第三章 @パスマ 〜探索〜 〈1〉

 


 パスマは暗い天井裏を這うようにゆっくりと進んだ。

 建物の構造上わずかに開いたこの空間は、長らく人の手が入っていないようで埃がまるで雪のように厚く積もっている。
 レースのカーテンのように所々に釣り下がる蜘蛛の巣を器用に避けながら、しかしパスマはほとんど埃に足跡を残していなかった。

 例え人の目に触れにくいところであっても、自分の居た痕跡を残すようでは玄人とはいえない。
  否、『パスマ』だけではない。イルズィオーンに属する駒はすべて、この程度の身のこなしは習得しているものだ。

  イルズィオーンはいずれ駒となる子供を、幼いうちから適性に合わせた修練を積ませ育てる。
 諜報員としてか、護衛としてか、暗殺者としてか。どの適性を持つかによって受ける修練の内容は大きく変わるが、共通して学ぶこともいくつかある。それは肉体的、技術的なものに限って言えば軽業師にも似た身のこなしだろう。
  もともとが『地の民』と同じ種族を起源に持つこともあってかイルズィオーンの民は小柄で身の軽い者が多い。それが彼らの武器の一つとなっていた。

 今となっては同胞以外に知る者はないが、イルズィオーンという組織はもともとは創世の五大神以外の神、死と運命の神『ジェオード』を信奉する一族だった。
 しかしジェオードを信じる者は時代が進むにつれ忘れられ、次第に迫害されるようになる。そしてとうとう一族は闇に身を潜めざるを得なくなった。
 やがて彼らは表の世界では生きにくいこと、死を司る神の信奉者という歪んだ自負心から徐々に暗殺者へと変貌していく。さらに殺し屋、間諜などとして世界の暗部の様々な部分に関わるようにまでなっていった。

 イルズィオーンという名の組織を知る者、利用する者はこの世界、特に身分の高い者の中には多く居る。けれどその者たちはイルズィオーンが自分たちの否定した死の神ジェオードの民である事を知らない。またイルズィオーンもそれを明かさぬまま彼らに『駒』を提供している。
 しかし彼らはかつて己を追放した者たちに復讐するかのように、今でも人を殺し、情報を盗み続けている。



 天井部、パスマの居る所からすれば床に当たる部分にわずかに亀裂が走っている。
 その天井板の隙間を覗き、現在の位置と警備の状態を確認して、ふたたびパスマは身を走らせた。
 目指すのはとある高位神官の自室。そこにアルシェを陥れようとする者の弱みがあるとのことだ。

「僕の見立てによればね、あいつらは大神官暗殺なんて大それた悪事を成し遂げられるようなたまじゃない。はっきり言って小物に過ぎないよ。だけれどね、彼らだって犯人の可能性がまるきりないわけじゃない」

 だから油断はしないほうがいいよ。 出立間際にアルシェはそうつぶやいた。どうやら気を付けろと言う親切心らしいが、パスマにとっては無意味な助言である。
  どんな無謀な任務であっても、一度主から命が出ればそのいのちと引き換えにしても命令を遂行するのが『パスマ』という駒だ。だからこそ『パスマ』は便利な道具として好まれ、利用される。
 アルシェは本来の主というわけではないので、命を掛けてまで成し遂げようとは思わないが、危険を恐れ足踏みするということは『パスマ』にはありえない。

  もっとも今は心配などまるで意味を成さなかった。むしろ呆れるほどに楽な任務だ。
 入るときはかつて無いほど苦労した樹大神殿だが、一度内部に侵入してしまえばこれほど警戒の緩いところもないだろう。
 もちろん誰もが自由に中を歩き回れるようなことはないが、それでもパスマのような間諜紛いの人間が自在に動けるようでは危機管理がまるでなっていない。これでは地方の豪族や王侯貴族の館のほうがよほど警備は厳重だった。

  それでも一応、部屋によっては多少の人避けの結界なども張ってあるが、一般人はともかくパスマにとっては障害とは言えない。この程度の結界の無効化はとっくに習得済みだ。

  もちろん、どれほど楽な任務であろうと慢心して油断するようなことはパスマにはない。それは感情を持つ人の犯す失敗だ。
  イルズィオーンの民が幼少時から共通して仕込まれることは組織と主人への絶対的な忠誠心、そして『自己』の抹消だった。
  『駒』としての分を超えた感情、自意識、欲望などはすべて否定され消去される。

  人間ではなく優秀な道具であること。

  それがイルズィオーンの民に求められるすべてだ。
  そのためには個人の感情、さらには自己というものさえも邪魔になる。
 主のため。組織のため。一族のため。自己を捨て道具になりきる。影であり続ける。
  それは彼らにとっては至極当たり前のこと。疑うことすら考え付かない。パスマもそれは当然の事として認識しているつもりだ。
  しかし、そんな申し分の無い精神状態とは裏腹に、肉体は拒否反応を起こすように理由の分からない不調を起こす時がある。

 今もそうだ。

 パスマは突然眩暈を感じて、壁に手をついた。
  どん、と小さく音が響く。隠密行動においては音を立てるということは致命的な失態だ。
  パスマは焦燥に顔をしかめるが、そんな感情を打ち消すように断続的な痛みが脳髄を走る。


 (これ――、)
     (……のまま……、で……ない――、)
        (しか――、…………いる)
    (処――には……しい)
  (だが…………ではや――、)


 痛みに紛れて、いくつもの声が脳内に反響する。
 何を言っているのかは分からない。しかしその声は時々どうしようもなく、パスマの心を掻き乱した。

 
  (こ――、……るで……人――思……る……、)


「……ぐうっ……っ」

 不意に強い吐き気を覚え、パスマはその場にうずくまった。
 実際に嘔吐するまでは至らなかったが、苦い唾が咽喉元をせり上がる。
 パスマは荒く弾む息を懸命に整えた。 そして薄目を開けて足元を窺い、自分の存在に気づいたものが居ないことを確かめてほっと息をつく。同時に眉間に深い皺が寄った。

 このように身体に変調をきたす様になったのは、ごく最近になってからだ。前回の任務を終了したあたりから、時たま激しい頭痛と幻聴に襲われるようになった。組織にこのことが知られれば、不良品として処分を受けるかもしれない。
 しかしこれは任務に支障をきたすほどではないと、自分で判断したパスマはこのことを誰にも告げていなかった。
  命を惜しんだわけではない。だが、パスマはごく自然にこの変調を隠すことを選択していた。
  だがそうした判断を己の考えで下すこと自体が、イルズィオーンの駒の正しいあり方からは外れていることを、パスマは気づいていない。



 原因不明の発作が完全に治まるのを待って、パスマは再び行動を開始した。
 標的の部屋へは何の問題も無くたどり着けた。 そこは聖職者にしては過分なほどに豪奢な品をやたらと飾り付けた部屋だ。あちらこちらが金ぴかで目に痛い。この部屋を使う者の趣味を思わず疑ってしまいたくなる。
  パスマはとっとと忍び込んで目的を果たしたかったが、まだ中に人がいるのを確認してそのまま天井裏に潜んだ。
  そこでは二人の男がひそやかな言葉を交わしていた。

「……して、準備の方はいかがかな」
「まあ、順調な様子ですね。根回しの方もあと少しで完了いたしますし」

 これは何の密談だろうか。
 パスマは何とはなしに耳を澄ます。

「西の方の反応はいまいちでしたが、北と南はまずまずです。細かい内容の詰めは南が受け持つそうですよ」
「西はもとより外界との接触を絶っているからな。しかし南はどちらの南か」
「海の方です。砂の方は、ほら、所詮北の傀儡に過ぎない」
「ああ、たしかにそうだな」

 何の会話だ。
 二人の男の交わす話の内容はパスマにはいまいち理解できない。しかしその後の会話はパスマの関心を引くのに十分な内容だった。

「しかし、何とも困ったことになったものだな」
「ええ、まったくです。目障りだったのは確かですが、こんなにいきなり死んでしまうとなるとこちらとしても計画が狂ってしまう」
「老い先短いのは分かりきっていたことだ。後継者について何か言い残してから死ねばよかったものを」

 彼らが言っているのは無論大神官のことに違いない。しかしこの会話からすれば、どうやら彼らが暗殺の犯人ではないようだ。
 さらにその後が問題だった。

「大神官といえば、ほらあの爺がお気に入りだった司祭、何といったかな。奴がなにやら企んでいるらしいではないか」
「エヴァグリーンですね。しかし捨て置いて構わないのでは? 所詮まだまだ青い若造に過ぎない。できることは限られていますよ」
「かも知れん。だがあ奴は外面は良い分、何を考えているか計れんからな。奴はあの年にしては知略に長けておるし、目的のためなら冷酷にもなれる。わしは奴が大神官を殺していたとしても不思議とは思わんぞ」
「は? しかし彼は大神官の養子ではないですか。恩のある、しかも育ての親を殺したというのですか」

 男が驚いたように息を呑んだ。もう一方の男の声に呆れたような色が混じる。

「奴が大神官を嫌っていたのは神殿内では有名だったぞ。どこの馬の骨とも知れん餓鬼を拾って育てたはいいが、その餓鬼に殺されるようでは大神官も耄碌したものだな」



 パスマは物音一つ立てずに身を翻すと、たちまちもと来た道を駆け戻った。
 人目に付かぬように離れの住居棟に侵入すると、部屋ではアルシェが何食わぬ顔でベッドに腰を下ろしていた。アルシェはパスマに目を留めると、なんとも楽しげな笑みを浮かべる。

「どうだったかい。頼んでいた物は見つけられたかい」

 しかしパスマはその言葉には答えず、逆に厳しい調子で問いを投げかけた。

「貴様が、暗殺された大神官の養い子だというのは本当か」

 アルシェはわずかに目を見張る。そしてうっすらとその口元に笑みをのせた。

「うん、そうだよ。僕は十数年前にあの人に拾われた人間だから」
「ならば大神官が不仲だったというのは本当か」
「まあ人が見て羨むほどの仲の良さと言う訳じゃあなかったね」

 これまたあっさりと答える。

「貴様の指定した部屋の人間に、貴様を陥れようとする様子は無かった」

 パスマはアルシェをまっすぐに睨みつける。

「貴様が大神官を暗殺したのか」

 アルシェは同じようにパスマを見つめ返していたが、やがて身を二つに折りくつくつと笑い始めた。その様子は冗談にひどく受けているようでもある。
 そしてアルシェは不意に鋭い眼差しをパスマに向けた。

「これだけ時間をかけて、調べてきたのは僕のことだけかい? この無能め」

その瞳はまるで刃物のように危険にきらめいた。