第四章 2、イア・ラ・ロド(2)

 


「まったく船長が忙しいなんて、よく言うねぃ」

 背後から聞こえてきた声にジェムはびくっとして振り返った。
 ここに取り残されたのは自分だけではなかったことを、ようやくにして思い出した。

「船長殿よりご紹介を受けたまわりやした、下っ端っす」

 彼はにんまりと、おどけたような笑みを浮かべた。

「おまえさん、随分とおかしらに気に入られたみたいだねぃ」
「あの、そうなんですか?」

 かって知ったる態度でベッドの縁に腰をおろす青年を見ながら、ジェムはおずおずと尋ねた。

「そうさ。捕虜だの何だのは、あの人流の冗談だから。たぶんどっかの港に停泊したときにでも降ろして貰えるんじゃねぇかい」

 青年のその言葉にジェムはようやくほっと胸を撫ぜ下ろした。とりあえず自分がずっとこの船で働かなくてはならないという危惧は解消できたようである。
 ジェムはさっそく自分の世話を任されたらしい青年に向かって深々と頭を下げた。

「あの、ジェム・リヴィングストーンです。どうぞよろしくお願いします」
「そりゃそりゃご丁寧にどうも」

 青年はにやりと笑って肩をすくめる。

 彼は典型的なギュミル諸島の人間だった。
 浅黒い肌に、黒髪黒目。上背はあるけれども線は細く、その身体はまだ完成されきっていない節がある。だからまだ年は二十歳そこそこと言ったところだろう。
 くるくるとよく動く目は大きく愛らしく、しかし同時に機知に富んだ悪戯っ子のように油断なく輝いていた。

「しかし残念。ここじゃあ、名前なんて大した意味は持たねぇんでさぁ」
「そう、なんですか?」
「そうなんですねぇ」

 不思議がって首を傾げるジェムに彼はくすくすと笑いながらうなずいた。

「どいつもこいつも適当にあだ名で呼びやがるから、名前なんて本っ当に意味がない。ぼかぁ、新入りだっつう事でずっと下っ端呼ばわりでさぁ」

 だからやっと自分より新しい人間ができて嬉しいと彼は笑う。

「おまえさんなんかたぶん、そのまんま『ノルズリ』だとか呼ばれそうな気がするねぇ」
「そ、それはちょっと……」

 ジェムはヒクリと笑みを引き攣らせる。さすがにそれはそのまんま過ぎじゃないかと思う。

「で、でもあだ名で呼ぶのが流儀だとしても、ぼくはあなたを下っ端なんて呼べませんから名前、教えて貰えませんか。あっ、もちろんお嫌でなければなんですけど」

 ジェムがそう頼むと彼はおやっと眉を持ち上げた。

「『下っ端』の他にも、『詐欺師』やら『貴族』やら色々あるけど」

「あの、やっぱりそれも呼びにくいのでできれば名前で」

 彼は少し考えていたようだけれど、やがてにやりと笑って答えた。

「エジル」
「えっ」
「ぼかぁ、エジルというんでさぁ。短い間だろうけど、まぁよろしく頼みまさぁ」
「ええ。どうぞよろしくお願いします」

 ジェムはにっこりと微笑んだ。

「もし身体が平気そうなら、この船案内するけどどうする?」

 エジルの言葉にジェムはうなずいた。

「ご迷惑でなければお願いします」
  
 

       ※  ※  ※


 

 この船はマーテル号に比べると一回りほど小さいようだった。

「まぁ、あんまり図体ばかりでかいと船足が鈍るからねぃ」

 海賊は出足と逃げ足が肝心だ、とエジルと名乗った青年はけらけらと笑う。

「ところでおまえさんはギュミルの言葉は喋れるかぃ?」

 荷物が乱雑に転がる薄暗い廊下をすたすたと歩きながらエジルが訊ねる。慣れないジェムは転ばないように注意を払いながら小走りに彼を追いかけた。

「はい。その、あんまり流暢には話せないんですけど」

 ジェムは言葉をギュミル諸島のものに切り替えて答える。

 これまで彼らが話していたのはずっとノルズリ大陸の言葉だった。
 この世界ではノルズリ大陸の言語が半ば共通語として使われていることもあって、どこに行っても大抵北の言葉が通じる。けれど、もちろんそれがすべての土地に言える訳でもなかった。

 ジェムにとっては後から知ったことだが、彼ら巡礼使節が選ばれる基準のひとつとして、ノルズリ大陸の言葉を含む最低三つの大陸の言葉を喋れるというものがある。
 もっともある程度教養を持った階級の人間であれば、複数の大陸の言葉を操れるのはそう珍しいことではない。

「それで充分でさぁ」

 エジルはにやりと微笑んだ。

「ここにいる奴らのほとんどがまともな教育を受けてきてないんでねぃ。悪いけど主な会話はギュミル諸島の言葉になっちまう。船長をはじめとして役職付きの奴には話せる奴もいるから、まぁまったく通じないということは無いだろうけど」

 そう言って砕けた調子で肩をすくめた。
 そういう彼はまるでノルズリ大陸の人間のように流暢に言葉を操るが、たぶんだからこそ彼は船長からジェムの世話を申し付かったのだろう。

「でもお世話になるんですから、やっぱりその大陸の言葉でご挨拶したいなとぼくは思います」

 ジェムは小さく首を振った。

 
 いくら自分の国の言葉が大抵の場所で通じるからといって、他の大陸の言葉をまったく知らなくていいとは思わない。
 自分たちの言葉が通じて当然だという傲慢な思いは訪れた国の人に対して失礼だし、彼らと親しくなる際には妨げにしかならない。
 しどろもどろで未習熟な言葉は、相手にとっては聞き難いだけかも知れない。けれど、相手の言葉を少しでも知っていれば、その文化を理解したいという自分の誠意だけは伝えることができるだろう。
 

「いいねぃ。そういう考えは、ぼかぁ好きだな」

 エジルはちょっと目を見張ると、満足そうに笑った。そしてジェムの頭をがしがしと乱暴に撫ぜる。

「ただおまえさんが仲良くしたいと思ってくれても、この船の中にはそう思わない連中も多少はいるんでねぃ。そこらへんはどうか勘弁してやってくれなぁ」

 ジェムはびっくりしてエジルを見上げた。エジルはちょっと困ったように笑うだけであったが、ジェムははっと思い出した。

(だってオレ、ノルズリ人って嫌いなんだよ――)

 マーテル号で顔をあわせた時、ダリアは確かにそう言っていた。ならばこの船の中に、同じように考える人間が他にいないとどうして考えられよう。

 自分がこの諸島に来るのは初めてのこと。ようするに自分個人が嫌なのではなく、ノルズリ大陸の人間が嫌われているということなのだろう。
 どうしてギュミル諸島でノルズリ大陸が嫌悪されているのかはジェムは知らない。しかし以前知ることになったノルズリ大陸とアウストリ大陸の確執、そしてスズリ大陸との歪んだ関係を思えば今回のことも想像に難くなかった。

(どうして、ノルズリ大陸は他大陸の反感を買うことばかりしているんだろう……)

 自分の大陸の行為にやりきれなさを感じたジェムは、眉をひそめて鬱々と下を向く。しかし小さく首を振ると思い切って顔を上げた。

(落ち込んでちゃ駄目だっ)

 確かにノルズリ大陸のすることは自分でも嫌になることばかり。しかし自分がその責任から俯いていてはいけない。
 自分の属する大陸の行いはけして忘れることなく、ずっと覚えてなくてはならないことだろう。だけどそこに自分がいつまでも負い目を感じて卑屈になる必要はない。

 むしろ自分は迷惑をかけた大陸の人たちに、ジェム・リヴィングストーンという一人の人間として見てもらえるよう努力していかなくてはならないのだ。それが結果的に彼らがこれから関わるかもしれない同胞のためにもなる。

(ぼくはバッツさんに、そう教えてもらったから――、)

 そうやって気持ちを入れ替え、気合を入れて歩き始めたジェムである。けれど、それを見ていたエジルがおもむろにぷっと吹き出したのを見て、ジェムは首を傾げた。

「……? どうしたんですか」
「いやいや、何とも分かりやすいと思ってねぃ」

 ジェムは途端に顔を赤くして俯いた。どうやら自分の思考回路は彼に筒抜けだったようだ。これはちょっと恥ずかしい。

「まぁ、気にしないでくれるならそれにこしたことは無いねぃ。僕も君のこたぁかなり気に入ったから、どうかめげずに皆とも仲良くしておくんなせぃね」

 エジルはくすくす笑ってジェムの手を引いた。目の前の短い階段には真っ白に光って見えるほど眩しい光を浴びている。これをのぼれば甲板なのだ。

「それじゃあ皆にお披露目だ」

 ジェムは強い日差しに目を細めながら、一息に階段を駆け上った。


 
 

「ちぃーっす。おかしらのお気に入りが目ぇ覚ましましたぜぃ」

 甲板の上に立ったエジルは、何とものん気に声を張り上げる。ジェムはかなり気恥ずかしく感じたが、それでも俯くことなくまっすぐに顔を上げていた。

 甲板には十数人から二十人ほど男たちがいた。彼らはそれぞれの作業をしているようだったが、エジルの声に振り返りわらわらと近寄ってきた。

 皆ギュミル諸島の生まれなのだろう。ジェムからすれば見上げるほどの大男たちばかりで、覚悟はしていたもののそれでもさすがに腰が引けた。彼らはまじまじとぶしつけな眼差しで物珍しそうに自分を見ている。

「下っ端ぁ、こいつが例のガキか」

「なんつぅか、ちっせぃ奴だなぁ」

 あなたたちが大きいんですとはさすがに言えず、ジェムは思い切ってぺこりと頭を下げた。

「えっとその、これからお世話になりますっ」

 ギュミルの言葉でそう言った途端、おぉ〜と周囲からどよめきが起こった。

「しゃ、しゃべったぞ」
「ノルズリ人じゃなかったのかよ」

 なにやら驚いている彼らに、エジルはけらけらと笑ってジェムの頭をぽんぽんと叩いた。

「こいつはノルズリ人だけど、僕らの言葉もちゃんと話せるんでさぁ。だから仲間として認めてやってくだせぇね、皆さん方」

 戸惑ったように顔を見合わせていた海賊たちだけれど、そのうち一人が前に出てきてしゃちほこばった顔でうむとうなずいた。

「まぁ、一度船に置くと決めたしな。船の一員として認めてやろう」
「しかし船長ばかりじゃなくて、おめぇもだいぶ気に入ったようだな」
「僕にとっちゃあ、初めてできた新入りっすからね」

 エジルは照れるように笑った。

「でもいくら下が入ってきても、てめぇが下っ端であることには変わりねぇけどな」
「ぐはっ。ひどいっすよ、カイガラさんっ」
「カイガラ?」

 あまり名前らしくないその単語にジェムは首を傾げた。
 エジルにカイガラと呼ばれたその男は、笑って懐から貝殻を取り出した。

「おれは貝殻集めが趣味だからな、皆からカイガラと呼ばれてんだ」

 やるよ、と言われ手のひらに入るほどの白い綺麗な貝殻を渡される。ジェムは思わず相好を崩した。

「うわぁ、綺麗だ。ありがとうございます」

 素直な気持ちでお礼を述べると、カイガラは途端に照れたように顔を赤らめた。

「お、おう。そんなものでよけりゃいくらでもあるぞ。もっとも見せてやろうか」

 ジェムが答える前に、エジルがジェムの襟首を引っ張った。

「だめっすよ。これから僕が船の中を案内する予定なんですから。自慢話はまたあとでお願いしまさぁ」
「そうだな、カイガラの自慢話は夜が明けてもおわらねぇからな」

 笑いながら仲間から揶揄されて、カイガラは肩をすくめる。遠慮のない言葉の応酬だけど、どうやらこれがこの船の日常らしい。

「どうせだからこいつにも何かあだ名を付けてやるか」
「ノルズリ人だから、ノルズリはどうだ」
「そりゃ、わかりやすくていいな」

 エジルの言ったとおりになりそうで、ジェムは思わず顔を引き攣らせる。しかし別の誰かが違った案を出した。

「それより下っ端の弟分だから小童(こわっぱ)っていうのはどうだ?」

 みんな一瞬きょとんとしたが、そのあとすぐに大爆笑が起きた。

「そりゃあいいっ。見事な命名だ」
「ちっせぃこいつにはぴったりだな」

 そう言って上から押さえつけるようにぐしゃぐしゃと頭を撫ぜられる。
 まだ思わぬところが無いわけではない呼び名ではあったけれど、肩をすくめて笑うエジルを見てこのあたりで妥協するしかないと諦めた。

 たぶん海賊のあだ名というのはそういうものなのだろう。
 エジルにしても『下っ端』に『詐欺師』に『貴族』だし。