第四章 6、精霊が紡ぐ歌(4)

 


 船長ダリアの許可を得て、シエロとジェムは主檣を登っていった。
 途中の戦闘楼を越えてからはジェムがまだ登ったことがない高さになったが、覚悟を決めたジェムは四苦八苦しながらもどうにか一番高い所まで登りきることができた。
 主檣最上部の檣楼は本当に高く、下を見ると眩暈がして足ががくがくと震える。だからジェムはしっかりとマストにつかまり、なるべく下を見ないようにしていた。
「あの、シエロさん。ぼくはここで何をすればいいんでしょうか……?」
 ただでさえ自分にできることは少ない。それなのにこんな高所では普通にできるようなことですら、おぼつかないだろう。
「うん。ジェムには俺が落ちないように見ていて欲しいんだ」
「落ちる……?」
 果たしてシエロは何をするつもりなのだろうか。
 シエロは振り返ると、悪戯っ子のような眼差しで笑った。
「ジェム、ここで見たことは他言に無用で頼むよ」
 からかうような口調に反し、その目に浮かぶ光は真剣で、ジェムはこくりと小さくうなずく。シエロは嬉しそうに笑うと、改めて檣楼の端に立ち海を臨んだ。そしてこほんと咳をして喉を整えると、シエロは朗々と声を響かせはじめた。

『――ナ・ノーメン・デ・ラ・アーヴェル・アデリーン・アウィル』

 それはジェムの知らない異国の言葉だった。たぶんシエロの生まれたヴェストリ大陸の言葉なのだろう。

『ヴェント・アネモス、ゼア・ヴィズ・タリーズ……』

 しかし知らない国の言葉であるはずにも関わらず、どこかで聞いた覚えがある気もする。
 いったいそれはどこでだったか、と考えていたジェムははたと気がついた。
それは東の大陸の聖域を訪れたとき、フィオリを仮の巡礼者とした際に唱えていた言葉と良く似ている。その時もいったい彼がなんと言っているのかジェムは気になっていたが、その答えは意外なほどあっさりともたらされた。
「風であり鳥であり空の一部である者の名において、汝らが領分を侵すことを赦し給え――か。相変わらず、随分と古臭い喋り方をするもんだな」
「ダリアさんっ!?」
 ぎょっとして視線を向けると、主檣からダリアが顔を覗かせていた。
「よおっ」
 道端で偶然旧友と顔を合わせたと言わんばかりの様子で手を振るダリアに、ジェムは思わず目を見張った。
「な、何でここにきているんですかっ」
「なんでもなにも、この船の船長はオレだぞ。オレがいちゃいけない場所なんてあるわけないだろうが」
 そうは言いつつも、シエロの邪魔をする気はさらさらないようで檣楼に上がることはせずダリアはジェムにたずねる。
「こいつはいったい何をしようとしているんだ?」
「ええっと、それはぼくにも……」
 ジェムが頼りない様子でそう答えようとした時、ふいにシエロの声の調子が変わった。ジェムははっとしてシエロを見る。
(――まわりの空気の色が変わった……)
 ジェムに理解できたのは、そんな曖昧な感覚だけだった。
 やがてシエロの声の音階が段々に高くなっていることに気がついたが、それはことの本質からすれば二の次でしかなかった。
 一般的な歌とは明らかに違う独特の節回し。
 シエロは二人の存在などまるで意識にないかのような、真剣な顔で宙を睨んでいる。
 頑ななまでに真摯なその様子とは裏腹に、その唇から溢れ出る声は流れるように伸びやかで美しい。
 朗唱師としての役割にもついていたこともあるバッツが、まれに聞かせてくれる力強い歌声とも違う。
 どこまでも透き通るような声だった。
「――すべては、天空(あま)翔ける至高の純白のために……」
 ダリアが呆然としたようにシエロの謳う一節を、ギュミル諸島の言葉にして呟く。
 だが、この段階に来てもまだ彼にとっては喉馴らしに過ぎなかったらしい。
 ジェムとダリアが呆然と見守るなか、彼は一拍あいだを置いて深く息を吸い込む。
 そして――、それを解き放った。



「……っ!」
 ジェムはまるで電撃を浴びたかのような衝撃を受けた。
 それは恐ろしく高い音域だった。そのくせ、声量はちっとも衰えていない。
 まさに全身の毛穴が開く感覚。
 いや、それは確かに言葉通りの衝撃だった。
 あまりにも高すぎて、音としてはうまく聞き取れない。だけれど空気の震えは肌で感じることができた。
 音とは耳で聞くのではなく、身体全体で感じ取るものなのだということにジェムは始めて気がついた。
 人の声とは違う。例えるならば風や波の音、雷鳴の轟き、そういったものと同じところに属する音。
 ジェムは、それがシエロの喉から出ているということが信じられなかった。そしてダリアもまた別の部分で衝撃を受けていた。
「精霊言語……っ」
 ダリアは信じられないという顔でシエロを見ていた。
 精霊言語という言葉はさすがのジェムでも聞いたことがあった。
 それは文字通り、精霊が用いる特殊な言語だ。
 世界を構成する元素に干渉することができる唯一の手段。
 精霊だけが操ることができる神秘の言葉。もちろん人の身では発することはできないはず。
 まさか、とジェムはダリアの言葉を疑うがそれを嘲笑うかのように効果は顕現する。
 始めは気のせいかと思うほど弱々しく、しかしやがてはっきりと空気の動きが頬をかすめる。
 風が吹き始めたのだ。
「しめたっ」
 ダリアは途端に目を輝かせると、するすると異様な速度でマストを降りていく。いっそ落下と言っても差し支えないほどのスピードだが、もともとが風霊の愛し児である。身の軽さを最大限に利用して怪我ひとつなく甲板に降り立つと、船員たちを急き立てて帆を風向きに合わせた。
 やがてゆっくりと船は動き出す。ジェムもそのことに喜びを隠せなかった。
 弱弱しい風ではあったけれど、船員の技術が巧みなのか《イア・ラ・ロド》は徐々に迫ってくる私掠船を引き離していった。
 もっとも封印石の効果が及ぶ海域を抜けるまでは気は抜けない。
 ジェムはおずおずと謳い続けるシエロをうかがうが、さすがのシエロも余裕たっぷりと言うわけにはないようだった。
 それどころか顔は苦しげに歪み、額には脂汗まで滲んでいる。呼吸が苦しいのか手が喉もとをさまよっていた。
 ジェムはその姿を痛ましげに見守るが、自分にできることは何もない。
 いったいどれだけ歌声が続いただろう。
 やがて弱々しいシエロの風を打ち払うように、唐突に風が《イア・ラ・ロド》に吹き寄せた。
 とうとう禁呪に冒された海域を抜けたのだ。
 同時に断ち切られるようにシエロの歌声は止んだ。それでも船は止まらない。帆が力強く膨らみ、下方からは歓声が聞こえる。
 ジェムはほっと胸を撫ぜ下ろしたが、その目の前でがくりとシエロの身体が傾いだ。
「シ、シエロさんっ!!?」
 低い手擦りの向こうは、数十メルトルの高さ。いくらシエロでもここから落ちればただではすまない。
 ジェムは息を飲むと慌ててシエロの服を掴み引き寄せる。二人はそのまま檣楼の床に倒れこんだ。
「あ、危なかった……」
 今度こそジェムは深く安堵の息をついた。
 気の緩みから一瞬意識を失っていたらしいシエロだが、その衝撃で目を覚ましたらしい。
 シエロは床に転がったまま、激しく咳き込んだ。この分では、もしかすると呼吸まで止まっていたのかもしれない。
「シエロさん、大丈夫ですか……?」
 恐るおそるジェムが気遣うと、シエロは咳き込み過ぎて涙の滲んだ目をジェムに向ける。そしてまだ小さく咳を繰り返しながら指で小さく丸を作った。
「あ、えっと……」
「(無茶しすぎた。しばらく喋れない……)」
 シエロは無声音と唇の動きだけで告げてくるが、それだけで喉が痛むらしい。途端に眉を顰めた。
 どういう技を使ったのかは知らないが、人の身でシエロは不可能とされる精霊言語を操ったのだ。
 それでなくてもあれほどの高い音域で休みなく歌い続けた。喉が潰れてしまうのも無理はない。
 ジェムは苦しげな表情を浮かべるシエロの背を、労わるように撫ぜた。
「無理に喋らなくてもいいです。とりあえず下に降りましょう。大丈夫ですか?」
 シエロは無言で頷く。ジェムはシエロを促した主檣を降りた。
 もっとも降りる際には調子の万全ではないシエロに支えて貰いながらという情けない姿を晒すことになったのだが、甲板にたどり着いたときにはそんなことを気にするどころではなかった。
 それどころでは無い騒ぎが起こっていたのだから。

 

 けして下には視線を向けず、身体は綱から少し離して。
 教えてもらったコツに忠実に従いながら、震える足を叱咤してジェムはどうにか甲板に降り立った。そこでようやくほっと息をつく。
 しかし顔を上げたとき、ジェムは周囲の様子に眉をひそめた。
 ぴんと張り詰めたような、異質な空気。
 風がようやく吹いたことで、本来なら意気揚々とそれぞれの持ち場にいるはずの船員たちがみな一ヶ所――主檣のそばに集まっている。いや、集められている。
 彼らの顔に浮かんでいたのは、困惑と焦燥。そして口惜しさ。
 呪われた海域を脱出できた喜びはどこにもうかがえない。
 そしてそうした人々の中には船長であるはずのダリアの姿もある。
 これはただ事ではない。
 すわ何事かと思っていると、その人ごみの中からフィオリが飛び出し、ジェムとシエロの傍でようやく人心地ついたと言わんばかりにほっと息をついた。
「フィオリさん、あの、いったいこれはどういう事なんでしょうかっ?」
 事情がいっこうに掴めないジェムが、焦ったようにフィオリに事の次第を求める。しかしフィオリも首を横に振った。
「あたしもよく分からない。ただ、封印石の海域を抜けた辺りから急に船内が騒がしくなって。それで、皆を一ヶ所に集めろって――グレーンさんが……」
「グレーンさんが?」
 船長が招集をかけるならまだしも、なぜ操舵手でしかないグレーンが皆を集めるのか。
「――まったく。『風喚び』に及ばずとも強力な風霊の加護をお持ちの方だとは思っていましたが、まさかこんな厄介な特技までおありでしたとはね」
 すっかり計画が狂ってしまった。と、冗談めいた、しかし明らかに苦々しげな笑みが漏れ聞こえる。
 はっとジェムが顔を上げると、そこに背後の数名の人間を引き連れたグレーンが優雅に杖を突きつつ彼らの前に姿を現した。
 彼らの顔には集められている船員たちとは違う、優位を感じさせる余裕めいた表情が浮かんでいた。
 周囲の他の船員たちの緊張感をはらんだ空気と彼らの纏う落ち着き払った雰囲気があまりにもちぐはぐで、ジェムはほとんど悲鳴のように優しい兄のようだった操舵手に問い質す。
「あの、グレーンさん。これはいったいどういう事なんですか!?」
「あなたは、すでにお判りなのではないですか」
 グレーンはいつもと代わらぬ穏やかな微笑みを浮かべていた。
 そしてその表情のまま、はっきりとそれを告げた。
「この船は我々が占拠させていただきました」
 あまりのことに、ジェムは言葉を失った。