第四章 エピローグ 約束の海は遠く(1)

 


 小船からロープで引き上げてもらい、イア・ラ・ロドの甲板に戻ってきたジェムはその途端にエジルに強く抱きしめられた。
「ジェムっ、良かった。どうなることかと思った」
「エジルさん、ご心配をお掛けしました」
 細身ではあるものの存外たくましい腕から身を引き剥がして、ジェムはどうにか息をつく。
「ゼーヴルムさんが……ぼくの仲間が偶然にも助けてくれたんです」
「そうか、彼は君にとって頼りになる人なんだねぃ」
「はい。本当に」
 ジェムは力強くうなずく。さすがにゼーヴルムにともに海賊船に乗り込んで欲しいとは言えず、小船をイア・ラ・ロドの横につけてもらったあと彼は元いた船に戻った。
 けれどこの一連の騒動が終わればまた合流することも適うだろう。そのためにも今目の前の私略船をどうにかする必要がある。
「あの、シエロさんはいますか? 精霊魔法を使わずに、あの私略船を足止めする方法を考えたんです」
 そう言って辺りを見回すまでもなく、シエロはすぐに見つかった。
 シエロは自分を指差して困ったように笑みを浮かべた。それは言外に「もう歌えないよ?」と言っているとわかったので、ジェムは慌てて首を振った。
「いえ、そうじゃなくって、『風の聖玻璃』はまだお持ちですか?」
 樹神の森で風魔鳥に追われた自分たちを助けてくれた道具『風の聖玻璃』。別名を『風玉』とも呼ばれるそれは、風霊魔法によって効力を現すものではないと確かにシエロから聞いていた。
「ぼくが頂いた分は自分の荷物の中に入っていたので、いま手元になくって……」
 その言葉にシエロも気付いたようだった。そして懐に手を入れると硝子玉にも見える透明な球体を取り出した。
「それはなんだい?」
「これはシエロさんのお持ちの術具で、中に風の元素(エレメント)が詰まっているんです」
 物珍しそうに覗き込んでくるエジルにジェムが答える。七つの海を渡る船の積荷を拝借し、密貿易を主たる生業にする海賊船の乗組員たるエジルでもはじめて見るらしい。本当に、いったいシエロはどこからこんなものを手に入れたのだろうかと、以前と同じ疑問をジェムは抱かずにはいられなかった。
「この玉の封印を解除すると、すごい勢いで風が吹き荒れます。私略船の傍でそれを行えば、きっと私略船もただでは済まないと思うんです」
 風の聖玻璃によって吹き出す風は、嵐もかくやという程のもの。下手をすれば私略船自体が沈んでしまう可能性はあるが、周囲をこれだけの船が囲んでいるのだ。船員たちを一人残らず救助することはおそらく不可能ではないはずだ。
「今シエロは声が出せないみたいだけど、これは彼じゃなくても使えるものなのかい?」
「大丈夫だと思います。以前シエロさんが使い方を教えてくれると僕に言ってくれていました。生憎それはまだ叶っていませんけれど、その時に唱えていた呪文なら覚えていますから」
 あとはその時の彼の言葉が軽口でないことを願うのみだが、今のシエロの表情を見るにどうやらそれはなさそうだ。
「でも、それをどうやって私略船まで持っていくの?」
 不意に告げられた言葉にジェムははっとして振り返る。視線を向けられた方もぎょっとしたようで、しどろもどろに言葉を紡いだ。
「あたしはそれを知らないけれど、封印を解けば好きな場所に風を起こせるものなの? それならいいけれど、そうじゃなければどうやってその玉を私略船の元まで運ぶかを考えないと」
 フィオリの言葉にジェムはようやくその必要性に気がついた。確かに今いる船から私略船までは距離がある。大型の投石器でもない限りは放り投げても決して届かない距離だ。
「精霊魔法……は、あの海域では使えないんでしたよね」
 普段精霊魔法を便利に利用しているからこそ、いざそれを封じられた時にはどうしていいのか分からなくなる。せっかく思いついた起死回生の手段だというのに思わぬ障害に行きづまってしまい、ジェムは臍を噛んだ。
「よし、仕方がありやせん。こうなったら禁じ手を使わせていただくことにいたしましょう」
「え?」
 ジェムはぎょっとしてエジルを振り返る。エジルは少しばつの悪そうな顔でジェムを見て苦笑する。
「今からする手段は決して真似しちゃあいけませんぜぃ。……とりあえずは、あの人がまだ生きていることを願うばかりでさぁ」
 何のことか分からずきょとんとするジェムの手を引いてエジルが向かったのは、ダリアの元だった。
「お頭、グレーン操舵手殿とは話はできやしょうか?」
「……ああ、エジルか」
 窓に覆いをかけた薄暗い船長室で、ダリアは疲れ切ったようなどこか焦点の定まらない表情でエジルを見上げる。
「たぶん大丈夫だろう。さっき処置を終えて痛み止めを飲ませたが、まだ意識はある」
 ダリアの足元にはグレーンが横たわっていた。壊れた義足は取り外され、主檣に押しつぶされた生身の足は膝上から切断されていた。
 その痛ましい様子を直視できず、ジェムは思わず視線を逸らしてしまう。
「やっぱりうちの船医は優秀だな。一刀の元、こいつの足を切り落としてくれた。傷口はすぐに焼いて塞いだから、たぶん出血死は防げるだろう」
 ダリアは冗談めいた口調でそう呟くが、そこにはいつもの力強さは窺えない。まるでグレーンの痛みを代わりに感じているかのようだった。これではまだ、グレーンの裏切りが明らかになったときのほうが威勢もよかっただろう。
「お頭、お前さんはこんな所でいったい何を油を売っておいでで?」
 エジルがため息混じりの呆れた声でそう尋ねる。ダリアは反射的に鋭い視線で彼を睨みつけたが、それに欠片も怯む様子を見せずエジルは静かにダリアを見つめていた。
「お前さんはこの船の船長だ。上に立つ者は上に立つ者の責任がある。有事に直面している今、お前さんのやるべきことはここでうじうじと船員一人の心配をすることじゃないと違いますかぃ?」
「それは……!」
 手厳しい一言にダリアは反論しようとするが、紛れもない正論に返せる言葉はなく、悔しげに視線を落とすだけだった。エジルはふっと笑みを浮かべると、どこか茶目っ気の含んだ口調でダリアを諭す。
「お頭、お前さんにはお前さんにしかできないことがありやしょう。それを間違えちゃあ、なりやせんぜ。さもなければ、船員たちの投票で船長の役目を降ろされてしまうかもしれやせんぜ」
 その言葉にダリアははっとしたように顔を上げた。そしてしばしの沈黙のあと、神妙に頷いた。
「そうだな。俺には俺にしかできないことが確かにある……」
 ダリアは勢いよく立ち上がり、真っ直ぐ扉まで向かった所で振り返った。
「あとで人をよこす。それまでそいつが無茶をしないように見張っておけよ」
「承知いたしやした」
 威勢良くそう命じて出て行くダリアに、エジルは笑顔で承諾する。ダリアの後姿が見えなくなってから、エジルは自分の足元で横たわる人間に声を掛けた。
「お頭は、今だにお前さんが気に掛かって仕方がないご様子でさぁねぃ」
「……今だけでしょう。この戦いが終われば、私は間違いなく裁かれることになりますからね」
 押し殺したような静かな声が返ってくる。
 この船の掟では、敵に寝返った者は死刑か無人島に置き去りの刑を架すと決められている。それは彼らにとってはもっとも重い刑罰のひとつだ。
「それが分かっていて、何故こんなことをしでかしたんでさぁ?」
「いったい何を求めて私の元に来たのかは知りませんが、今更あなた方に協力するつもりはありませんよ」
 エジルが尋ねるが、グレーンはそれには答えずに視線を逸らした。失った足が痛むのか、それとも傷口が熱を持ったのか。グレーンの荒く苦しそうな呼吸の音だけか船長室を満たしていた。エジルは小さくため息をつく。
「グレーン操舵手殿。お前さんがしでかしたことは、やっぱりこの船では許されることじゃありませんでさぁ。だけどね、ぼかぁお前さんの気持ちが、何故お前さんがここまで必死になっていたのか少しばっかり分かるつもりなんでさ」
 どこか同情するような彼の声に、グレーンはちらりと厳しい視線を向ける。それはエジルに、否、他の誰にさえ自分の気持ちが分かるはずがないと、その軽々しい言動を咎めているようでもある。その視線の持つ意味に気付いてないわけでは無いだろう。けれどエジルはその視線を真っ直ぐに捕らえたまま一つの名を告げた。
「ユニオネス・ローゼ・マーガリタ」
 はっとグレーンの顔色が変わった。ジェムは不思議そうにこれまで聞いた事のない名前を口にしたエジルを見る。
「お前さんは十六年前に失踪したこの皇太子殿下の従者だった」
 これまでとは口調さえもがらりと変え、エジルは淡々とグレーンに告げる。ジェムも思わず息を飲み、交互に二人を見た。
 ノート島には今いる二人の皇子殿下の他に十六年前に失踪した優秀な皇子がいたのだと、それをジェムに教えてくれたのはグレーンだった。エジルの言葉が確かなら、その時に彼が見せた辛そうな表情の意味もようやく理解できる。
「何故、それを……」
 グレーンの唇がわななく。信じられないと言わんばかりの眼差しを、エジルはただ受け入れていた。
「お前さんが覚えていなくても、僕ぁ、お前さんに見覚えがあったというだけの話だよ」
 何でもないことのように、エジルは言う。
「常に皇子の一番近くに侍り信頼も厚かったお前さんは、敬愛する殿下が行方不明になったとき彼を探すために出奔したと聞いた。だけどユニオ皇子は見つからなかったんだろうね。そしていつしか過去を捨てダリア船長と共に歩む道を選んだ」
 グレーンは耐えるように唇を噛みしめた。エジルが暴く過去はグレーンにとっては思い出すのも辛いことに違いない。ギュミル諸島の海の民は忠義に篤い民族であると聞く。大切な主を失い、そしてその捜索を諦めた過去をグレーンは雪ぐことのできない恥として捉えているのだろう。
 だけれど一方でエジルの声には一切グレーンを責める響きはなく、むしろそこには憐憫の感情が込められているようにジェムには感じられた。
「他者を惹き付ける魅力を持っていると言う点では共通しているかも知れないけれど、ダリア船長とユニオ皇子は顔も性格もちっとも似ていない。だから操舵手殿が二人を重ねてみていたことはないというのは分かっているよ。だけど、一生を捧げられると思える相手を二度も失うことにお前さんは耐えられなかった」
 それを怖れるが故の暴挙だったのだろう、とエジルは視線でグレーンに問う。グレーンは黙したままだったが、その伏せた瞳に浮かぶ悲痛の色を見ればエジルの推測は事実に遠く及ばない訳ではないと推し量ることは難しくはなかった。
「……お前はいったい?」
 探るように言葉を選ぶグレーンにエジルは笑みを返した。
「僕はエジル。顔は分からなくても名前は聞いたことがあるんじゃないかな」
 謎掛けのようなその答えに一瞬考えるような素振りを見せたグレーンだったが、ふいに何かに思い当たったらしくはっと顔を上げてまじまじとエジルを見た。エジルはにこやかな笑みを浮かべたままグレーンに視線を返していたが、やがてグレーンは小さくため息をついてエジルに尋ねた。
「いったい何が望みだ?」
「うん。実は操舵手殿の鳥をお借りしたいんでさぁ」
 その答えに、むしろジェムの方がきょとんと目を丸くした。