第四章 エピローグ 約束の海は遠く(2)

 


 ジェムは自分の思いついた作戦をグレーンに告げた。彼はすぐさまエジルの望んでいることを理解したらしく、窓に掛けられていた覆いを外すように言ってから、震える指を口元へ運んだ。鋭く甲高い音で指笛が鳴り響くと、覆いの外された窓の縁にわずかに青みがかった灰色単色の鳥がとまった。海賊船〈イア・ラ・ロド〉の伝書鳥だった。
「伝書鳥の管理はこの船では操舵手殿の管轄だったからねぃ」
 エジルが言うとおり、グレーンの元に連れて行った鳥はグレーンがそっと首元を撫でると気持ち良さそうにクルクルと喉を鳴らした。
「この鳥を使いなさい。手紙を入れる筒に少し手を加えれば、その術具を運ばせる事もできるでしょう」
「あ、ありがとうございます」
 ジェムは礼を言って伝書鳥を受け取る。煙った灰青色の鳥はつぶらな瞳でジェムを見上げている。
「でも、この鳥さんは僕が指示したことでも聞いてくれるんでしょうか……?」
「無理でしょうね」
 あっさりと返された言葉に、ジェムは思わず顔を引きつらせる。
「ですが、どのみち船員に接触せず相手の船に術具だけを置いて来いなどという複雑な命令は、短時間で覚えさせられるようなものではありません。そこはダリアの精霊にでも頼んで刷り込ませるしかないでしょう。彼も元々そのつもりだったんではないでしょうか?」
 ちらりと視線を向けると、朗らかな笑顔のままエジルはうなずいた。
「ですが」
 グレーンの声にわずかな躊躇いが生じる。
「元来伝書鳥は手紙を運ぶもの。だからこそ伝書鳥には危害を与えないというのが我々の間では不文律になっていたはずです。その伝書鳥を戦闘に利用すれば、いずれそうした暗黙の了解すら破られることになる。あなた方はそれを念頭に入れて置いてください」
「分かっておりまさぁ」
 エジルは小さく笑みを浮かべ、目を細める。その笑みはどこか自嘲するような色をまとっていた。
「他に方法があれば、慣例を悪用するような真似は僕だってしたくはありませんでしたさぁ。それはともかく操舵手殿、引継ぎのものが来るまで無茶はしないでくだせぇよ。船長から念をおされてしまっておりますからねぃ」
 小さくため息をつくと、鳥を抱えたジェムの手を引きエジルは船長室を後にした。



 ダリア船長に協力している風霊アイセは、やはり私略船の封印石と精霊兵器には怒りを隠せないようで、喜んで力を貸してくれた。
「生物の精神操作は風霊じゃなくて樹霊の方が得意なのよね」
 そう言いながらも伝書鳥に身を寄せると、人には聞き取れない言葉で何かをぶつぶつと呟いていた。その様子はむしろ鳥同士が羽の毛繕いをしているようにも見えて、ジェムは場合にも関わらず微笑ましく思ってしまった。
「さぁ、これで大丈夫よ。この子はあの船の上空からその玉を落としてすぐに離れるわ。巻き込まれることはないはずよ」
「分かりました。ありがとうございます」
 ぺこりとジェムはお辞儀をする。深々と頭を下げていたせいもあるだろう。ジェムはアイセの目に浮かんだ、どこか心配するような色に気付くことができなかった。
「ねぇ、その道具の封印を解く鍵句って、なんて言葉なの?」
 フィオリが興味深そうに尋ねてくる。ジェムはシエロへの確認もかねて、シエロがあの時唱えていた呪文を口にした。
「ええっと、『――風であり鳥であり空の一部である者の名において……』」
 記憶に残っている言葉を最後の一句まで唱え、ジェムは不安げにシエロを見る。シエロは問題無いと言う様にうなずくが、何か言いたげなもどかしげな表情を見せた。それを引き継いだのは、エジルだった。
「たぶん、その鍵句はそのままじゃ使えないだろうねぃ。名告げが彼の呪名になっておりやさぁ」
「呪名?」
 ジェムが首を傾げる。
「うん、呪名。精霊使いは精霊魔法を発動させるための呪文――鍵句(キー・スペル)を唱える時、まず精霊に対して名乗りを上げるのが作法なんでさぁ。これを『名告げ』と言うんですけどねぃ、その時に名乗るのは普段使っている名前では無く、自分の本質を示す『呪名』ってことになっているんでさぁ」
 つまりシエロの場合は「風であり鳥であり空の一部である者」というのがその「呪名」になるということだろう。
「この風玉って術具は精霊魔法を使うんじゃないんだろうが、でも使い方は精霊魔法とほとんどおなじなんじゃないかねぃ」
「で、でも僕はそんな「呪名」なんて持ってないですよ!」
 ジェムは慌てる。自分はこれまで精霊魔法とは縁のない人生を歩んできたし、自分の本質だなんて言われてもさっぱり思いつくものがない。
「いや、そのまんまじゃ使えないってだけで、お前さんには使えないとはいっておりやせんって」
 エジルはぶんぶんと首を振る。
「つまり、『名において』ではなくて、『名を借りて』ってすりゃあ解決でさぁ」
「えっ、そんなもんで大丈夫なんですか?」
 目を丸くするジェムに、エジルはけらけらと笑う。
「まぁ、これが精霊魔法だったら色々と問題はあるだろうけどねぃ。精霊魔法じゃなくて、術具を使うだけなら大丈夫なんじゃあねぃかい?」
 確かめるようにエジルがシエロに視線を向けると、彼は肩をすくめて苦笑するように笑った。どうやらそれで問題はないらしい。
「じゃあ、それでやってご覧なせぃ」
「はい」
 ジェムはしっかりと頷いた。
 『風の聖玻璃』を持った青灰色の鳥が飛び立ち空の青に紛れる。今回の作戦は鳥が無事に風玉を私略船まで運んでくれるかどうかに掛かっている。ジェムは鳥が飛んでいるであろう方向を真剣な眼差しで見ていたが、ふと隣に立っているエジルに尋ねた。
「そう言えば、エジルさんの呪名ってなんていうんですか?」
「えっ?」
 それは彼にとっては思いがけない質問だったのだろう。ふと振り返ってたずねたジェムの言葉にエジルは反射的に狼狽を示した。なにか悪いことを言ってしまったのかと不安になるジェムに、エジルは苦笑して応えた。
「【血に継ぎし海王に侍る名において】さ。……さぁ、準備ができたみたいですぜ」
 ピィィッと甲高い鳴き声がここまで聞こえた気がした。実際はかなり距離があるため聞こえるはずがないのだが、事実グレーンの伝書鳥は私略船の上を旋回しこちらへ飛んで戻ってくる。
 ジェムは大きく息を吸って呼吸を整えると、不思議と逸りそうになる気持ちを押さえつけながら鍵句(キー・スペル)を口にした。

《風であり鳥であり空の一部である者の名を借りて。我いまここに希求するは、揺れ動く大気の流れと気流の変動――、》

 ピリピリと一言唱えるごとに肌が粟立つように感じるのは緊張のせいか、あるいは不思議な力が働いているせいなのだろうか。
 しかしそれはまるであの日のシエロを演じているようで、ジェムは浮つくような高揚感も合わさり薄っぺらな現実味しか感じられなかった。
 皆に取り囲まれるように甲板に立ちながら、ジェムはふいに自分の身体が宙に浮き、鳥のように高い目線から私略船を見ているような感覚を覚えた。もちろん実際には甲板に足をつけて私略船に視線を向けていたのだが、その一方でその意識はマストよりも高い所にあった。

《――荒波が打ち寄せるが如くに空気は質量を持って押し寄せる。もはや汝を縛る鎖はあらず――》

 ドキドキと胸が高鳴る。それは未知の領域に対する不安とそれを上回る期待感。解放を得て、鎖から解き放たれるのはむしろ自分であるかのようだ。
 けれど、その一方で一抹の不安も過ぎる。本当にこれでいいのかと、確固たる物を持たない未熟な自分が本当にこんな力を振るってもいいのかと萎縮する気持ちが浮つき興奮する感情を一気に冷ます。
 そんな戸惑いがジェムの動きを差し止めるよりも早く、しかしジェムの口は鍵句の最後の一節を唱え終えていた。

《――風よ、思うがままに吹き荒べ!》

 その途端、凄まじい突風がジェムの身体に打ち付けた。


 いや、それは単なる錯覚に過ぎなかっただろう。風玉の効果はジェムたちのいる《イア・ラ・ロド》までは及ばない。しかしその中心である私略船に与えた影響は計り知れなかった。
 私略船は突如嵐の真ん中に放りだされたかのように、激しい突風に翻弄された。ここからは私略船は乱暴に遊ばれている子供の玩具にすら見えるが、実際に船にいる者たちにとっては溜まったものでは無いだろう。
 解き放たれた風は荒ぶる獣のように吹きすさぶ。旋回する大気は海水を巻き上げ濁流が渦を巻く。もはや私略船に為すすべはなかった。有らぬ方向に捻り上げられた帆が風の勢いに負けてマストごとへし折れる。捻じ切られたマストが海水に叩きつれられると同時に、風に抵抗することに負けた私略船の船体もまた、真っ二つに折れたのであった。
 それは予想以上の威力であった。本来なら浮力によって転覆してもしばらくは浮いているはずの船が、そのままの勢いで海水に没していく。それは人々には海神が彼らの所業に腹を据えかねて、船を罰として海中に引き込んだように見えたのだろう。船が海中に没して行く様子を人々は驚きと歓声をもって見入っている。
 だがジェムはその沈みゆく船の姿を最後まで見ることができなかった。ジェムは船が没するのを待たず、甲板に崩れ落ち意識を失ったからだ。