩をぽんと叩いた。

「あの、セルバさん。シエロさんは男性なので、たぶんあなたの申し出は受けられないと思うんですけど……」

 恐る恐るそう告げたジェムを振り返った少年は、またしても驚いたように目を見開いた。

「あれ、君は……?」
「あの、覚えていてくれてますか?」

 ジェムは心配になっておずおずと尋ねるが、そんな憂えとは裏腹に少年はぱっと顔を輝かせた。

「うんっ。ヴィリディスの街で会った子だよね。大丈夫、ちゃんと覚えているよ。あの節はどうもありがとうっ」
「ジェム、知り合いか?」

 ゼーヴルムの問いにジェムはうなずいた。

「はい。ヴィリディスの街でちょっとした縁があって」
「セルバが道に迷って困ってるところを助けてもらったんだ」

 唯一明らかになっている右目を少年は嬉しそうに細める。

「ああ、旅行案内本を大量に持ってたって奴だな」

 先日ジェムから聞いた話を思い出したのか、バッツが一冊のガイドブックが入っているはずのジェムの荷物をちらりと見た。

「こんな所でも会えるなんて、素敵な奇遇だよ。セルバはね、セルバ・シプレースって言うんだ。皆さん、どうぞよろしくね」

 彼はふにゃりと、例の気の抜けるようなのん気な笑みを浮かべた。それからおもむろに振り返ると、ちょっと悲しげな顔でシエロを見やる。

「それで、あのう……、男の人だって本当かしら?」
「うん、ホント。何なら脱いで見せようか」

 襟元を開き、シエロが婀娜っぽく片目を瞑る。妙に色気漂うその仕種に、ジェムは洒落になってないとちょっと頭を抱えた。

「あの、セルバさん。セルバさんはあれからちゃんと樹大神殿に着けましたか」

 ジェムがそうたずねるとセルバは嬉しそうにうなずいた。

「うん、ちゃんと着けたよ。でも中に入れて貰えなかったんだけどね」
「す、すみません。ちゃんとそこまで伝えておければ良かったんですけど」

 ジェムは申し訳なさそうに俯いて恐縮する。やっぱり彼も神殿で門前払いを食らってしまったようだ。
 けれどセルバはにっこりと笑って首を振った。

「ううん、それはいいの。それは仕方がないことなんだよ」

 優しげにそう言われ、ジェムはほっと胸を撫ぜ卸した。

「でもセルバは何でいま、君たちとここに居るのかな?」
「あああ〜、す、すみませんっ」

 不思議そうに首をかしげるセルバに、ジェムはまた別の意味に恐縮した。もうそれについては平に頭を下げるしかない。

「あのぅ〜、セルバさんは今いったいどこへ向かってる最中なんでしょう?」

 自分たちの事情に巻き込んでこんな森の奥のほうまで連れてきてしまった償いに、もしまた道に迷っているなら送っていこうと訊ねたジェムだったが、返ってきた答えはかなり意外だった。

「セルバはね、樹大神殿に入れてもらえなかったから今度は『始まりの神殿』に向かっているんだ」
「おいおいっ。『始まりの神殿』っつったら、まったく逆方向じゃねぇかよ」

 バッツが呆れたようにつぶやく。
 『始まりの神殿』があるのは北の大陸だ。ヴィリディスの街からノルズリ大陸に行こうとするなら、北に向かわなければ行けないのにこれではまるっきり逆さまである。

「あれ?」

 セルバはにっこり笑顔のまま不思議そうに首を傾ける。
 やっぱり分かってなかったのかと、巡礼使節の面々はがっくりと肩を落とした。

 とんでもない性格の彼に苦笑しながら、シエロは少年に話しかける。

「でもさ、樹大神殿に行って『始まりの神殿』にも行くなんてまるで巡礼者みたいだね」

 ただし彼みたいな筋金入りの方向音痴が巡礼に赴こうしたら、いったい何年かかるか分からないが。
 そう思って苦笑する彼らだったが、しかしセルバはこともなげに答えた。

「うん、そうなの」

 少年はえへんと胸をはって、それから少々照れくさそうに左目の眼帯をいじりながら答えた。

「セルバはね、五大神殿に選ばれた少年巡礼使節の一員なんだよ」

「てめえかああっ、最後の一人っっ!!」

 驚愕も疑念も何もかもさし置いて。
 あっけにとられる巡礼者の前で、誰よりも先に繰り出されたバッツの蹴りが、猛々しい怒鳴り声と共にセルバの後頭部に炸裂した。