第四章 7、裏切りに求められる代償(1)

 


 自分に与えられた任務は、ノート島の留学生の護衛兼話し相手だった。もちろん相手はただの留学生では無い。対象はノート島の皇族、皇子殿下だった。
 かつては敵対しあっていたノート島とダグ島であったが、現在は停戦し、表向きは友好的な関係を結んでいる。それでも長年の遺恨は尽きることなく、緊張状態は未だ続いていた。
 だから彼の立場は留学生と言う名の人質だった。
 彼は、自分が今まで見たことの無いような類いの人間だった。年の頃は自分よりも幾分か上だけれど、その性格はまるで無邪気な子供のようだった。
 国のために人質となり、さぞや悄然としていると思いきやダグ島に来るなんて滅多にできない体験だから心ゆくまで楽しむつもりだと、嬉しそうに笑っている。
 そして敵国から使わされた護衛である自分にまで、まるで旧年来の友人であるかのように親しく接し、頼りにしているからと心からの信頼と感謝を寄せる。
 その様子に胸が痛くなった。
 どれだけ友好を深めようと、信頼を与えようと自分は彼にとって敵国であるダグ島の軍人でしかない。何より表向きは護衛であるが、その実態は監視役。いざ事が起これば、暗殺者にさえ変貌しかねない人間なのだ。
 信頼してくれるなとどれだけ訴えようと思ったことか。いつか裏切る可能性のある相手に対し、親密になる必要はないと。
 だけどそんなことは言えるはずが無い。
 胸の痛みを堪えながら、ただ優秀な護衛官として仕える日々を送っていた。そんな中、その事件は起きた。






 叛乱。
 ジェムの頭に真っ先に浮かんだのは、そんな言葉だった。
 それは上からの統制に下のものがそむいて起こす乱であり、海賊船のみならず規律に縛られた海軍でも、稀に起こることであるらしい。
 しかし圧政を敷いているわけでもないこの『イア・ラ・ロド』で、しかも船長であるダリアととても親密な関係を築いているように見ていたグレーンがなぜ叛乱などを起こさなければならないのか。
 ジェムは唖然としたままに、グレーンに尋ねる。
「あの、いったいどうして……?」
「そうだっ! グレーン、答えろ! いったい何が目的なんだっ!」
 ダリアが鋭い眼差しをグレーンに向けて声を振り絞る。しかし、その眼差しの奥に困惑を宿しているのは明らかだった。
「理由を知りたいの、ですか?」
 グレーンはうっすらと笑みを浮かべ、ジェムを見る。
「蜂起の理由は、ただひとつ。船を我々の思い通りに動かすためですよ」
 それが、単なる方角のことを言っているのでは無いということはジェムにだって分かっている。すなわち、グレーンは船の方針を自分の思う通りに決めたいと言っているのだ。
「もちろん、私利私欲のために、この船を操りたいと言っているのではありません。我々は本当にこの船のためを思ってしたことです。なので、どうぞ抵抗はしないで頂きたい」
「でも、やりたいことがあると言うんでしたら、これまで通り決議を取ればいいじゃないですか! 本当にグレーンさんがしたいことが船にとって一番いいことならば、皆だって賛成してくれるはずですよ……っ!」
 そう。この船は船長の独断で動いているのではない。全員の協議によってその進むべき方向を定めている。
 本当にグレーンのすることが正しいのなら、その主張が通らないはずがない。
「果たして、そううまくいくものかねぃ」
 さらりと口に出された言葉に、ジェムはぎょっとして隣を見る。それは複雑そうな面持ちのエジルだった。
「おい、お前っ。お前もあっちの味方なのか!」
「いや、そういう訳じゃありませんぜぃ。ただ、向こうさんの言う事も一理あるなと思っただけでせぇ」
 噛み付きそうな顔で迫るダリアにエジルは慌てて首を振る。
「多数決で採択する海賊船のやり方には、何も問題がないわけでもないってことでさぁ」
 どこか残念そうな表情を浮かべるエジルの言葉に、グレーンは満足そうにうなずいた。
「多数決で決めると言うことは一見公平なように思えますが、それは少数意見が切り捨てられているということでもあります。なによりも問題なのは、選択権を与えられた人間が、本当に主体性を持って選んでいるかと言う事なのです」
 グレーンはどこか苦しそうな、それでいて責めるようないたく複雑な表情で船員たちを見る。
「将来に目を向けることなく、ただ目先にぶら下げられた耳あたりの良い甘い言葉に惑わされ、大きな声にばかり耳を向け、自ら考えることもせず、それで選んだ道が本当に正しいものだと言えるのですか。己の意志もなく、ただ周囲に流されるままに選ぶのならば、我々のこうしたやりかたはいっそ害にしかなりえない」
 ジェムは思わず口を閉ざした。グレーンの言うことは、正鵠を射ているように思えたからだ。
 選択する権利を与えられても、与えられた側がそれを意識して行使しなければ、それは与えられた権利を放棄していることに等しい。いや、それどころか正論を退け間違った道に全体を導くならば、それはないほうがマシなのかもしれない。
 海賊たちに突きつけられたその問題は、同時に自分自身に向けられたものようにもジェムには感じられた。
 自分の選んだものは、果たして本当に正しいのか。
 自分に自信が持てないジェムにとって、それは常に襲い掛かる不安であった。
「それで、おまえはいったいどうしたいんだ?」
 グレーンはダリアからわずかに視線を逸らして、答えた。
「私略船の門下に下ります」
 海賊たちの間にどよめきが走った。
「なぜ、そうしようと考えた」
 ダリアは固い口調でグレーンをじっと見る。グレーンは視線を合わせないままに、淡々と答える。
「これまでのやり方では、これからの世界の流れに乗り切れないと思ったからです」
 ギュミル諸島の戦争が終わって、五年。世界は今、激変の過程にある。
「これから、ギュミル諸島に北の八大王家が乗り込んでくることになるでしょう。これまではノート島もダグ島も民間貿易を禁止すると言う形でかの大陸との接点を制限していましたが、戦争が終わり両島の国力が低下している今、その好機を奴らが見逃すはずがありません」
「つまり、今の《イア・ラ・ロド》ではその流れに飲み込まれ壊滅しかねないと? それを防ぐために、お前は私略船の奴らと通じていたのか?」
「概ね、間違いではありません」
 グレーンは頷いた。私略船は北の大陸の国家の許可を受けた海賊船だ。それと通じることは、いわば北の大陸におもねることに等しい。
 グレーンはジェムの方をちらりと見る。
「海賊島であなたを襲わせたのも私です。あなたは私が密会の場所へと赴く所を見られましたからね」
 薄々気付いていたことだとは言え、ジェムはわずかな衝撃を覚えた。あれだけ親身に世話を焼いてくれたグレーンが、本気で自分を殺そうと思ったことに理解とは別の部分で胸に痛みが走った。
「……グレーンさんに剣を向けていたのは、誰だったんですか?」
 痛みを堪えながら尋ねた問い掛けに、グレーンはあっさりと答えた。
「あれは海軍の手のものですよ。私略船は密貿易を営む武器商人たちとも関わりがあるので、その関係で探りを入れていたのでしょう。我々の邪魔をされても困るので、わざと誘き寄せ捕らえたのです」
 その言葉に、ジェムは少しだけほっとした。最悪、同士討ちをしていたとしてもおかしくはなかったからだ。
「グレーン」
 ダリアは、硬い声で長らく供にいた仲間を呼ぶ。
「確かにお前の言うことは、一理ある。だが、それ以上ではない」
 海の色を宿したその目は、厳しくグレーンを見据える。静かな視線の苛烈さに、ジェムはどきりとした。
「確かに俺らの方針を決めるためのやり方には、お前の言うとおりの欠点がある。それでも、俺たちが、海賊が選んだのはこうした方法だったんだ」
 例え他のどんな方法を選ぼうと、そこには一長一短がある。どれを最適と思うかは、それぞれの状況にも寄るだろう。
「グレーン」
 ダリアはもう一度相手を呼ぶ。
「お前は、まだ一度も俺の目を見ようとしないな。それはどうしてだ」
 グレーンは答えず、視線をわずかにそむけたまま。
 ダリアは鋭い目つきでグレーンを睨みつけたまま、はっきりと言った。
「お前が本当に自分の考えに自信があるのなら、こんなことをせず堂々と自分の意見を主張すればよかったんだ。そして、納得させた上で採択に臨めばよかったんだ。それをせずに、こんな方法で意見を通そうするお前の行動に、義はない。それは単に駄々を捏ねているに過ぎない」
「それは――っ」
 ようやく、グレーンはダリアに視線を向ける。けれど、ダリアの目は冷たかった。
「本当に、それが正しいと思っているのなら、俺たちを説得できるまで、分からせるまで、否定されても拒絶されても何度でも言えばよかったんだ。それを怠ったお前は臆病者、いや卑怯者だ」
 ぐっと俯き、グレーンが唇を噛む。しかし再び顔を上げると、硬い声で言った。
「確かに、やり方がまずかったことは認めましょう。しかし、一度流れに乗り、動き出した船を止めることはできない。やがては、あなたたちも私たちのしたことが正しかったと理解してもらえる時がくるでしょう。だから、今は我々に従って――、」
「なにより、そこに間違いがあるんだ」
「なに?」
 グレーンが訝しげな表情を浮かべる。
 その言葉を証明するように、船が激しく揺れだした。
「な、なんだっ!?」
 海賊たちはみな一様に慌て出す。
 見れば、私略船から一抱えもありそうな岩が雨のように飛んできて、船を破壊しているのだ。
「投石器だ!」
「私略船が攻撃を仕掛けてきたぞっ」
 グレーンは呆然とした表情を浮かべる。
「なっ……、どうして!?」
「あいつらは、信用するに足るような奴らじゃない」
 ダリアは、くっと唇を笑みの形に歪めた。
「騙されたな、グレーン」
 だが、その目にはむしろ哀れむような色が滲んでいた。